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(小話834)「凶宅(きょうたく)」の話・・・
       (一)
宋の襄城(じょうじょう)の李頤(りい)、字(あざな)は景真(けいしん)、後に湘東(しょうとう)の太守(郡の長官)になった人であるが、その父は妖邪を信じない性質であった。近所に一軒の凶宅(きょうたく)があって、住む者はかならず死ぬと言い伝えられているのを、父は買い取って住んでいたが、多年、無事で子孫繁昌(しそんはんじょう)した。そのうちに、父は県知事に昇って移転することになったので、内外の親戚らを招いて留別(りゅうべつ)の宴を開いた。その宴席で父は言った。「およそ天下に吉だとか凶だとかいう事があるだろうか?。この家もむかしから凶宅だといわれていたが、わたしが多年住んでいるうちに何事もなく、家はますます繁昌して今度も栄転することになった。鬼などというものが一体どこにいるのだ。この家も凶宅どころか、今後は吉宅となるだろう。誰でも勝手にお住みなさい」
       (ニ)
そう言い終って、彼は起(た)って厠(かわや)へゆくと、その壁に蓆(むしろ)を巻いたような物が見えた。高さ五尺ばかりで、白い。彼は引っ返して刀を取って来て、その白い物を真っ二つに切ると、それが分かれて二つの人になった。さらに横なぐりに切り払うと、今度は四人になった。その四人が父の刀を奪い取って、その場で彼を斬り殺したばかりか、座敷へ乱入してその子弟を片端から斬り殺した。李姓(りせい)の者はみな殺されて、他姓(たせい=他人の姓)の者は無事にまぬかれた。そのとき李頤(りい)だけはまだ幼少で、その席に居合わせなかったので、変事の起ったのを知ると共に、乳母が抱えて裏門から逃げ出して、他家に隠れて幸いに命を全(まっと)うした。
(参考)
@岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話833)「薔薇の奇跡(1)。貧しき者の聖母、チューリンゲンの聖エリザベート。王妃から修道女になった、その短い生涯」の話・・・
        (一)
伝説より。「貧しき者の聖母」で、いつも「右手にパンを持ち、左手にポット(水さし)を持つ」と言われた慈悲深い聖女エリザベートは、西暦1207年にハンガリーのトカイに近いところで生まれたが、彼女が生まれる前にハンガリーの有名な魔法使いマイスター・クリングゾルは星を占って、聖女の誕生を予言した。まさにそのとおりで1207年7月7日にエリザベートは、ハンガリー王アンドレアU世と王妃ゲルトルートの娘として生まれた。当時は、十字軍の遠征が度々(たびたび)行われていた頃で、東方では、モンゴルが勢力を拡大しはじめていた。その東の勢力は、次第に欧州へも影響を持つようになり、幼い王女の祖国であるハンガリーもまた、東の遊牧民族の影響を多少なりとも受けていた。そんな時、ハンガリー王のエンドレU世のもとに援軍を送ったのが、ドイツはチューリンゲンのヘルマン伯爵という人物であった。その頃の幼いエリザベートは、子供の遊びをかえりみず、教会でいつまでも熱心に祈りつづけているために、遊び友達や侍女たちは、彼女を教会からつれだすのに難儀したほどであった。1211年(4歳)、ドイツはチューリンゲンのへルマン伯爵が王子ヘルマンのために、大きな使節団をハンガリーの花嫁候補エリザベートのところへ送り込んで来た。その使節は、幼いエリザベートが気に入り、また、持参金も十分であったし、両家の結びつきは相互に有益であるとの判断から、使節団はエリザベートを連れて帰ることになった。こうして、エリザベートは4歳の時、故郷ハンガリーを後にし、未知の国への長い旅が始まった。ドナウ川のプレスブルクで家族に別れ、ブダペスト、プラハを経てルードヴィンガ家の治めるドイツのチューリンゲンに着いた。ルードヴィンガ家は精力的に、勢力を東方に拡大しようとねらっていた。エリザベートが4歳でチューリンゲンへ行ったのは、そこの領主ルードヴィンガ家の王子ヘルマンの許嫁(いいなずけ)としてあった。もの心がつく前にチューリンゲンの宮廷ヴァルトブルグ城へと引き取られた王女エリザベートは、そこでドイツ風に育てられることになった。王女は、ヴァルトブルク城で皆から愛されて、大切に育てられた。幼いハンガリー王女の養育に携わったのは、ヘルマン伯爵の妻、ゾフィーで、彼女はまた、大変敬虔なキリスト教徒でもあった。こうした影響もあって幼いエリザベートは、世俗的な幸運にめぐまれることをあまり喜ばなかった。勝負ごとをしていて勝運がつくとすぐにそれをやめて「もう勝ちたくないわ。神さまのためにとっておくの」と言ったり、親しい娘たちからダンスに誘われても、ひとまわり踊ると「ひとまわりで止めておきましょう。あとは、神さまにとっておきましょう」と言っていた。又、少女のエリザベートは、だらしのない服装をいやがり、いつもきちんとした身なりをしていないと気がすまなかった。毎日いくつかのお祈りを定めておき、何か用事があって果たせなかったり、侍女がむりやり寝床に入れてしまったりすると、夜起きて天の花婿(イエス)にお祈りをささげるのであった。祝日になると熱心にミサ聖祭にあずかった。
        (ニ)
こうした敬虔で静穏なキリスト教徒の生活をしていた王女エリザベートだったが、チューリンゲンに来て5年目、エリザベートが9歳の時に許嫁(いいなずけ)のヘルマンが死んでしまった。そのため彼女は、それから5年後、14歳の時、21歳になっていたヘルマンの弟のルードヴィッヒと結婚することになった。政略結婚で結ばれたルードヴィッヒ4世と王妃エリザベートであったが、二人はやがて、熱烈な愛情に結ばれるようになった。若い夫婦はヴァルトブルグ城で満ち足りて暮し、やがて二人の子供にも恵まれた。しかし、エリザベートは王妃の位(くらい)に登り、権力を得ても神への深い信仰は衰えることなく、それどころか、王妃としての地位を用(もち)いて、貧しい人々、乞食、放浪者たちを助けるために努力した。そのために、宮廷の反感を買うことにもあった。だが、エリザベートは、貧しい人、苦しんでいる人は、だれでも区別なしに助けようとした。エリザベートにとっては、すべての悲惨な人々の苦しみが、キリストの受難と同じものに思われたのだった。そして、そのような王妃エリザベートに、夫のルードヴィッヒ4世も理解を示していた。その頃のエリザベートには、マールブルクのコンラートという神父が告解師になっていて、この人をエリザベートは師と仰いでいた。この神父は厳格で妥協を許さない高潔な人物であった。コンラート神父のおかげで、王妃エリザベートは民衆、殊に貧しい人々の苦しみを教えられた。コンラート神父はエリザベートに、民から不当に奪い取ったものを食べてはいけないと命じた。ある日のこと、コンラート神父は、説教を聞きにくるようにとエリザベートに言った。ところが折悪しくマイセン夫人の来訪があって、神父の言いつけに従うことができなくなった。怒ったコンラート神父は、このような不従順を許さず、肌着以外は着ているものをことごとくぬがせて、同じ罪をおかした侍女たちも一緒に懲(こ)らしめの鞭をくわえさせた。エリザベートは、自分に対しても厳しく容赦ということを知らなかった。徹夜の祈りや斎食、禁欲、その他の苦行によってわれとわが肉体を苦しめた。
        (三)
エリザベートは、恵まれた地位にあったが、ひたすら清貧を愛しキリストの貧しさに倣(なら)い、この世のすべての塵(ちり)をわが身から払い落としたいと願っていた。侍女たちとだけでいるような時は、みすぼらしい服をまとい粗末な布を頭に巻きつけて「わたくしが貧しい身分になったら、このような格好になるのですよ」と言っていた。また、自分自身の生活は、できるだけ質素にしていても、貧しい人たちに対しては決して物惜しみしなかった。お金に困っている人があると見過ごせず誰にでも気前よく援助の手を差しのべていたため、人びとから「貧者の母」と慕われた。そうして、永遠の王国を手に入れ、祝せられた人たちと共に聖父(神)の右手に座ることを望んで七つの慈悲の業(わざ)を熱心におこなった。エリザベートは、着るもののない者に衣服をめぐみ、飢えた者に水とパンをほどこし、貧しい者に食べものを恵(めぐ)み、巡礼者や貧しい人びとの遺体を布衣(ほうい)にくるんで埋葬し、赤ん坊に産衣(うぶぎ)を着せて洗礼につれて行った。しばしば名づけ親を引き受け産衣は、手ずから縫ってやった。そして、援助の手を容易に差しのべることができるように代母にもなった。あるとき、偶然にも夫ルードヴィッヒ4世が皇帝フリードリヒの宮廷に出かけていた時、穀物の値が上がり、領民たちは、飢餓におびやかされた。そこで王妃エリザベートは夫の留守中、穀物倉に蓄えてあった小麦を集め、貧しい人びとを国中から呼んで毎日、必要分を施(ほどこ)した。また、手元にお金がない場合は、よく自分の装身具を売り払って、貧しい人びとを助けた。こうして、自分や侍女たちのお金の一部を差し引いて、貧しい人たちに施しをすることを日常とした。1221年(14歳)の秋にエリザベートは、一度だけ故郷のハンガリーへ里帰りしたが、それは、エリザベートがルードヴィッヒ4世と結婚した直後のことであった。エリザベートの母ゲルトルートはドイツ人で、余りにもドイツ人ばかり優遇すると言うので、1213年にハンガリー人貴族の恨みを買って殺された、その母親の墓参りのためであった。1227年(20歳)、ルードヴィッヒ4世は、聖地エルサレムの奪回と同時に、地位の向上と巨万の戦利品を夢見て、ヴァルトブルグの城を出て、十字軍に参加した。ルードヴィッヒ4世が十字軍遠征に出発するとき、別れを惜しんでエリザベートは、ヴェラ川まで何日もの行程を夫に付き従った。一方ではエリザベートは、修道院に入って、ただ神だけに仕える生活を選ばず、一人の男の妻となったことを、それでよかったのだろうかと思い悩むこともあった。しかし、ルードヴィッヒ4世の出征にあたっては、夫への激しい愛を隠そうとしなかった。まるでそれが最後の別れになることを予期していたように。
(参考)
@「貧者の母」・・・エリザベートのもっとも有名なエピソードは、後世に作られた「薔薇(ばら)の奇跡」の話である。「ある時、エリザベートは、貧しい人に分け与えるパン、肉、卵などの食べ物をマントの下に抱えて城から降りて行った。すると、領主である夫が向こうからやってきて、「何を持っているのだ、見せよ」と言うや、エリザベートのマントをまくりあげた。すると食べ物は、今までに一度も見たこともないほど美しい赤い薔薇と白い薔薇の束に変わっていた。しかし、その時は薔薇の季節はとうに過ぎていたという(以降、聖エリザベートの肖像画には、大量の薔薇が描き加えられることになったのだという)」。もう一つの「薔薇の奇跡」は、チューリンゲンの聖女にあやかって「エリザベート」という名がつけられた、アラゴニア王家の美しい王女イザベル(英語名でエリザベート)の話が有名である。(小話番外・小話340=差替版)「薔薇の奇跡(2)。ディニス王とイザベル(英語名でエリザベート)王妃」の話・・・を参照。
「ハンガリーの聖者エリザベス(エリザベート)」(不明)の絵はこちらへ
「ハンガリーの聖者エリザベス(エリザベート)」(不明)の絵はこちらへ
「聖エリザベート(薔薇の奇跡)」(ヴィルヘルム・リスト)の絵はこちらへ
「ハンガリーの聖者エリザベス(エリザベート)」(マルコス・daクルス)の絵はこちらへ
「ハンガリーの聖者エリザベス(エリザベート)」(エドモンド・ブレア・レイトン)の絵はこちらへ
        (四)
1227年(20歳)、ルードヴィッヒ4世がイタリアで死んだという知らせが届いたとき、王妃エリザベートはまだ20歳であった。3人目の子供を身ごもっていたが、半狂乱に陥って「彼が死んだのなら、それは世界が死んだのと同じことです」と叫んだ。夫ルードヴィッヒが死ぬと、エリザベートは周囲から、邪魔者として扱われるようになった。ルートウィッヒ4世の死はエリザベートの生活までも一変させてしまった。ヴァルトブルグ城の主人の死を契機とみたルードヴィッヒの兄弟たちが、エリザベートを城から追い出す計画を立て、夫を失ってからおよそ数ヶ月後に、エリザベートは義兄弟たちによって城を追われてしまった。エリザベートは3人の子供を連れてヴァルトブルグの地を去った。城を出てエリザベートが最初の夜に泊まったのは、豚小屋だった。エリザベートは、すべてのぜいたくが消え去ったことを、神に感謝した。しかし、エリザベートが助けてきた貧民は、逆にエリザベートに冷淡であり、中にはエリザベートを汚物の中につき落とす者もいた。しかしエリザベートは笑いながら起きあがり、汚(よご)れた服を洗った。エリザベートは、親子、財産、そして何よりも自分の意志、自我を棄てる誓いをたてた。今やエリザベートは、全身全霊で神に仕える者となった。あてもなく各地を転々としていた流転のエリザベートが、最終的に身を落ち着けたのは、コンラート神父のいるマールブルグという地であった。そして、コンラート神父の尽力によって寡婦産(亡夫の遺産のうち未亡人にあたえられる分け前)として2万マルクの金とマールブルク近在の領地とを受けとった。3人の子供たちは、別々の所に預けて養育してもらうことになった。マールブルグの地でエリザベートは俗世を捨てて僧籍に入り、聖フランチェスコ第三会の衣服をまとうようになった。ドイツで聖フランチェスコ会に身を置いた人物は、彼女が初めてであった。マールブルグの地で新しい生活を始めたエリザベートは、この地の恵まれない人々の為に一身を捧げた。彼女は、施療院や修道院、そして病院などの建設にも力を注ぎ、時には、飢えた人々に食事を与える為に、自ら釣りに出かけた。その在り方は、キリスト教徒の七つの慈悲「(1)病人を見舞い、看護すること。(2)渇いた者に飲み物を与えること。(3)飢えた者に食べ物を与えること。(4)病気の者を治癒(ちゆ)すること。(5)着るものがない者に衣服を与えること。(6)孤児や旅人をもてなすこと。(7)死者を葬ること」の体現のようであった。西暦1231年11月11日、エリザベートは、臨終の時を迎え「全能の神が、その友らを天上の婚礼にお招きになる時が来ました」と呟いてやすらかに永眠した。享年24歳。聖女の遺体は、4日間埋葬されずに置かれてあったが、いやな臭いは少しもせず、かえって馨(かぐわ)しい芳香が立ち昇って多くの人びとを喜ばせた。1235年にローマ教皇グレゴリウス9世により聖者の列に加えられた。同時にマールブルクにある聖女の墓のうえに聖エリザベート(エリザベト)教会の建造がはじめられた。
(参考)
@エリザベート・・・英語ではエリザベス、エリザベート。ドイツ語やフランス語ではエリザベート。ハンガリー語ではエルジェーベト。スペイン語やポルトガル語ではイザベル、イザベラ。ヘブライ語ではエリザベト、エリザベツ。フランス語ではイザボー。
A三人の子供たち・・・1222年生まれの長男ヘルマン、のちのへルマンU世(位1228〜1241)、1224年の生まれ長女ゾフィー、のちのブラヴァント公爵夫人、1227年生まれ次女ゲルトルート、のちのアルテンベルク女子大修道院長、の三人とされる。
B2万マルクの金・・・2万マルクを受けとってその一部を貧しい人びとに施し、残りでマールブルクに大きな施療院を建てた。そのために一般の人びとからは、「財産を溝(どぶ)に棄てたようなものだ」、「あの女は、夫の思い出をかなぐり棄ててしまった」と、言われて非難された。しかし、聖女は、悪口をよろこんで耐え、うれしそうにしていたという。
C聖者の列・・・エリザベートには幾つもの奇蹟の伝説が残っている。(1)聖女エリザベトは、宿なしの乞食を城に入れてやり、体を洗って寝室のベッドに寝かせてやったということを、夫のルードヴィッヒ4世が聞いて驚き、部屋に飛び込んで布団をめくると、そこには病人ではなく十字架にかけられたイエス・キリストが横たわっていた。(2)「薔薇の奇跡」=上記にあり。(3)あるとき、貧しい女に上等の服を与えたことがあった。女は、高価な贈りものを見るとうれしさのあまり卒倒して死んだようにうごかなくった。これを見た聖女エリザベトは、与えすぎたことが死の原因になったのではないかと心配し後悔した。けれども、その女のために祈ると何事もなかったかのように女は元気に起きあがった。(4)聖女エリザベトは、渇いた者によく飲みものを与えていた。ある時、貧しい人たちひとりずつに十分な量のビールをふるまって与えたのに甕(かめ)の中のビールは、少しも減らず最初と同じだけの分量が残っていた。(5)聖女エリザベトは、よく子供たちの遊具にするため小さな壷やガラス玉や他のガラスのおもちゃをプレゼントすることもあった。ある時、城から馬に乗って子供たちにあげる玩具をマントにくるんで届ける途中、高い岩の上からガラスのおもちゃを下の石の上に落としてしまった。しかし、どれひとつとしてひびも入っていなかった。
「ハンガリーの聖エリザベス(エリザベート)の放棄」(ジェームス・コリンソン)の絵はこちらへ
「ハンガリーの聖者エリザベス(エリザベート)」の銅像の絵はこちらへ


(小話832)「運命(幸運)の女神と人々」の話・・・
        (一)「運命(幸運)の女神と子供」
遊び疲れて、大きな深い井戸の縁(ふち)で寝入ってしまった一人の子供。子供には、すべてが寝床となりマットレスとなる。その姿勢は大変危うくて、うっかり寝返りでも打とうものならたちまち井戸の底へ真っ逆様(まっさかさま)に落ちて行く。こんな場合、真面目な紳士ならば、一気に3、40メートルも走って助けにこよう。全くしあわせなことに、そのすぐ傍(そば)を運命(幸運)の女神が通りかかって、静かに起こした。「坊や、お前の命を救ってあげるよ。この次からは、どうかもっと賢くなっておくれ。もしお前が落ちたら、わたしは非難されよう。でも、ほんとはお前のせいなんだよ。わたしは率直に聞くけど、こんなひどい不注意は、わたしの気まぐれによるのかい」。女神はこう言って去った。わたしとしては、この言葉に賛同したい。この世に起こることはすべて、女神がその責任を負うべきもの。一切の幸、不幸はそのなせる業、女神こそは、あらゆる出来事の証人だ。愚かさ、軽率、処置の誤(あやま)ち---人々は、運命を呪(のろ)えば、おのれの責めを免れられると考える。要するに、運命の女神はつねに正しからず。
(参考)
@ラ・フォンテーヌの「寓話」より。
「子供と運命の女神」(ブイヨン)の絵はこちらへ 「運命(幸運)の女神には前髪しかない。だから近づいてきたときにすかさず掴まないと逃してしまう」という。
A「運命(幸運)の女神と子供」と同じような「寓話」は「イソップ寓話集」にもある。(小話647)「イソップ寓話集20/20(その5)」の話・・・を参照。
        (ニ)「農夫と運命の女神」
ある農夫が畑を耕しているうちに金塊を掘りあてた。そこで彼は、これは大地の女神のお恵みだときめこんで、毎日、感謝を捧げていた。すると運命の女神が彼の前に現われて、「どうしておまえは、わたしがおまえを金持ちにしてあげようと思って恵んだものを、大地の女神のおかげだときめこんでいるのです? やれやれ、もし事情が変わってこの金塊がほかの人の手に渡るようなことになれぱ、そのときはきっとおまえは運命の神であるわたしを恨(うら)むに違いないのに」(この話は、自分の恩人が誰であるかをしかと見きわめて、その人に恩返しをせねばならない、と教えている)
(参考)
@「イソップ寓話集」より。


(小話831)「イソップ寓話集20/20(その28)」の話・・・
       (一)「キツネとヒョウ」
キツネとヒョウが、どちらが美しいかということについて、言い争っていた。ヒョウは、自分の身を飾っている斑点(はんてん)が、一つ一つ色彩豊かであることを披露した。しかし、キツネはそれを遮ってこう言った。「私の方がどんなに美しいことか、私を飾っているのは、身体ではなく、精神なのですから」
       (ニ)「カシの木とジュピター神」
カシの木がジュピター神に不満を申し立てた。「私たちは生まれてきた甲斐がありません。それは、いつも、斧の脅威に晒(さら)され続けているからです」。すると、ジュピター神がこう答えた。「お前たちの災難は、自らが招いたものだ。もし、お前たちが、良質な柱や支柱を生み出さなかったら、そして、その有用さを、大工たちに知らしめなかったならば、斧が、お前たちの根本に据えられることもなかっただろう」
(参考)
@ジュピター神・・・ギリシア神話の最高神ゼウスのこと。天候・社会秩序をつかさどる。父神クロノスを王座から追放し、3代目の支配者となった。ローマ神話のユピテル(ジュピター)にあたる。
       (三)「ウサギと猟犬」
ある猟犬が、ウサギを巣穴から狩りだした。しかし長いこと追いかけたが、結局、追いかけるのを諦めた。それを見ていたヤギたちが、イヌをあざ笑って言った。「あんたより、チビ助の方が速いとはね」。すると、イヌはこう言い返した。「私は夕食の為に走っているだけだが、ウサギの方は、命をかけて走っているのだ」



(小話830)「賢人ナータンの「三つの指輪」」の話・・・
      (一)
時は中世、場所はエルサレム。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の三つの宗教が入り交じ中でイスラム教のスルタン(君主)、サラディンがエルサレムを統治していた。見聞が広く裕福な大商人のナータンは、ユダヤ人のため何かと差別を受け、いつも並みのひと以上の能力を示していた。キリスト教徒のユダヤ人虐殺によって妻と七人の息子を殺された後、大商人ナータンはキリスト教徒の若い娘レーハを養女にした。ナータンが商売の旅をしていた留守中に火事があり、娘のレーハは危ないところを若い神殿騎士(十字軍にも関係するキリスト教騎士)に助けられた。レーハは感謝を通り越して恋に陥った。神殿騎士は、実は、スルタンの軍に捉えられて処刑される寸前に、当のスルタンによって助命され、捕虜の身でありながら自由行動が許されていた。レーハを愛する神殿騎士の口からナータンの素姓をもれ聞いたキリスト教の総大司教は「ユダヤ人は火あぶりにせよ」と命じた。時は、十字軍の時代であった。何とか火あぶりをまぬがれたナータンに「ユダヤ教とキリスト教とイスラム教のどれが真の宗教か」とイスラム教のサルタンから尋ねられた。
(参考)
@賢人ナータン・・・ナータンのモデルが、大作曲家メンデルスゾーンの祖父である有名な哲学者モーゼス・メンデルスゾーンであるという。(小話823)「早熟の天才作曲家フェリクス・メンデルスゾーン。その栄光と挫折の短い生涯」の話・・・を参照。
      (ニ)
そこでナータンは、「三つの指輪」のたとえを引用した「神様から与えられた「真実の指輪」。この家宝の指輪を一個もった父親がいた。そして、彼には三人の息子がいた。家宝の指輪を三人の息子の誰に譲るかに悩んだ父親は、本物そっくりのにせ指輪を二つ作り、息子たち皆に指輪を与えた。父親が亡くなると、三人の息子たちは一個づつ「指輪」を相続した。が、ここでひとつ、騒動が持ち上がった。誰の相続した指輪が本物の「真実の指輪」なのか?、ということで言い争いになった。たまりかねた三人は、とうとうこれを裁判所に訴えた。そして、いよいよ判決の日になった。裁判官は三人の息子に、こんな判決を下した「どれが本物かは、何千年か待って結果を見ないとわからない。だからみんな、自分の相続した指輪が本物の「真実の指輪」だと信じて、その指輪の持ち主にふさわしい人生を送るように努力しなさい」と。こうしてナータンは、「問題はどの宗教が真正の宗教かではなく、いかに宗教的な偏見を離れて実践的な愛に生きるかということにある」と人類愛と寛容の精神を説いた。そして、最後にはイスラム教徒のサルタンもキリスト教徒の神殿騎士も、みな善(よ)き人間ということになって、理性の勝利となった。養女レーハと神殿騎士は実は兄妹で、サルタンの甥(おい)と姪(めい)であった。三つの異なる宗教を代表する人たちが互いに近(ちか)しい関係にあることが分かり、抱擁し合って結末を迎えた。
(参考)
@戯曲「賢人ナータン」(レッシング著)より。
A「賢人ナータン」等の格言。
(1)「いちばん性質の悪い動物の名は?」と、王が賢者に尋ねたら賢者曰く「荒っぽい奴では暴君、おとなしい奴ではおべっか使い」。
(2)いかなる虚偽も、そのためにさらに別の虚偽をねつ造することなくしては主張できない。
(3)いちばん性の悪い迷信は、自分の迷信をましなほうだと思うことである。
(4)よき敬神は天与の喜悦である。
(5)人間は誰でも自分自身を最も愛する。
(6)宗教は聖者がそれを説いたがゆえに真理なのではなく、真理なるがゆえに聖者がそれを説いたのである。
(7)平等は愛の最も固い絆である。
(8)返済する術を知らなければ、金を借りるな。


(小話829)「妖精王ミディールと美しい妖精エーディン。そしてアイルランド王エオホズ」の話・・・
            (一)
ケルト神話「蝶になったエーディン」より。エーディンは、この世でいちばん美しい妖精で、地下の妖精王ミディールの二人目の妻であった。妖精王ミディールの前妻フォーヴァナは新しい妻エーディンに嫉妬して、魔法の杖でエーディンを紫色の蝶に変えてしまった。やがて蝶は王宮から追い払われた。7年後、蝶のエーディンは、一陣の風によって再び王宮に運ばれた。紫色の蝶がエーディンだと気づいた妖精王ミディールは、魔法を解こうとしたが、夜だけ元の姿に戻すのが精一杯だった。そこでエーディンのために美しい東屋(あずまや)を建て、草花を植えた。そして、夜が来るたびにニ人は逢瀬(おうせ)を楽しんでいた。しかし、まもなく前妻フォーヴァナが蝶のエーディンに気づき、追い出してしまった。吹き飛ばされたエーディンは、アルスターの英雄エタアの王宮にたどり着いた。そして蝶のエーディンは、あやまってワインの杯の中に落ちてしまった。逃げようとした瞬間、エタア王の王妃はそのまま飲み込んでしまい、子宮に落ちた蝶は9ヵ月後に王女エーディンとして産まれた。成長したエーディンは、アイルランドで最も美しい王女となり、アイルランド王エオホズに望まれて王妃となった。
            (ニ)
結婚式の祝祭日に、エオホズ王の弟アリルは、花嫁エーディンに対する愛情とあこがれに突然、襲われた。そして彼は、恋の病(やまい)に落ちた。これを見たエオホズ王は、心から愛する弟を心配した。この頃、国境で紛争が起こってエオホズ王は出かけて行くことになった。エオホズ王は自分がいない間、弟アリルに王妃エーディンの世話をゆだねた。ところが王の弟アリルは、恋煩(こいわずら)いからとうとう病(やまい)の床についてしまった。義弟アリルの病気の原因を知った王妃エーディンは、悩んだ末、アリルの想いに応えることを決め、密会の約束を交わした。彼女は、村の外の森の空き地で明朝、早く彼に会うと約束した。アリルは有頂天になった。そして、嬉しさのあまり一晩中、起きていた。そのため、夜明けに彼は、深い睡りに襲われてしまった。エーディンは朝早く起きて、空き地へ出かけた。だが、彼女が義弟アリルに会うよう命じた時刻にやって来たのは、見知らぬ男だった。「あなたは、私が会う人でありません」とエーディンは言った。男は言った「エーディン、私の元にかえってきてください。なぜならば、私はあなたの前世の夫なのだから」「あなたはどなたですか?」と彼女は尋ねた。「私は、1000年以上に渡って、あなたを探し続けていた妖精王ミディールです。最初の妻フォーヴァナがあなたに魔力をかけて、我々の土地から吹き飛ばしたのです。私と戻って来てもらえますか、エーディン?」。しかし彼女には、前世の記憶がまったく無かったので言った「私は、夫のエオホズ王以外の知らない人とはどこにも行きません」。男は言った「それに、あなたの義弟アリルに恋の熱望を与えたのは私です。そして、彼がここに来ることをできなくした、その魔力をかけたのも私です」。彼女は急いで義弟アリルの元に戻って、彼の恋心が去って、彼が癒(い)やされたとを知った。彼女はアリルに起こったことのすべてを話した。そして、彼ら二人は、彼らが密会しなかったことからエオホズ王まで救われることを喜んだ。まもなく、エオホズ王が帰って来た。そして、二人はエオホズ王に自分たちに起こったすべてのことを話した。エオホズ王は弟アリルに対する王妃エーディンの優しさを賞賛した。
            (三)
そんなある日、王妃エーディンの前に、再び妖精王ミディールが現われ、王宮に帰って、またニ人で楽しく暮らそうと誘った。しかしエーディンは、夫のアイルランド王エオホズの許可があればと答えた。妖精王ミディールはアイルランド王にチェスの勝負を挑み、はじめのうちはわざと負け続け、最後の最後、「エーディンの口づけ」を賭けた勝負でエオホズ王に勝ち、エーディンを得た。だが、エオホズ王が一ヶ月の猶予を求めたので、妖精王ミディールは承知した。そして一ヶ月後、妖精王ミディールがエーディンを迎えに行くと、王宮はたくさんの軍勢に包囲されていた。しかし、妖精王ミディールは空中から高貴な姿で現われ、エーディンと共に白鳥になって飛び去った。エオホズ王は大軍を集めて、白鳥の姿となって妖精の国へ飛び去って行ったニ人を追い、ミディールの王宮のある妖精の丘を次々と破壊していった。妖精王ミディールは、丘を修復しながら逃げていたが、とうとう最後の一つとなった丘に追いつめられてしまった。そこで、妖精王ミディールは魔法で50人の美しい女性たちをエーディンそっくりに変え、本物のエーディンを選んだら返してやろうと告げた。すると、エーディンが自分が本物であると名乗り出た。エーディンは妖精の王であるミディールではなく、人間の王と暮らすことを望んで妖精の世界から去っていった。
(参考)
「エーディンとミディール」(不明)の絵はこちらへ
「女神エーディン」(ケルト族のカレンダー)の絵はこちらへ
「Etain(エーディン)」(Mary McAndrew)の絵はこちらへ


(小話828)「「寒暑到来(かんしょとうらい)」と「滅却心頭火自涼(しんとうめっきゃくひおのずからすずし)」」の話・・・
        (一)
九世紀の頃、中国は唐の時代に曹洞宗の祖師、洞山良价(とうざんりょうかい)という偉い禅僧いた。この洞山大師に、ある修行僧が訊ねた。
「寒暑到来。如何が廻避せん」と。
(こう寒(暑)さがきびしくてはやりきれません。この寒(暑)さからのがれるにはどうしたらいいでしょう)」
洞山大師は、答えて言った「なんぞ無寒暑の処に向かって去らざる」と。
(暑くもない、寒くもない処へいったらいいじゃないか)
修行僧は、そんなところがあるのかと思いつつ「如何なるか是れ無寒暑の処」と。
(そんないいところ、いったい、どこにありますか?)
すると洞山大師は「寒時(かんじ)は闍梨(じゃり)を寒殺(かんさつ)し、熱時(ねつじ)は闍梨を熱殺(ねつさつ)す」と答えた。
(寒い時は寒さがお前さんを殺し、暑い時は暑さがお前さんを殺す。それが無寒暑の処だ=寒いときには凍えて死に、暑いときには暑さで死ぬしかないな。それが無寒暑の処だ)
(参考)
@洞山良价・・・中国、唐代の僧。曹洞宗の祖。洞山(江西省)普利院に住して教化に努めた。弟子の曹山本寂(そうざんほんじゃく)がその禅風を高揚したので、二人の名から曹洞宗の名称が出た。
A寒暑到来・・・この修行僧は、季候の寒暑で人生の苦悩を象徴して、洞山大師に心身の安堵の道を聞いた。気候には夏や冬の季候があり、それぞれ暑熱や寒冷に悩まされるように、人間の生涯においても、若いときには若いときの、老年期には老衰故の苦しみを受けずにはおられない。修行僧は問うた。寒さも暑さもない結構な処(ところ)とはどこにあるのですか?人生に一体、苦しさが無いという人生などあり得るのか、あるとするなら、どこにあるのか?。すると洞山大師は、無寒暑の所在を問うのか。それは別に変わったことではない。寒(暑)いときは汝が寒(暑)さになりきり、寒(暑)さに同化すればいい。そこが「無寒暑の境地(からだや心が置かれている状態)」だと示したという。
        (ニ)
戦国時代の甲斐(山梨県)、武田信玄の軍旗は「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山(疾(はや)きこと風の如(ごと)く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」であった。この信玄が帰依して禅を学んだのが、当時、甲斐(かい)の恵林寺に住した快川禅師(かいせんぜんじ)であった。信玄の没後、武田家は織田信長と徳川家康の連合軍に亡ぼされた。信長は快川禅師の徳を慕っていた。そこで信長は、武田信玄の滅亡の機会に礼を厚くして快川禅師を自分の師にと招いたが、快川禅師は武田家との恩義を重んじて、信長の申し入れを辞退した。その後、快川禅師が武田家の一味に好意を寄せているとの報を聞いて怒った信長は、快川禅師が住している恵林寺を急襲して焼き討ちをかけた。信長は快川禅師以下一山の僧百余人を山門楼上に追いこめ、山門の周囲にたきぎを積み重ねて四方から火を放った。やがて火炎(かえん)が被らの周辺を包むと、快川禅師は一山の憎に向かっていった「皆の者よ、われわれを焼き亡ぼすこの火炎に向かって、いかに対処するか、平生体得した悟(さと)りの力量の程をいえ、それを最後の言葉としよう」と。快川禅師の命(めい)にしたがい、それぞれ思い思いに自分の悟りの境界を短い言葉で述べた。最後に快川禅師は心境を次のように示した。「安禅不必須山水(安禅(あんぜん)は必ずしも山水を須(もちい)いず)。滅却心頭火自涼(心頭(しんとう)を滅却(めっきゃく)すれば火も自(おのずか)ら涼(すず)し)」そして、一同とともに粛然(しゅくぜん)として生きながら、猛火に焼かれて亡くなった。
(参考)
@快川禅師・・・戦国時代の臨済宗の僧。美濃の人。武田信玄に招かれ、甲斐(かい)の恵林寺で禅風を伝えた。織田信長が武田勝頼を攻めたとき、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」と唱え、諸僧とともに兵火の中に没した。
A安禅不必須山水・・・中国の後梁(こうりょう)の時代(六世紀)の詩人に杜筍鶴(とじゅんかく)の詩の「夏日、悟空上人の院に題す」というのが元の句。
「三伏閉門披一衲、兼無松竹蔭房廊、安禅不必須山水、滅却心中火亦涼(三伏(さんぷく)門を閉ざして一衲(いちのう)を被(き)る、兼ねて松竹の房廊(ぼうろう)を蔭(かげ)するなし、安禅は必ずしも山水を須(もちい)ず、心中を滅却すれば火も亦涼し)」
(現代語訳)
三伏というこの暑い時期に、門を閉じて風を通さず、僧衣を着て黙々として坐禅をしておられる。さらには、日が真上にあるので、松の枝も、竹の葉も廊下に陰を作っていない。安らかな禅には、必ずしも山水が必要ではない。心と頭を無くし去ってしまえば、火ですら涼しいものだ。


(小話827)「吟遊詩人、ダンフーザー(タンホイザー伝説)」の話・・・
            (一)
伝説より。昔ドイツに、ダンフーザー(ドイツ語でタンホイザー)という向こう見ずなミンネゼンガー(吟遊詩人)がいた。この詩人は腕と美貌に加えて、騎士の粋な気質を備えていた。そのおかげで、ダンフーザーはたくさんの贈り物や時には領地も貰った。けれど、それらを保持するということができない性分であった。詩人の自由な魂は、一つところにとどまることがなかった。あるとき、ダンフーザーは、ハンガリーの詩人であり、魔術師でもあったクリングゾールという男と知り合った。「ヴァルトブルクのフォン・チューリンゲン伯の領地にて、歌合戦が行われるのですが、知っていますか? かくいう私、マイスター・クリングゾルも、それに加わるつもりでいるのです」。ダンフーザーはすぐに乗り気になり、クリングゾルに同行した。ヴァルトブルグに着くと、人々は歌合戦に沸き立ち、晴れ晴れとしてにぎやかであった。ダンフーザーは、テラスに立つ金髪の乙女に目を止めた。「あれはいったいどなたでしょう」「あれは、ヘルマン伯の娘、エリーザベトといって、生きているうちから聖女と仰がれている信心深い娘さんだよ。あんたみたいな軽薄な男には向かない人さ」「そんなことはないさ」「いいや、君にはもっとふさわしいものがあるね」。二人がそんな会話をしていたとき、突然、右手に見えていた山がぱっくり口を開け、そこに、巨大な洞窟の入り口が現われた。そして「どうぞ、いらしてくださいな」と愛らしい姿の娘達が、ダンフーザーを誘った。
            (ニ)
「不思議なことだねえ、クリングゾル君?」と言ってダンフーザーは、クリングゾルを見た。すると、そこにクリングゾルの姿はなく、代わりに巡礼姿の老人が立っていた。「私はエックハルト(心の貧しき人)。今は心迷わせた者を救ういさめ役として世間を歩いて回っているのです。あれは呪われたウェーヌスの山(ビーナスの山)。決して行ってはなりませぬ、どうか不吉な魔法から目をそむけて、あちらのテラスをごらんなさいませ。聖女エリーザベトがお立ちになって、美しい目で、この人惑(ひとまど)わせな誘いに乗ってはならぬと戒(いまし)めておりますぞ」。しかし、もとより好奇心の塊(かたまり)であったダンフーザーは、老人のいさめも効かず、ウェーヌス山に登っていった。老人は悲しげな様子で立ち去った。「ようこそいらっしゃいました。ゆっくりしていってくださいな」。愛欲の女神ウェーヌス(ビーナス)は、優美な様子でたたずんでいた。ダンフーザーは思わず、彼女の前にひざまずいた。そこは、まさに美と快楽の場所であった。ダンフーザーは一年間を、この場所で過ごした。けれどまた、詩人の自由な心が頭をもたげ始めた。ダンフーザーはとうとうこの暮らしにも飽きてしまい、ウェーヌス女神に嘆願した「どうか私をもとの世界に戻してください」。ウェーヌス女神は大いに悲しんだ。「本当に、あの冷たく薄情な人間達のところへ戻るのですか? 彼らはかって、フレイヤ(北欧の太母神)と呼ばれ、北欧における最高神オーディンの后(きさき)であったこの私でさえも、地の底に追い払ってしまったのですよ」。しかし、ダンフーザーは聖母マリアに助けを求めたため、ウェーヌス女神は、彼を山の外へと帰した。「おお、素晴らしき、我が世界よ!」。ダンフーザーはうきうきして、とりあえず、今日までのことを告解してこようと、礼拝堂へ入った。そして一切合財、すべてを懺悔した。すると僧侶は驚いて、胸に十字を切りながら「とっとと消えうせろ。おまえの罪は重すぎて、そんなものを許すことは私の手には負えん」とダンフーザーを追い出した。彼から大罪の赦(ゆる)しを与えられるのは、ローマ教皇だけだということだった。ダンフーザーはローマに行き、教皇に会った。その時、教皇は散歩の途中であった。ダンフーザーはその足元に身を投げ出して、罪を告白し赦しを願った。「罪びとはなんびとも許されるが、ウェーヌス山のウェーヌス女神の下にいたものだけは別だ。この枯れた杖がもう緑をなさないように、おまえも二度と救われぬ」。教皇は愛用だったその樫(かし)の杖を地に突き刺すと、いかにも忌まわしそうにその場を立ち去った。ダンフーザーは召使達に放り出され、絶望のあまり、聖母マリアに別れを告げ、再びヴェーヌス女神の下(もと)へ帰って行った。それから三日後に、なんと杖からは、芽が吹いていた。教皇は驚きあきれ、例の男を探させた。しかし、イタリア中探してもその男は見つからなかったという。
(参考)
@ダンフーザー・・・ワーグナーの歌劇「タンホイザー」の元となった伝説。(小話825)オペラ(歌劇)「タンホイザー」の話・・・を参照。


(小話826)「英雄ヘラクレスと美しい巫女アウゲ。そしてその息子テレポス」の話・・・
         (一)
ギリシャ神話より。アテナ神殿の美しい巫女アウゲ(「輝く女」の意味)は、アルカディア人のアレオス王とネアイラの娘であった。ある時、無事に十二の功業を終えた英雄ヘラクレスは、ペロポネソス半島の各地を次々と攻略しだした。スパルタ攻略後にヘラクレスは、テゲアに立ち寄った。そして、その地でアテナ神殿の巫女であり、王女である美しいアウゲを酒に酔って、無理やり犯して子供をはらませてしまった。彼女はさっきまで共に闘ってきたケペウス王(ラケダイモン王ヒッポコオンをヘラクレスはテゲア王ケペウスと共に攻略したが、ケペウスは戦死した)の妹だったのだが、ヘラクレスはそんなことはつゆ知らなかった。英雄ヘラクレスの去った後、王女アウゲは月満ちて男の子を産み、未婚の母となった。だがアウゲは、屈辱を感じて産んだ子供を、アテナの神殿に捨ててしまった。ところが、たまたま彼女の父アレオス王が神殿にやってきて、この子供を発見した。アレオス王はアルカディアのアレアの町の開祖で、その頃ちょうどその地で疫病がはやっていたので神託を求めにやってきたのだった。アレオス王は「貴方の娘アウゲが、ここに子供を捨てたのが原因です。娘を奴隷として売り、子供は山中に捨てるように」との神託を受けた。そこで、アレオス王は神託に従って、娘アウゲを奴隷として売った。彼女を買ったのは、小アジアのミュシア地方テウトラニア王テウトラスで、テウトラス王は王女である彼女を養女とした。
(参考)
@巫女アウゲ・・・予言者は、アレオス王に「彼が彼の孫によって倒される」と警告した。そのためアレオス王は、娘アウゲを女神アテナの巫女に専念させて、彼女が結婚するのを禁じた。しかし、娘が妊娠し、子供を産んだ時、アレオス王は親子を木枠に入れて海に放り込んだ。その親子を海王ポセイドンの子ナウプリオスが救った。そして彼は、奴隷の商人に親子を売り、奴隷の商人から親子を買ったのはミュシアのテウトラス王であったという説もある。
A各地を次々と攻略・・・ヘラクレスは狂気の発作によって自分の三人の子供を殺してしまう。これを悲しんだメガラも自殺した。子を殺し妻を死に至らしめた罪の穢れを清めるのを拒否した復讐で攻略。
Bケペウス王・・・アレオス王とネアイラの息子。テゲアの王。ヘラクレスの要請で、アルゴー船の大冒険、カリュドンの猪狩りにも参加した。
「ヘラクレスとアウゲ」の銀製の皿の絵はこちらへ
         (ニ)
一方、パルテニオス山中に捨てられた子供は牝(めす)鹿の乳で生きながらえ、羊飼いに拾われてテレポスと名づけられた。そして成人した彼は予言に従って母親を求めてミュシアの地へ赴(おもむ)き、戦乱中のミュシアで手柄をたてた。テレポスは、ミュシアのテウトラス王に大いに気にいられ、養女となっていたアウゲの夫として迎えられた。二人は親子とは知らず結婚した夜、新婚の寝床に突然、大蛇が現われた。驚いた花嫁アウゲは夫の名ではなくヘラクレスの名を叫んだ。不審に思ったテレポスは問い糾(ただ)した。そこで二人はお互いに身の上話しをして、始めて母子であると知って、改めて再会を喜んだ。やがて二人は、生まれ故郷であるアルカディアへと向かった。後(のち)に、テレポスは、第一回のトロイア遠征の際、ギリシャ軍に参戦して英雄アキレウスと共にミュシアの攻略を開始した。ミュシアのテウトラス王は、軍を率(ひき)いて応戦してきた。歴戦の英雄アキレウスは戦ってテウトラス王を破り、深い傷を負わせた。アキレウスがとどめを刺そうとしたとき、テレポスはそれを止めた。彼はかって、母と共にテウトラス王に恩を受けていたのだった。瀕死(ひんし)のテウトラス王はテレポスにミュシアの王位を譲って亡くなった。そこでテレポスは、テウトラス王のために壮大な葬儀を催した。英雄アキレウスはテレポスに、ミュシアの地に留まってギリシア勢のために補給を送ってほしいと要請し、テレポスはそれを了承した。こうしてテレポスはミュシアの王となってミュシアに残り、英雄アキレウスは戦利品と共に、ギリシャ軍のいるテネドス島へ帰って行った。
(参考)
@ 第一回のトロイア遠征・・・ギリシャ軍は、トロイアの支配地と考えて、誤ってミュシアに来て、そこを攻略した。その時、ミュシアの王となっていたテレポスは果敢に応戦して、侵入者を防ぎ止めた。そして、その際に、テーバイ王テルサンデルを殺した。だが、テレポス自身、戦いの間にアキレスの槍で腿を負傷した。その八年後にギリシャ軍がニ回目のトロイア遠征を開始したが、ギリシャ軍には誰もトロイアへの道を案内することができなかった。一方、テレポスの傷も治癒(ちゆ)してなかった。そこで、テレポスは予言者に意見を聞いたところ「傷つけた者が癒(いや)すだろう」という答えだった。そこで、テレポスはアキレスに傷を癒すように頼むために、アルゴスに向かった。そして、傷の癒しと引きかえに彼は、トロイへの行き方を示した。アキレスは槍の錆(さ)びをこすり取ることによってテレポスの傷を癒やした。約束通りテレポスは、トロイアへのコースを示した。そして、その正確さはギリシャ軍の予言者カルカスによって確かめられたという説もある。
「子供の生存、テレポス(牝鹿の乳を飲むテレポス)」(不明)の絵はこちらへ
「ヘラクレスとテレポス」の銅像の絵はこちらへ


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