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(小話825)オペラ(歌劇)「タンホイザー」の話・・・
        (一)
中世のドイツでは、ミンネゼンガー(吟遊詩人)として歌う習慣が騎士たちの中にあった。ミンネゼンガーは、各地をさすらい、宮廷にも仕えた。ミンネゼンガーは、詩人であり音楽家でもあり、騎士道精神に満ちた貴婦人賛歌や恋愛賛歌を歌い上げた。そんなミンネゼンガーの一人である騎士タンホイザーは、ヴァルトブルクの領主の姪である美しいエリーザベトと清き愛で結ばれていたが、ふとしたことから官能の愛を望むようになり、愛欲の女神ヴェーヌス(ヴィーナス)が住んでいるというヴェーヌスベルクの洞窟に赴(おもむ)いた。そして、そこで肉欲の世界に溺れていた。ヴェーヌスベルクの洞窟でヴェーヌスと快楽の日々を送っていたタンホイザーだったが、ある時、夢の中で故郷の鐘の音を聞いた思いがして、ヴェーヌスベルクの洞窟から離れようと決心した。しかし、ヴェーヌス(ヴィーナス)は彼を引き止めようと誘惑した。だが、故郷への思いに絶えかねて、タンホイザーは「私を行かしてくれ!」と叫んだ。彼は三回ヴェーヌスの美をたたえるが、どうしても懐郷の念を押さえきれなかった。彼を引き止めようとするヴェーヌスの努力も無駄となり、彼女はタンホイザーに言った「裏切り者、出ていって! あなたは、どうせまた哀れみを請いにくるだろう」。しかしンホイザーは、強い意志によって「わが救済は聖母マリアにこそ!」と叫ぶと、ヴェーヌスベルクの洞窟は崩れ落ち、消え去った。タンホイザーは、いつの間にかヴァルトブルクの城が見える美しい谷間に立っていた。巡礼の行列が近づき、また遠のいてゆくのを見つめていたタンホイザーは、感動し、地に頭をたれて慟哭(どうこく)した。そこへ、狩りに行くヴァルトブルクの領主ヘルマンが騎士たちを従えて通りかかった。そして彼らは、昔の仲間のタンホイザーを発見して歓迎した。タンホイザーも、かってヴァルトブルクの領主の騎士であった。親友の騎士ヴォルフラムはタンホイザーの帰還を喜び、再びヴァルトブルクの領主の騎士に戻るように勧めたが、官能の世界に溺れた罪の重さを思ったタンホイザーはそれを拒否した。しかし親友ヴォルフラムは、ヘルマン領主の催す歌合戦で常勝を続けていたタンホイザーが消えてからというもの、領主の姪エリーザベトが歌合戦の席に姿を見せなくなってしまったと話して説得すると、タンホイザーは「彼女のもとへ!」と叫んで、その説得を受け入れヴァルトブルクの城に帰ることにした。
(参考)
@ヴェーヌス(ヴィーナス)・・・オリンポス12神。美と愛の女神。大神ゼウスのディオネの娘とも、海の泡(ウラノスの男根)から生まれたともいわれる。ヘパイストス(鍛冶の神)の妻、アレス(闘いの神)の愛人。後にギリシア神話におけるアプロディーテと同一視された美と愛の女神。一般には半裸、或いは全裸の美女の姿で表わされる。
「タンホイザー」(ガブリエル・フォン・マックス)の絵はこちらへ
「ヴィーナスとタンホイザー(ヴェーヌスベルクの洞窟のタンホイザー)」(不明)の絵はこちらへ
「ヴェーヌスブルクのタンホイザー」(ジョン・コリア)の絵はこちらへ
        (ニ)
親友のヴォルフラムに連れられたヴァルトブルク城に帰ったタンホイザーは、城内にある歌の殿堂の広間でエリーザベトと再会を果たし、お互いに喜び合った。喜び合う二人であったが、エリーザベトに淡い恋心を抱いていたヴォルフラムにとっては、苦しいあきらめだった。タンホイザーとヴォルフラムが去ったあと、伯父である領主のヘルマンが現われて、エリザベートに優しく歌合戦が近づきつつあることを知らせ、幸運を祈った。歌合戦を見に、騎士や貴婦人たちが集まった。やがて、「愛の本質について」という課題で歌合戦が開始された。タンホイザーの親友ヴォルフラムやその他の歌い手達が、女性に対する清らかな愛をたたえる歌を歌ったのに対し、タンホイザーは、それらにことごとく反論を唱え、真の愛とは純粋な享楽であると歌い、ついには愛欲の女神ヴェーヌス(ヴィーナス)を讃えてヴェーヌスベルクの洞窟に滞在していたことを告白してしまった。貴婦人たちは直ちに広間から退散し、激怒した騎士たちは剣をぬいてタンホイザーに切りかかったが、エリザベートはそれを押しとどめた。そして彼女は、タンホイザーのために命乞いをし、罪のあがないをさせて、敬虚な人間に生まれ代わらせるべきだと言った。その必死な嘆願に動かされ、怒れる騎士たちも武器をおさめた。タンホイザーは狂気から覚め、すべてが失われたことを知って悔恨にくれ呆然となった。その時、領主ヘルマンは、このような肉欲の大罪に対する許しを乞うには、ローマへ行って教皇の許しを得るほかはないと言い、教皇の許しが得られるまで帰ってくることはならぬと宣言した。タンホイザーは「ローマへ!」と叫んで、遠くを通る巡礼たちの一行に加わるため、ヴァルトブルクの城を去って行った。
(参考)
「タンホイザー歌合戦」(不明)の絵はこちらへ
「タンホイザー(タンホイザーに詰め寄る騎士たち)」(ロッシュグロス)の絵はこちらへ
        (三)
一年後。タンホイザーの親友ヴォルフラムは、ヴァルトブルクの丘の上にたつ聖母マリア像の前で祈っているエリーザベトの姿を見かけた。彼女はこの一年の間、毎日、毎日、タンホイザーの許しを祈りつづけていた。ヴォルフラムは、彼女に同情して励ました。その時エリーザベトは、ローマから戻ってくる巡礼の行列に出会った。彼らは罪をあがない、幸福な感情にみたされて帰ってきたのだ。巡礼たちは近づき、また去って行った。エリザベートは、その中に恋人の姿をさがしたが、無駄であった。いつまでたっても帰ってこないタンホイザーに、エリーザベトは、マリア像に熱烈な祈りを捧げ、タンホイザーの罪が許されるなら自分の命を捨てても良いと決意した。これを見かねた、ヴォルフラムは、日夜の祈りでやつれ果てたエリーザベトを送っていこうと言ったが、エリザベートは身振りで謝絶し、ひとり去っていった。一人残ったヴォルフラムは、エリザベートの死を予感し、彼女を憂(うれ)いながら、空にやさしく輝く星に向かって「夕星よ、エリザベートの道を照らせ」と祈った。タンホイザーは幾多の苦難を乗り越えて、ようやくローマに到着したものの、ローマ教皇はタンホイザーに対して「ヴェーヌスベルクでの邪悪な快楽は永劫の罪であり、手にする枯れた杖に緑の芽がふかぬ限り、お前を許すことはできない」と言って、罪を許さなかった。途方にくれたタンホイザーは、再びヴェーヌスの快楽を求めるようになり、ぼろぼろの衣をまとい、やつれ果てた姿で、ヴェーヌスベルクの洞窟へ向かった。その道中で、タンホイザーは親友ヴォルフラムに出会った。今やタンホイザーは、ただ愛欲の女神ヴェーヌスのみを求めようとするのだった。そこへ女神ヴェーヌスが現われ、タンホイザーを迎えようとした。その時、親友ヴォルフラムは、遠くを見つめてエリザベートの名を激しく呼んだ。これによりタンホイザーは狂気よりさめ、女神ヴェーヌスは地中へと消え去った。ヴォルフラムが「エリザベート!」と呼んだのは、エリザベートの死骸をはこぶ葬式の列が近づいたからであった。ヴォルフラムはエリーザベトが命と引き換えに、タンホイザーの罪の許しを乞うたことを話すと、タンホイザーはエリーザベトの棺のかたわらに寄り添い「聖なるエリーザベト、神にとりなしを! 」と叫んで息を引き取った。そこへ、若い巡礼たちの一行が、神の恩寵をたたえるハレルヤを歌い、緑の葉の生えた杖を持ってやって来た。教皇の予言では、それはタンホイザーが救われた印(しるし)で、彼は、エリザベートの犠牲によって、救済されたのであった。
(参考)
@緑の葉の生えた杖・・・この話は「聖書」の外典にもある。神殿に仕えるマリアに男たちが結婚を申し込んだ。マリアの花婿候補生たちは、それぞれ杖を持って神殿にお参りし、これらの杖は一晩中、神殿に置かれ、マリアの花婿の杖には花が咲くというものであった。見事に花を咲かせたのは大工、ヨセフの杖であったという。
A歌劇「タンホイザー」は正式な名称を「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦」といい全3幕からなるロマン的歌劇である。「さまよえるオランダ人」などを成功させ、勢いにのるリヒャルト・ワーグナーは1842年、この「タンホイザー」の制作にとりかかった。1845年10月にドレスデンの宮廷歌劇場にてワーグナー自身の指揮により初演された。この歌劇「タンホイザー」は主に2つの伝説に取材していて、ひとつは「タンホイザー伝説」で、もうひとつは「ヴァルトブルクの歌合戦の伝説」であるという。
(1)「タンホイザー伝説」
タンホイザーは、ウィーンのバーベンベルク王朝フリードリッヒ2世に仕えていた実在の騎士のミンネゼンガー(恋愛詩人)で、その名はダンフーザーといった。ダンフーザーは、放蕩三昧の生活をしていた。そんな彼がある時、さらに恋の快楽を知ろうとヴェーヌスの洞窟に1年ほどこもったが、やがて、そのことを悔い改めるべくローマ教皇に懺悔した。しかし、ローマ教皇は自分のもつ枯れ木の杖に葉が生えない限り救済できないと述べた。そのことを悲しんだタンホイザーは、再びヴェーヌスの洞窟に帰ってしまうが、後日、ローマ教皇の杖に芽が生えたことから、タンホイザーの捜索を始めるが、彼を見つけ出すことができなかったという。(小話827)「吟遊詩人、ダンフーザー(タンホイザー伝説)」の話・・・を参照。
(2)「ヴァルトブルクの歌合戦の伝説」
ヴァルトブルクの歌合戦の伝説は、1207年にヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハのパトロンだった、ヘルマン侯の宮殿で行われた歌合戦である。負けたほうが命を落とすというもので、ハインリッヒ・フォン・オフテル・ディンゲンという詩人が窮地に立たされていた。命乞いをしたハインリッヒはハンガリーの詩人であり、魔術師でもあったクリングゾルを召喚し、彼の魔法の力を利用して勝利をつかもうとするが、相手となったヴォルフラムがその魔法の謎をとき彼を退けた。
「タンホイザー(死んだエリーザベトにくずれおれるタンホイザー)」(不明)の絵はこちらへ

(小話824)「白水素女(はくすいそじょ)」の話・・・
     (一)
晋の安帝(あんてい)のとき、候官(こうかん)県の謝端(しゃたん)は幼い頃に父母をうしない、別に親類もないので、隣りの人に養育されて成長した。謝端(しゃたん)はやがて十七、八歳になったが、努(つと)めて恭謹の徳を守って、決して非法の事をしなかった。初めて家を持った時には、いまだ定まる妻がないので、隣りの人も気の毒に思って、然(しか)るべき妻を探してやろうと心がけていたが、相当の者も見付からなかった。彼は早く起き、遅く寝て、耕作に怠りなく働いていると、あるとき村内で大きい法螺貝(ほらがい)を見つけた。三升入りの壺ほどの大きい物である。めずらしいと思って持ち帰って、それを甕(かめ)のなかに入れて置いた。その後、彼はいつもの如(ごと)くに早く出て、夕過ぎに帰ってみると、留守のあいだに飯や湯の支度がすっかり出来ているのである。おそらく隣りの人の親切であろうと、数日の後に礼を言いに行くと、隣りの人は答えた。「わたしは何もしてあげた覚えはない。おまえはなんで礼をいうのだ」。謝端(しゃたん)にも判(わか)らなくなった。しかも一度や二度のことではないので、彼はさらに聞きただすと、隣りの人はまた笑った。「おまえはもう女房をもらって、家のなかに隠してあるではないか。自分の女房に煮焚(にた)きをさせて置きながら、わたしにかれこれ言うことがあるものか」。彼は黙って考えたが、何分にも理屈が呑み込めなかった。
     (ニ)
次の日は早朝から家を出て、また引っ返して籬(かき)の外から窺(うかが)っていると、一人の少女が甕(かめ)の中から出て、竈(かまど)の下に火を焚(た)きはじめた。彼は直ぐに家へはいって甕の中をあらためると、かの法螺貝は見えなくて、竈の下の女を見るばかりであった。「おまえさんはどこから来て、焚き物をしていなさるのだ」と、彼は訊いた。女は大いに慌てたが、今さら甕のなかへ帰ろうにも帰られないので、正直に答えた。「わたしは天漢(てんかん)の白水素女(はくすいそじょ)です。天帝はあなたが早く孤児(みなしご)になって、しかも恭謹の徳を守っているのをあわれんで、仮りにわたしに命じて、家を守り、煮焚(にた)きのわざを勤めさせていたのです。十年のうちにはあなたを富ませ、相当の妻を得るようにして、わたしは帰るつもりであったのですが、あなたはひそかに窺ってわたしの形を見付けてしまいました。もうこうなっては此処(ここ)にとどまることは出来ません。あなたはこの後も耕し、漁(すなど)りの業(わざ)をして、世を渡るようになさるがよろしい。この法螺貝を残して行きますから、これに米穀(べいこく)をたくわえて置けば、いつでも乏(とぼ)しくなるような事はありません」。それと知って、彼はしきりにとどまることを願ったが、女は肯(き)かなかった。俄(にわ)かに風雨が起って、彼女は姿をかくした。その後、彼は神座をしつらえて、祭祀(さいし)を怠らなかったが、その生活はすこぶる豊かで、ただ大いに富むというほどでないだけであった。土地の人の世話で妻を迎え、後に仕えて令長となった。今の素女祠(そじょし)がその遺跡である。
(参考)
@岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話823)「早熟の天才作曲家フェリクス・メンデルスゾーン。その栄光と挫折の短い生涯」の話・・・
           (一)
ドイツの天才作曲家メンデルスゾーンは、富豪の名家に生まれ、十分な教育のもとで多彩な才能を開花させ、おだやかな結婚生活をおくった。その上、自由にヨーロッパ各地を旅行して回わり、文豪ゲーテなどの偉大な人物や良き友人たちとも交流し、発表する作品は人気を博し、おまけに容姿にもめぐまれて「彼ほど幸せな音楽家はいなかった」とか「大作曲家と言えば、不遇の人と相場が決っている中で、メンデルスゾーンだけは唯一の例外である」と言われてきた。メンデルスゾーンは、1809年2月3日ドイツ北部のハンブルクで、ユダヤ人アブラハム・メンデルスゾーンとその妻レアとの間(4人の子供=姉のファニー、妹のレベッカ、弟のパウル)の長男として生まれた。メンデルスゾーンの本名は、ヤコプ・ルートヴィヒ・フェリクス・メンデルスゾーン・バルトルディであった。祖父モーゼスは「ドイツのソクラテス」と言われた哲学者で、「メンデルスゾーン(メンデルの息子)」という姓は祖父モーゼス(モーゼスの父の名はメンデル)自身が名付けたものであった。父アブラハムは銀行家、母レアも銀行家の出身で、メンデルスゾーン一族はヨーロッパでも有名な家族の一つであった。メンデルスゾーンほど裕福な出身の音楽家はいなかった。だが、彼らはユダヤ人であった。ユダヤ人の歴史は、迫害の歴史で、メンデルスゾーン一族も例外でなく、多くの迫害に会った。そこで、メンデルスゾーン一族は生き延びるために、ルター派のプロテスタントに「改宗」をした。メンデルスゾーンも、他の兄弟姉妹と共に、キリスト教の洗礼を受けた。その際にニ番目の姓として付けたのが「バルトルディ」の部分で、父アブラハムは、息子に向かって言った「メンデルスゾーンという名のキリスト教徒は存在しないのだ。メンデルスゾーンと名乗ることは自動的にユダヤ教徒であると言っているのと同じだから、これからは十分気を付け、「メンデルスゾーン・バルトルディ」と名乗ること」。しかし、一家が、改宗し名前を改めた以後も、見えないところで差別が続いていた。ただ、メンデルスゾーン本人は自分がユダヤ人であることには全く気に留めておらず、信仰心の篤(あつ)いキリスト教徒であり、ドイツの民族主義的な音楽家だった。1811年(2歳)にハンブルクがナポレオン率(ひき)いるフランス軍に占領され、多数の資産家が逮捕される中、メンデルスゾーン一家はハンブルクを脱出してベルリンへと移住した。この時、まだユダヤ教徒だった彼は(改宗したのは1816年)、差別から公立の学校へ通うことができなかった。しかし、教育熱心だった父は、超一流の家庭教師を招いて、4人の子供たちに一日びっしりと勉強させた。ドイツ語にドイツ文学、ラテン語にギリシャ語、フランス語に英語、算数と数学、図画、舞踏、体操、水泳、乗馬、そして、人間形成のためと考えられていた音楽であった。母レアは、メンデルスゾーンとその姉ファニーに音楽的才能を見出し、ルートヴィヒ・ベルガー(イタリアの作曲家・ピアノ奏者で、近代的ピアノ奏法を確立したクレメンティの弟子)をピアノ教師として招いた。メンデルスゾーンの一家はメンデルスゾーンが幼少のころから、父の計画でヨーロッパ各地へ頻繁に旅行した。
(参考)
@音楽的才能・・・フェリクス・メンデルスゾーンは、モーツァルトのように絶対音感を持ち、一度見た楽譜や一度聞いた音楽を完璧に記憶する記憶能力を有していたという。又、彼の代表作の一つである「夏の夜の夢」序曲の楽譜を引越す際に紛失してしまうも、記憶だけを頼りに全てまた書き出して見せたという。
           (ニ)
1819年(10歳)メンデルスゾーンは、ベルリン・ジングアカデミー指揮者カール・フリードリヒ・ツェルターに師事した。メンデルスゾーンが12歳の時、音楽の師ツェルターからヴァイマール在住の文豪ゲーテを紹介された。文豪ゲーテは才気溢れる美少年メンデルスゾーンを可愛がり、ニ週間の間、ゲーテは毎日、午後はメンデルスゾーンのピアノを聴くことを日課とし、別れる時には自作の切り絵に詩を添えて与えた。この頃に、メンデルスゾーン家で日曜日に開催されていた「日曜コンサート」は、その後、定期的に行われるようになり、メンデルスゾーンはそのためにさまざまな作品を作曲していった。詩人であるハインリヒ・ハイネは少年時代のメンデルスゾーンについて「音楽上の奇跡」と語った。メンデルスゾーンは、15歳の誕生日に自作の音楽劇「二人の甥(おい)、あるいはボストンから来たおじ」を演奏した。これを見た師匠のツェルターはメンデルスゾーンに「モーツァルト、ハイドン、そして大バッハの名において、汝に「職人(マイスター)」の位を授ける」と宣言した。又、作曲家イグナツ・モシェレスは「このフェリクス・メンデルスゾーンは、15歳にしてすでに円熟した芸術家だ」と語った。その年の12月25日 にメンデルスゾーンは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「マタイ受難曲」の写筆スコア(楽譜)を、母方の祖母よりクリスマス・プレゼントとして贈られた。これが、音楽史上の偉業、大バッハの「マタイ受難曲」復活への布石となった。1825年(16歳)の春にメンデルスゾーンは、父アブラハムの商用旅行に同行してパリへ旅行した。彼の目的は、イタリア出身の大作曲家ルイジ・ケルビーニに会うためだった。メンデルスゾーはパリの音楽家達と共に自作のピアノ四重奏曲をケルビーニの前で演奏した。64歳のケルビーニはメンデルスゾーンの音楽的才能を自信を持って証明した。かくて父アブラハムは、息子が音楽家として立つことを許した。メンデルスゾーンはパリを巡っていろいろな作曲家や演奏家の音楽に接したが、彼にとっては、ドイツ音楽の偉大な先人であるバッハ、ベートーヴェンに対する尊敬の念をいっそう強くしただけであった。1828年(19歳)に、メンデルスゾーンは、ベルリン大学に入学した。このころ彼は、大バッハの「マタイ受難曲」の公開演奏の計画を立てた。恩師ツェルターの積極的なサポートを受けたメンデルスゾーンは、原曲に最小限の変更を加えて演奏に臨んだ。こうして翌年(20歳)の3月11日、大バッハの「マタイ受難曲」がジングアカデミーにより演奏された。著名人も列席した満員の聴衆の中、メンデルスゾーンの指揮により、それまで断片的にしか演奏されなかった「マタイ受難曲」が、初演以来、百年ぶりにまとまった形で演奏され、大反響を呼んだ。これにより、バッハ演奏の熱狂の波はあっという間に各地に広がった。4月にメンデルスゾーンは、英国に旅行した。そして、ロンドンに入った彼は、ロンドンに駐在していた外交官の友人クリンゲマンらの力もあって、何の不自由ない生活を送ることが出来た。その後、友人クリンゲマンと共にスコットランド高地への旅に出た。エジンバラのスチュアート王家の城の朽ち果てた礼拝堂、ヘブリディーズ諸島のフィンガルの洞窟などを見て回った。「薄暮どきに私たちはホリルード宮殿に行きました。ここは女王メアリー・スチュアートが暮らし愛を営んだところ---------メアリーがスコトランドの女王として戴冠した祭壇は壊れていました。すべては荒廃し朽ち果てた中に、明るい空から光が差し込んでいます。今日この古い教会堂で私はスコティッシュ・シンフォニーの冒頭を見出したと確信しました」とメンデルスゾーンは記述した。この時のインスピレーションがのちに交響曲第三番「スコットランド」、序曲「ヘブリディーズ諸島(フィンガルの洞窟)」を生むこととなった。1829年(20歳)、姉のファニーが結婚した。だが、メンデルスゾーンはスコットランドからロンドンに戻ったのちのある日、彼を乗せた乗合馬車が街頭で転覆し、彼自身はひざを負傷したのであった。このため帰国は、この年の暮れにまでずれ込み、メンデルスゾーンは最愛の姉ファニーの結婚式に出席することができなかった。
(参考)
@文豪ゲーテ・・・ドイツの詩人・小説家・劇作家。小説「若きウェルテルの悩み」などにより、疾風怒濤(しっぷうどとう))運動の代表的存在となる。シラーとの交友の中でドイツ古典主義を確立。戯曲「ファウスト」、小説「ウィルヘルム‐マイスター」、叙事詩「ヘルマンとドロテーア」など。
Aハインリヒ・ハイネ・・・ドイツの詩人。ドイツの反動的政策を痛烈に批判し、フランスの七月革命を契機に、1831年パリに亡命。愛と革命の詩人とよばれる。詩集「歌の本」、長詩「ドイツ冬物語」など。
Bメアリー・スチュアート・・・スコットランドの女王。諸侯と改革派教会の反抗にあい、子のジェームズ6世(後のイギリス王ジェームズ1世)に譲位。イングランドのエリザベス1世に保護を求めたが、19年間監禁され、女王殺害を企てたとして処刑された。
「1829年のロンドン訪問時のメンデルスゾーン」の絵はこちらへ
           (三)
1830年(21歳)5月にメンデルスゾーンは、再びベルリンを旅立ち、以後ニ年間、各国を巡った。最初にデッサウ、ライプツィヒを訪れ、次いでヴァイマールの文豪ゲーテ(81歳)を訪ねた。7年ぶりの再会ではあったが、ゲーテはメンデルスゾーンを非常に歓待し、ニ日間の滞在予定は延長されることとなった。ゲーテは、メンデルスゾーンを「du」(親しい間柄の場合に用いる二人称)と呼んだ。二人は毎日、メンデルスゾーンの英国旅行のこと、芸術のこと、詩や音楽のことなどについて論じ合った。午後、メンデルスゾーンがピアノ演奏をすることも昔どおりだった。ゲーテは、それまでベートーヴェンの音楽をまったく軽視していたが、それを聞いたメンデルスゾーンが「それではいけません!」とハ短調交響曲(第五番「運命」)の第一楽章をピアノで弾いたところ、ゲーテはそれに興味を覚えた。ゲーテはしばらく熟考し、そして最後に言った「この曲はとても偉大だ。全く凄い。この家が倒壊するのではないかと心配になるほどだ。この曲をフルオーケストラで演奏したら、いったいどうなることだろうか」これがゲーテの、ベートーヴェン開眼のきっかけとなった。1831年(22歳)10月にメンデルスゾーンは、スイスからミュンヘンへ旅行した。スイスでは山中を歩き回り、気に入った風景を次々スケッチしていった。メンデルスゾーンは絵画の才能もあり、特に風景画(旅行の際には必ず一冊のスケッチ帳を手にして、風景画を描いていた)はかなりの腕前であった。ただし人物画は大の苦手であった。その後、メンデルスゾーンは、パリへ向かい、12月にパリ到着した。そして、数日後に代表議会に出席し、市民の打ちたてたフランス王ルイ・フィリップと対面した。演奏会でベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番のピアノ・ソロを担当し、好評を博すが、自らの作曲した序曲「夏の夜の夢」に対する反応はよくなく、交響曲「宗教改革」は、その対位法がパリ音楽院管弦楽団から「理屈っぽい」と言われ演奏を拒否された。そのため、メンデルスゾーンは少なからず落ち込んだ。そんな中、恩師ツェルターの訃報が届いた。
(参考)
@ルイ・フィリップ・・・フランス国王。ブルボン家の支流オルレアン家の出身。フランス革命初期より自由主義者として活躍したが、のち亡命。1830年の七月革命で迎えられ即位。「市民王」と称したがしだいに反動化し、二月革命で追放され、ロンドンで客死。
           (四)
1833年(24歳)1月にベルリン・ジングアカデミーの指導者選挙が行なわれた。ツェルターの逝去以来、空位となっていた指導者の後任を選ぶ選挙に、メンデルスゾーンは、家族や周囲の人たちの勧めを断りきれずに応募した。1月22日選挙が行われ、メンデルスゾーンは落選し、ツェルターの代理を務めていたカール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲンが選出された。メンデルスゾーンの落選は、もちろん24歳という若さもあったが、理由の一つには「ユダヤ人であるから」というものもあった。メンデルスゾーンは、この結果を予想していたとはいえ深く傷ついた。人生初の大きな挫折だった。同年、姉のファニーと妹のレベッカは「家族の名誉が傷つけられた」として、ジングアカデミーから退会した。春にフレデリック・ショパンのピアノ演奏を聴いた25歳のメンデルスゾーンは、ショパンについて「奇蹟のようなものだ」と述べた。1835年(26歳)の秋にライプツィヒ市の音楽監督に就任したメンデルスゾーンは、ライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団を指揮し、ベートーヴェン、ハイドン、モーツァルトの交響曲をベースに、同時代の作曲家の作品も積極的に紹介した。曲の新旧に関わらず、その鮮やかな指揮で音楽に生命を吹き込むメンデルスゾーンのもとへ、同時代の作曲家達は次々に自作の初演を依頼した。彼は始めて指揮棒を使用し、その振り方や身振り、目配せなどでオーケストラを手足のように操(あやつ)った。また、膨大なスコア(楽譜)を全て記憶し、本番では暗譜で指揮を行った。そのスタイルがあまりにも見事だったため、彼の指揮法はあっという間に広まった(現在の指揮者の元祖は、メンデルスゾーンと言われる)。11月に父アブラハム・メンデルスゾーンが59歳で亡くなった。アブラハムのよく知られた言葉に「私はかつては父(高名な哲学者であったモーゼス・メンデルスゾーン)の息子として知られていたが、今では息子(有名な作曲家であり指揮者であるフェリクス・メンデルスゾーン)の父親として知られている」とか、また「自分は父と息子をつなぐダッシュ(―)である」があるが、しかし彼は一代で財を成した優れた銀行家であり、そして、人格者であった。メンデルスゾーンは、父の死に非常なショックを受けた。そして、父が完成を心待ちにしていた作曲中のオラトリオ(宗教的な題材をもとにした大規模な楽曲で、オペラとは異なり、演技を伴わない)「聖パウロ」の完成に向け、今まで以上に作曲、修正に没頭した。
(参考)
@フレデリック・ショパン・・・ポーランドの作曲家・ピアニスト。独特なピアノ書法による華麗で優雅な旋律で、独創的境地を開き、ピアノの詩人とよばれる。作品にポロネーズやマズルカのほか、ピアノソナタ・前奏曲・練習曲・夜想曲など。
           (五)
1836年(27歳)夏にメンデルスゾーンは、フランクフルト・アム・マイン(ドイツ西部の都市)に滞在した。この地でメンデルスゾーンは、やっと父の死という痛手から立ち直った。そして、セシリア教会で歌っていた、ジャンルノー家の未亡人の娘セシル(20歳)と出会い、恋に落ちた。翌年に、彼はセシル・ジャンルノーとジャンルノー家のあるフランクフルトで結婚した。新婚旅行のあと、10月にライプツィヒに着き、新居に移った。メンデルスゾーンは、幸せな家庭生活を手に入れ「言葉で言い表せないほど、幸福である」と語った。セシルは音楽的素養はあまりなかったものの、彼のピアノ曲は好んでいた。1838年(29歳)に長男カールが生まれ、1841年(32歳)に、次男パウルが生まれた。そして、1842年(33歳)にメンデルスゾーンは、交響曲第3番イ短調「スコットランド」を完成させた。若い頃に作った第1番、それに続く第5番「宗教改革」、第4番「イタリア」、そして第2番「讃歌」につづく、メンデルスゾーン5番目の交響曲であった。当時も演奏会の主要となるのは交響曲であったので、そこに自作のレパートリーを持つことは、彼の長年の念願だった。メンデルスゾーンは6月に英国を訪問し、バッキンガム宮殿に招かれた。そして、2年前に結婚したばかりのヴィクトリア女王と、その夫アルバート公に謁見した。このとき、交響曲イ短調「スコットランド」を女王に献呈した。10月にプロイセン王に謁見したメンデルスゾーンは、ベルリンでの職務を辞することを申し出た。プロイセン王との間で話し合いが行われ、メンデルスゾーンはプロイセンの音楽総監督に就任すること、王が仕事を委任した時はそれを引き受けることなどの条件で、ライプツィヒに帰ることとなった。ライプツィヒに戻ったメンデルスゾーンは、前年ザクセン王から設立許可が下(お)りていた音楽院の設立に取りかかった。12月には、深く愛し尊敬していた母親レアが亡くなった。1843年(34歳)4月3日にライプツィヒ音楽院を開校した。メンデルスゾーンの先生ぶりは、大変簡潔でわかりやすい一方、課題の出来が悪かった生徒を必要以上に怒ったり、あとで同僚間で嘲(あざけ)ったりした。彼の性格そのままであった。そのせいで、彼は、自分が教師には向いていない、と思っていた。この頃、プロイセン王の依頼により、シェイクスピアの同名戯曲のための付随音楽を作曲しなければならなくなったメンデルスゾーンは、16歳の時に作曲した序曲「夏の夜の夢」のモチーフを駆使して急ピッチで仕上げ、ポツダムの新宮殿で上流階級・知識人らの前で劇付随音楽「夏の夜の夢」(第4の結婚行進曲は有名)を演奏した。さらに、メンデルスゾーンは、1844年(35歳)に「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64」を作曲し、この協奏曲は後に、ベートーヴェン、ブラームスの、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲と並んで「四大ヴァイオリン協奏曲」と称された。
(参考)
@「スコットランド」・・・メンデルスゾーンは交響曲の第1番はその内容における満足度から習作と捉えており、「宗教改革」も同じ理由から事実上の破棄状態、さらに「イタリア」も気に入らず改作中で、「讃歌」は純粋な交響曲ではない、と認識していたため、「スコットランド」が実質上メンデルスゾーンの「最初の交響曲」となった。「スコットランド」という通称は「イタリア」と同じく彼の死後につけられたものである。
「ヴィクトリア女王の御前でピアノを演奏するメンデルスゾーン」の絵はこちらへ
           (六)
1845年(36歳)のメンデルスゾーンは、多忙な作曲活動に忙殺された。そのため新大陸(アメリカ)のニューヨークからの招待があったが、これを断った。又、それまでワーグナーとメンデルスゾーンの関係は良好だった。ベルリンでのワーグナーの「さまよえるオランダ人」初演時にメンデルスゾーンは舞台に駆け上ってワーグナーに祝辞を述べ、ワーグナーも一年後の「聖パウロ」の演奏に賛辞の文を著(あらわ)した。また、彼のことを「音の風景画家」と讃えていた。ところが、ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会でワーグナー作曲の「タンホイザー」序曲を採り上げて指揮したところ、メンデルスゾーンの速いテンポの演奏に、聴衆の反応は冷ややかだった。この一件が4歳年下のワーグナーの心を傷つけた。メンデルスゾーンは扁頭痛に悩まされながら英国より帰国した時、医者より「これ以上ピアニストとして演奏会を開かないこと」を強く勧められ、彼はこれを了承した。これにより以後、メンデルスゾーンは指揮からは事実上、身を引き、ほぼ作曲に専念するようになった。1847年(38歳)5月14日に姉ファニーが41歳で亡くなった。4歳年上の姉ファニー・メンデルスゾーンは、音楽においては弟にも劣らぬ才能を秘めていた。文豪ゲーテも彼女の歌曲を好み、メンデルスゾーンへの手紙でファニーのことを「等しく才能のある姉君」と記していた。また、彼女はメンデルスゾーンと幼い頃から大変仲が良く、作品を作る際にはいつも相談を持ちかけ、また完成するとまっさきに批評してもらっていた。女性のためファニーは、作曲家として立つことは許されなかったが、その歌曲やピアノ曲は秀作揃いで、メンデルスゾーンは自分の曲集に姉の作品を交えて発表することもあった。メンデルスゾーンが多忙のため家を空けている間は、姉のファニーがメンデルスゾーン家の「日曜音楽会」を取り仕切っていた。メンデルスゾーンは姉の才能を認めていたが、彼女が作品集を出版することには反対していた。しかし、姉のファニーは自分の意志を貫き、1846年に自作のピアノ曲集を出版し、大好評を得た。メンデルスゾーンも姉の意志を認め、これを応援することを約束した。その矢先のことで、この日、いつものように「日曜演奏会」のためのリハーサルを行っていたファニーは突如倒れ、そのまま息を引き取った。脳溢血による急死だった。これを聞いたメンデルスゾーンは、激しいショックを受けた。ただでさえ心身ともに衰弱しているところに、最愛の姉の死の知らせを聞いたことで、叫び声を上げるや気を失って倒れてしまった。それ以来、彼の仕事は機械的になり、一人でいることを好み、とくに森を一人で散策することが増えた。その足取りは老人のように重く、また極度に興奮しやすくなり、知人達は、メンデルスゾーンがもはや別人のようになってしまったと感じた。夏、静養のためにスイスへ赴いたメンデルスゾーンは、激情に駆られて「姉へのレクイエム(鎮魂歌)」とも言われる作品「弦楽四重奏曲ヘ短調(第六番)」を作曲した。メンデルスゾーンはバーデン・バーデンに休養に出かけ、9月にライプツィヒの自宅へ戻った。10月9日に彼は強い不快感にとらわれ、病床に着いた。そして回復しないまま、姉のファニーの後を追うように11月4日、木曜日、午後9時24分、ライプツィヒの自宅で息を引き取った。最期の言葉は「疲れた・・・とても疲れた」で、死因は、脳溢血と推定された。享年38歳。短い生涯であった。彼の遺体は、ベルリンのミーリンダム墓地の姉ファニーの墓の隣に運ばれた。
(参考)
@ワーグナー・・・ドイツの作曲家。従来のアリア偏重のオペラに対し、音楽・演劇・詩の統一的な融合による総合芸術をめざして楽劇を創始。作品に「タンホイザー」「ローエングリン」「トリスタンとイゾルデ」「ニーベルングの指輪」。メンデルスゾーンは、生前は高い名声を誇っていたが、その後のドイツでの評価はさほどでもない。これには、リヒャルト・ワーグナーの反ユダヤ宣伝、反メンデルスゾーン宣伝が大きく影響していると言われる。
Aワーグナー作曲の「タンホイザー」・・・(小話825)オペラ(歌劇)「タンホイザー」の話・・・を参照。
「フェリクス・メンデルスゾーン」の絵はこちらへ
「いろいろのフェリクス・メンデルスゾーンと妻セシル」の絵はこちらへ


(小話822)「人間のからだ」の話・・・
           (一)
民話より。昔、むかし、大喧嘩が起った。ロと目と耳と鼻と心臓と手と足とが、誰が一番すぐれているかと、言い争いをはじめた。「ぼくが一番だよ、君たちよりも先に、なんでも見えるんだから」と目は言った。「いいや、ぼくが一番さ、まっ先に、なんでも聞けるんだから」と耳が言った。「それは間違っているよ。ぼくが一番なんだ。なにしろぼくは、まっ先に、なんでも嗅げるんだから」と鼻が言った。「そりや違う、ぼくが一番さ。ぼくはなんでも食べるんだから」と口が言った。ところが、手はこう言った「君たちはみんな間違っているよ。ぼくが一番なんだ。もしぼくが、まず、なにかを取らなかったらどうなる?」。足も負けてはいなかった「いや、いや、違うよ、ぼくが一番だ。なぜって、ぼくはどこへでも行けるんだから」。こうした争いの中で心臓だけはじっと黙って、胸の中にすわっていた。みんなの言いたてることを聞いて、いったいどうなるのかと黙っていた。六人(ロと目と耳と鼻と手と足)のものは、一日中、言い争っていた。だれも相手に勝をゆずろうどはしなかった。
          (ニ)
それから九日と九晩、この喧嘩はつづいた。それでもまだ終わらなかった。みんながみんな、いまに誰かが降参するだろうと思っていた。ところが、誰もかれも頑固であった。みんながあんまりうるさく言い合うので、とうとう、心臓は言った「目くん、鼻くん、耳くん、口くん、手くん、君たちに本当のことを言おう。ただし、足くんだけはちょつと別にしておくがね。君たちの言っていることは、じつに馬鹿らしい。一番すぐれているのは、このわたしだよ。その次が足くんなんだ。わたしが一番だというわけは、わたしがいてはじめて、君たちは運動ができるからさ。もし心臓が打たなけれぱ、君たちはなんにもできやしない。わたしが動けぱ、足くんがそれにつづく。それから手くん、そして目くん、君だよ。目くん、君はただ見るだけで、それ以上の役には立たない。耳くん、君は聞くだけの役にしか立たない。鼻くん、君も同じように、ただ嗅ぐだけだ。ロくん、君は食べるだけの役にしか立たない。わたしが働かなけれぱ、足は動かず、手は何も取らない。そうなれば、口くん、君はなにも食ぺることができない。わたしが働いてはじめて、足が動き、手がなにかを取る。そうなってやっと口くん、君は食ぺられるのだ。だから、たんといっても、わたしが一番すぐれている。わたしが活動をはじめなければ、誰も仕事をはじめられないんだから。でも、結局みんなが協力してくれなければ、ぼくも活動できないんだよ」
(参考)
@(小話番外・小話11=差替版)「顔面問答」の話・・・と(小話697)「体の器官」の話・・・を参照。


(小話821)「人類最初の建築家の兄弟、トロポニオスとアガメデス」の話・・・
           (一)
ギリシャ神話より。人類最初の素晴らしい建築家トロポニオスは、ミニュアス人の王エルギノスの息子であった。父親のエルギノス王は、アルゴー船の大冒険に参加し、船の舵(かじ)取りテピュスの亡き後、アルゴー船の操縦を任された勇者であった。エルギノス王は、父クリュメノスの死に復讐を誓い、テーバイを攻めテーバイを打ち倒して、二十年間、毎年百頭の牡牛を貢物(みつぎもの)として送るという条件で休戦した。ところが、テーバイへ貢物を受け取りに行く使者が、ライオン狩りの帰り道の若きヘラクレスと出会って虐殺されてしまった。このことに怒ったエルギノス王はヘラクレスが滞在しているテーバイに出兵したが、女神アテナから武具をもらったヘラクレスに打ち負かされてしまった。その為、エルギノスの国は退廃し、彼もまた妻を迎えることが出来ずにいた。高齢に達した彼は、デルポイに神託を問うと、鋤(すき)きを新しい石突(いしつ)きに交換するように言われた。すると彼は、すぐに若々しい妻と結婚することが出来てトロポニオスとアガメデスという息子を授かった。二人の兄弟は成長すると、優れた建築家になった。海王ポセイドンの神殿、デルポイの太陽神アポロンの神殿など、数々の神々の宮殿を建てた。しかし、二人はボイオティア人ヒュリエウス王(又はアウゲイアス王)の為に宝庫を建築したとき、邪心を抱いてしまった。二人しか知らない石の隠し扉を設置し、石を取り外(はず)しては盗みを働き始めた。大切な宝物が消えていることに気付いたヒュリエウス王は、宝物庫に罠を仕掛けた。何も知らずに宝庫へやってきた二人は宝庫へ入ってしまい、弟のアガメデスは罠に掛かり、重傷を負ってしまった。アガメデスが助からないと感じた兄のトロポニオスは、その顔から犯人とわかることを恐れ、アガメデスの首を切り取って、持ち去った。その場は無事に逃げ出したトロポニオスだったが、やがて彼は、ヒュリエウス王によって追跡され森の奥の大地に飲み込まれてしまった。
(参考)
@トロポニオス・・・アポロン神の息子と言われたトロポニオスとアガメデスの兄弟は、生涯にわたって多くの神殿を建てた。そんな彼らが、父親である太陽神アポロンにどんな報償がもらえるかをたずねたところ、アポロン神は「できるかぎり大きな報償をあげるから、6日間(又は8日間)好き勝手に楽しんですごしなさい」と言った。二人の息子たちが言われたとおり6日間又は8日間)好き勝手に過ごすと、アポロン神は7日目(又は8日目の夜)に息子たちを眠らせ、彼らが眠っている間に、一切、何の苦痛も与えず、彼らの命を奪った(アポロン神は、安らかな死こそが息子に対する最高の贈りものと考えた。このため「神々が愛したもう者は若死にする」という格言がある)という説もある。これは、リディア王クロイソスに親孝行なアルゴスのクレオビスとビトンの物語をした賢者ソロンの話にもある。この兄弟の母親は息子達がしてくれた親孝行に対し、できる限りの最高の贈物を賜らんことを女神ヘラに祈った。するとこの報酬は、デルポイの神殿を最初に建てたトロポニオスとアガメデスにアポロン神が賜ったのと同じものであった。(小話602)「リディア王クロイソスと賢者ソロン」の話・・・を参照。
Aデルポイ・・・デルポイはギリシャ本土、パルナッソス山のふもとにあった古代ギリシャの都市国家(ポリス)である。アポロン神殿を中心とする神域と、都市からなる。神託は、神がかりになったデルポイの巫女(みこ)によって、謎めいた詩の形で告げられる。
B大地に飲み込まれてしまった・・・大地に飲み込まれて命を落としたという説もある。
         (ニ)
何年かのち、ひどい早魅(かんばつ)を終わらせるためにボイオティア人の王ヒュリエウスは、神託を求めた。予言者ビュティアは、トロポニオスの所へ行くようにヒュリエウス王に勧め、トロポニオスの住む森の奥の洞窟を教えた。ヒュリエウス王と部下たちはそこへ来たが、予言者を見つけることができなかった。しかし、彼らのうちの一人は、偶然ミツバチの群れを見つけて、ミツバチの後を追った。すると、そこは捜していた場所であることがわかった。地下の予言者トロポニオスの答えは当たり、早魅を終わった。以来、ここは評判の神託所の一つとなった。しかし、トロポニオスの神託を受けるには、恐ろしい試練を経(へ)なければならなかった。いくつかの地下広間や洞穴が続いたあと、冷たく暗い、一つの洞窟の入り口に着く。神託を受ける者は、そこから梯子(はしご)で下に降りて行き、降りたところに非常に狭いもう一つの穴が口をあけていた。そこに足から入り、なんとか体を通すと、次は洞の底へ矢のように墜落した。それから目に見えぬ道具で、逆(さか)さに底から上へ吊り上げられた。この行程の間中、手にミツバチの巣を持っていなければならなかったが、それは体を操(あやつ)る道具に触れないようにするためと、この地下にはびこるヘビを静かにさせるためであった。洞窟の試練は一昼夜にわたることもあった。このため不信心者は、再び日の光を見ることはなかった。信心深い者がときどき神託を聞くことがあった。彼らは地上に戻って来ると「記憶の女神」と名づけられた椅子に座り、どんなに恐ろしいめにあったか思い起こし、その強烈な印象は一生涯、心に刻みこまれるのであった。真面目(まじめ)くさった陰気な人のことをしばしば、次のように言った「あの人はトロポニオスの神託を受けた」と。
(参考)
「トロポニオス」(不明)の絵はこちらへ


(小話820)「鼠(ねずみ)の嫁入り」の話・・・
            (一)
昔話より。昔、むかし、ある家のお倉の中に、お米や麦や粟や豆を持って、大変ゆたかに暮らしている金持ちの鼠(ねずみ)が住んでいた。子供がなかったので神様にお願いしたら、やっと女の子が生まれた。その子はずんずん大きくなり、輝くほど美しくなって、それは鼠(ねずみ)の国でだれ一人くらべるもののない日本一の美しい娘になった。こうなると、もう鼠(ねずみ)の仲間には、とても娘のお婿(むこ)さんにするような者はいなかった。鼠(ねずみ)のお父(とう)さんとお母(かあ)さんは「うちの娘は日本一の娘なのだから、何でも日本一のお婿さんをもらわなければならない」と言った。そこで、この世の中で一番えらいお日様の所へお父さんとお母さんは娘を連れて行った。そして、お日様に「お日さま、お日さま、あなたは世の中で一番えらいお方です。どうぞわたくしの娘をお嫁にもらって下さいまし」と言っておじぎをした。するとお日様は、ニコニコしながら「それはありがたいが、世の中には私よりもっとえらいものがいるよ」と言った。「まあ、あなた様よりもえらい方がおられるのですか。それはどなたでございますか?」「それは雲さ。私がいくら空でかんかん照っていようと思っても、雲が出てくるともう駄目になるのだからね」「なるほど」。お父さんはそこで、今度は雲の所へ出かけた。すると、雲は言った「世の中には、私よりもっとえらいものがいるよ」「それはどなたでございますか?」「それは風さ。風に吹き飛ばされては私もかなわないよ」「なるほど」。お父さんはそこで、こんどは風の所へ出かけて行った。
         (ニ)
すると、風が言った「世の中には私よりもっとえらいものがいるよ」「それはどなたでございますか?」「それは、壁(かべ)さ。壁ばかりはわたしの力でもとても、吹き飛ばすことはできないからね」「なるほど」。お父さんはそこで、壁の所へ出かけて行った。すると、壁が言った「世の中には私よりもっとえらいものがいるよ」「それはどなたでございます?」「それはだれでもない、そういう鼠(ねずみ)さんさ。私がいくら真(ま)っ四角(しかく)な顔をして、固(かた)くなって、頑張っていても、鼠(ねずみ)さんは平気(へいき)でわたしの体を食い破(やぶ)って、穴をあけて通(とお)り抜けていくじゃないか。だから私はどうしても鼠(ねずみ)さんにはかなわないよ」「なるほど」と鼠(ねずみ)のお父さんは、今度こそ本当に感心したように「これは今まで気がつかなかった。じゃあ、わたしどもが世の中で一番えらいのですね。ありがたい。ありがたい」とニコニコしながら、帰って行った。そして、帰るとさっそく、お隣のちゅう助(すけ)鼠(ねずみ)を娘のお婿さんにした。若いお婿さんとお嫁さんは、仲よく暮らして、お父さんとお母さんを大事にし、たくさんの子供を生(う)んで、お倉の鼠(ねずみ)の一家はますます栄えた。


(小話819)「イソップ寓話集20/20(その27)」の話・・・
       (一)「ライオンとウサギ」
ライオンは、偶然にも、ぐっすりと眠っているウサギを見つけた。ライオンがウサギを捕(つか)まえようとしたその時、一匹の若い立派な牡(おす)ジカが駆けていった。ライオンは、ウサギはそのままにしてシカの後を追った。ライオンは長いことシカを追いかけたが、結局、捕まえることはできなかった。それでライオンは、ウサギの許へと引き返そうと思った。しかし、引き返してみるとウサギもすでに居なくなっていた。ライオンは独りごちた。「こんな目に遭うのも当然だ。もっとよい獲物を捕ろうと、手の内にあった獲物を投げ出してしまったのだからな!」
       (ニ)「農夫とワシ」
農夫は、罠にかかったワシを見つけたのだが、ワシがとても立派だったので、逃がしてやることにした。すると、ワシは恩知らずではないことを、農夫に証明してみせた。ワシは、農夫が危険な壁の下に座っているのを見ると、急降下して、彼の頭からハチマキを奪い取った。農夫が追いかけると、ワシは、そのハチマキを落として返してやった。農夫がハチマキを拾い上げて、もとの場所に戻ると、彼が寄りかかっていた壁は、崩れ落ちていた。農夫はワシの恩返に、大変心を打たれた。
       (三)「踊るサル」
ある王様が、踊りを踊るように仕込まれたサルを数匹、飼っていた。人のしぐさをとても上手に真似るサルたちは、利発な生徒よろしく、立派な洋服と、マスクに身を包み整列すると、廷臣の誰よりも上手に踊った。そのショーはしばしば、大変な賞賛のもとに、再演された。あるとき、一人の廷臣が悪戯(いたずら)しようと、ポケットからナッツを一掴(ひとつか)み取り出すと、ステージに投げた。ナッツを見たサルたちは、自分たちの踊りを忘れ、芸人であることも忘れて、(本性むき出しの)サルへと戻ってしまった。彼らは、マスクを剥ぎ取り、ローブを引き裂くと、ナッツを巡ってお互いに争った。このようにダンスショーは、観衆の笑いと嘲笑に包まれて終わった。


(小話818)「古代ギリシャの七賢人(その4)、政治家、立法家ピッタコス」の話・・・
           (一)
古代ギリシャの政治家であると同時に立法家でもあったピッタコスは、ヒュラディオスの子で、勇敢なミテュレネ人であり、レスボス島の僭主(せんしゅ)であった暴君メランクロスを保守派貴族のアルカイオスの支援を受けて打倒した。普段は温容優雅な気品を漂わしていて、不要な対立や諍(いさか)いを避けようとする穏やかな性格であったが、いったん戦争を覚悟すれば毅然とした態度で戦いに臨(のぞ)んだ。アテナイ(アテネ)人との間で、アキレイティスの土地の所有権を巡ってミテュレネが戦争になったときも、ピッタコスはアテナイの勇者との一騎打ちに応じた。その時は、盾の後ろに相手を絡(から)め取る網を隠し持っていて、それを投げつけて動きを封じて討ち取る奇策を用いてピッタコスが勝利した。ピッタコスは、ミテュレネの民衆の絶大なる支持と尊敬を受けて、10年間、僭主(せんしゅ)の地位に就いていたが、国家の政治を安定軌道に乗せてから僭主の地位を辞去した。ミテュレネ人達は、彼が僭主であった時期の素晴らしい善政に対する報酬として、一区画の土地を献上したが、ピッタコスはその土地を再び神へと献上してしまった。その土地は、神聖なものとして「ピッタコスの土地」と呼ばれた。ピッタコス自身は決して裕福ではなかったが、兄弟の死により十分な額の遺産を手にしていた。その為もあって金銭や土地の私有に対する欲求はあまり強くなかった。その上、ピッタコスは重厚、温和、そしてみずから卑下する心を自分の内に有していて、あらゆる徳に関して完璧な人物であると万人に認められていた。すなわち、立法(政治)に際しては思慮深い人物たることを、信義においては義人たることを、武装しての任にあっては勇者たることを、利得に対する雅量においては無欲恬淡とした人物たることを証したのであった。
(参考)
@僣主(せんしゅ)・・・古代ギリシャの諸ポリス(都市国家)にみられた非合法的手段で支配者となった者。多くは貴族出身で平民の不満を利用し、その支持を得て政権を掌握した。
           (二)
僭主となったピッタコスは、政治家であると同時に立法家でもあったので、ミテュレネに様々な法律を制定した。レスボス島の中心都市ミテュレネは、美味(おい)しいワインの取れる名産地であったので、ワイン(ぶどう酒)に深酔いして暴行や悪事を働くものが後を絶たなかった。そこで、ピッタコスは、飲酒して酩酊した者が、犯罪を犯した場合には、罰則を二倍に加重するという法を定めた(「酔うて人を殴(う)つ者の罰は、醒(さ)めて人を殴つ者の罰に倍すべし」)。しかし、ピッタコスは、一般の罪人に対しては寛容であり「素晴らしき人であることは難しい」と「許してあげるほうが、報復するよりも善(よ)い」と語って、それほど厳しい取締りや行き過ぎた処罰をすることはなかった。とはいえ、彼は法による社会秩序の維持を最善であると考えていた。リディア国のクロイソス王から最良の支配とはどのようなものであるかと問われて「多種多様な木材(法律)による支配である」と答えた。ある時、ピッタコスはエジプト王が犠牲に捧げる羊を送つて来て、そこから最悪かつ最善の部分を切り離すやうに依頼された。その時ピッタコスは、羊の舌を切り取って送り返した。それは、舌こそは寡黙(かもく)であることによつて世界に最善をもたらし、おしやべりであることによつて最悪をもたらす物だからであった。ピッタコスは、70歳で生涯を終えた。
(参考)
@ピッタコスは政治家・・・反対の人物像が伝えられていることもあり、ピッタコスは自慢ばかりしていて「ほら吹き」と呼ばれたとか、倹約が行き過ぎてランプをつけることも出来ず「暗闇の中で夕食をとる人」と渾名(あだな)されたとか、不潔でだらしのない無精者だったとする記録も残っている。
Aアルカイオス・・・古代ギリシャの詩人で、アルカイオス風スタンザという詩型を創始した。レスボス島に生まれ、ピッタコスと協力して暴君メランクロスを打倒したが、後に僭主となったピッタコスに対抗する勢力の指導者となった。アルカイオスはピッタコスを「太っているの、横着で不潔の、足が悪いの、生まれが卑しいの」と個人攻撃の詩篇を残した。又、詩人といえば謎の女流詩人サッフォーは、時の僭主ピッタコスに謀反を企んだかどで、島流しにされている。(小話477)「十番目のムーサ(詩神)と言われた美しき女流詩人・サッフォー」の話・・・を参照。
           (二)
ピッタコスは、一番、有り難いものとして「時間」を挙(あ)げ、不確かなものとして「未来」を考えた。彼は、謙譲と寛容の精神を美徳として、バランスの良い人生を歩むことを推奨する、次のようなアフォリズム(格言)を残している。
(1)人の不運を咎(とが)めないこと、報復は恐ろしいから。
(2)潮時(しおどき)を知れ(機を知れ)。
(3)預かったものは返すこと。
(4)友人を悪く言わないこと、いや、敵でさえも悪く言わないこと。
(5)等分はより多いものよりもより多い。
(6)敬神に励むこと。
(7)節制の徳を愛すること。
(8)正直、誠実、経験、器用さ、友情、親切心を養うこと。
(9)最もよいことは何か。やることを立派にやることである。
(10)時は、前髪をもってはとらえ得ない(時はその前髪を掴(つか)んで捉えよ)。
(11)人にはそれぞれ悩みがある。私のは妻の悪い頭だ。これさえなければあらゆる点で仕合せだと思うのだが---。
(12)困った事態が起こる前に、それが起こらないようにあらかじめ考えておくのが分別のある人間のすることである。しかし、起こってしまったなら、うまく処理するのが勇気のある人のすることだ。
(13)これからしようと思っていることを、前もって人に告げることはない、失敗すれば笑われるだろうから。
「ピッタコス」の像の絵はこちらへ


(小話817)「仙腰a尚逸話(その2)。「美濃の国」と「菊の花」と「大往生」」の話・・・
         (一)
仙腰a尚が美濃(岐阜県)の清泰寺に住職していたときの話。その時の藩主は金森美濃守であったが、藩政はは乱脈を極めていた。そこで、家老職を更迭して刷新を期したが、いっこうにご政道は改まるふうはなかった。これを見ていた仙腰a尚は、狂歌一首を作った。「よかろうと思う家老が悪かろう、元の家老がやはりよかろう」。ところが、このことが悪家老の耳に入った。「清泰寺の坊主、沙門(しゃもん=僧となって仏法を修める人)の身にありながら、ご政道に口を出すとはけしからん」と早速、傘一本で国外追放との厳罰を申しつけた。しかし、仙高ヘいっこうに平気なもので、使いの役人の前でまた、狂歌を一首作った。「から傘(かさ)をひろげてみれば、天(雨)が下、たとえ降るとも、蓑(みの=美濃)は頼まじ」と。
@仙腰a尚・・・仙豪`梵(せんがいぎぼん)は、岐阜県生まれで、江戸時代後期の臨済宗妙心寺派の禅僧。諸国を行脚し、40歳から62歳に至る23年間を聖福寺の第123世住持としてすごしました。書画が有名で、禅の教えをユーモアをもって描いている。
         (二)
福岡藩主、黒田斉清(くろだなりきよ)は、菊の花がことのほか好みであった。城中には、沢山の菊の花が咲き誇っていた。家臣が間違って折りでもしようものならたちまち厳罰がまっていた。ある時、一人の家臣が誤って菊の大輪を折ってしまった。案の定、家臣は閉門となってしまった。それを悔いた家臣は切腹しようとしたが、その噂を聞きつけた仙腰a尚はその家臣の家に急いだそして、彼に言った「たかが菊の花一本に犬死にするつもりか、ここはわしに任せなさい」と。そして、ある雨の夜、仙高ヘ城中に忍び込み、なにを思ったか片っ端から菊を鎌で切り倒してしまった。なにやら怪しい物音に気づいて 黒田候は出てきてびっくりした。そこには自分が尊敬している仙腰a尚がいた。黒田候が「なんでこのようなことをするのか」と仙高ノ尋ねると、仙高ヘ言った「こんな草でもこうして刈り取って積んでおけばなんの時かは埋め草ぐらいにはなりましょうぞ」と。どんな足軽の小者でも日頃目をかけていれば、必ずいざというときに 役に立つものだと暗に諭(さと)したのだ。さすがに名君と言われた黒田候はすぐに仙高フ意を悟って、家臣の閉門を許し、その後は好きな菊の栽培もやめてしまった。
         (三)
88歳になった仙腰a尚は、もう起き上がれないほどの衰弱を見せた。和尚を慕う人々が病床の隣の部屋にあふれんばかりに集まり、和尚を励ましていた。だが、やがてほとんどみんなの声が聞こえなくなった仙高ヘ、白衣を出させ、襖を閉じさせて白装束に着替えさせた。半身になった仙高ヘ禅僧が書き残す遺偈(ゆいげ)を書こうとして筆を取った。「来時知来処  去時知去処  不撤手懸崖  雪深不知処(来る時来る処を知り、去る時去る所を知る。懸崖に手を徹せず、雪深くして処を知らず)」と花押を記して倒れるように床についた。そして、仙高ヘ「みんないつものとおりじゃな」と微笑んだ。いま満たされた生涯を閉じようとしている和尚の、その瞬間の言葉を一言一句漏らさず聴こうとする弟子たちは「お師匠さま、最後の教えの言葉をお願いします」と申し上げた。ゆっくりと仙腰a尚は口を開き「死にとうない」と漏らした。「な、何とおおせられました」。弟子たちは愕然とした。大禅師の最期にあるまじき言葉と感じ、師を思うために狼狽した。だが、仙高フ微笑は続いていた。「ほんまに、死にとうないのう」。そして、仙高ヘ眠るように大往生した。
(参考)
@禅僧が末期(まつご)に臨んで門弟や後世のためにのこす偈(詩句の形式をとり、4字、5字または7字をもって1句とし、4句から成るものが多い)。


(小話816)「大蛟(おおみずち)」の話・・・
         (一)
安城平都(あんじょうへいと)県の尹氏(いんし)の宅は郡の東十里の日黄(じつこう)村にあって、そこに小作人(こさくにん)も住んでいた。元嘉(げんか)二十三年六月のことである。ことし十三になる尹氏(いんし)の子供が、小作の小屋の番をしていると、一人の男が来た。男は年ごろ二十(はたち)ぐらいで、白い馬に騎(の)って繖(かさ)をささせていた。ほかに従者四人、みな黄衣を着て東の方から来たが、ここの門前に立って尹氏(いんし)の子供を呼び出し、暫(しばら)く休息させてくれと言った。承知して通すと、男は庭へはいって床几(しょうぎ)に腰をおろした。従者の一人が繖(かさ)をさしかけていた。見ると、この人たちの着物には縫い目がなく、鱗(うろこ)のような五色の斑(ふ)があって、毛がなかった。やがて雨を催して来ると、男は馬に騎(の)った。
         (二)
「あしたまた来ます」と、彼は子供を見かえって言った。その去るところを見ると、この一行は西へむかい、空を踏んで次第に高く昇って行った。暫(しばら)くすると、雲が四方から集まって白昼も闇のようになった。その翌日、俄(にわ)かに大水が出て、山も丘も谷もみなひたされ、尹氏(いんし)の小作小屋もまさに漂い去ろうとした。このとき長さ三丈とも見える大きい蛟(みずち)があらわれて、身をめぐらして此(こ)の家を護った。
(参考)
@蛟(みずち)・・・古くは「みつち」で「み」は水、「つ」は「の」、「ち」は霊の意味。想像上の動物で、蛇に似て長く、角と4本の足がある。水中にすみ、毒気を吐いて人を害するという。 A岡本綺堂の「捜神記」より。