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(小話844)「古代ギリシャの七賢人(その6)、ラケダイモン(スパルタ)の政治家ケイロン(キロン)」の話・・・
        (一)
古代ギリシャ七賢人の一人ケイロン(キロン)は、紀元前6世紀頃に活躍したはスパルタの政治家、政治哲学者であった。ケイロンはBC556にラケダイモン(スパルタ)の民選長官となってリディア、ペルシアなどオリエント諸国の興隆に対抗するため、スパルタの改革を行った。さらに、民選長官は王への諮問協議会として始まったが、彼らが王と共同支配するまで、ケイロン(キロン)と彼の四人の同僚は民選長官の権威を強め、王制から民選長官による政体、寡頭政治(少数者が権力を握って行う独裁的な政治形態)への橋渡しを行なった。ケイロンは無口だったので、当時スパルタでは、ケイロン(キロン)風として多弁を慎むことが流行(はや)った。ある時、ケイロンは、オリンピア神殿にかけられた釜が、火がないのに煮え上がる不思議を見たアテネ(アテナイ)人の医師ヒポクラテスに対して、息子を持たない(いれば勘当する)ことだと謎解きをしたが聞き入れられなかった。後にヒポクラテスの息子ペイシストラトスは、民政を廃してアテネの僭主(せんしゅ)となった。アポロン神殿はデルポイにあったが、キロンが「汝自身を知れ」に加えて「過度を慎め」「保証は破滅の元」の3つの格言を神殿の円柱に刻んだと言われる。哲学者ソクラテスは、この言葉を見て「無知の知」という自らの哲学的姿勢を引き出したと伝えられている。ケイロンは、自分の息子がオリンピックの勝者となった喜びのあまり死んだという。
(参考)
@民選長官・・・古代ギリシャのスパルタの規則には、八年目ごとに民選長官たちは月のない晴れた夜を選んで坐り、静かに空を観なければならぬ、というのがあった。もしその徹夜の間に流れ星を見たなら、彼らは王が神に対して罪を犯したのだと断定して、デルポイの神託が王の復位を許すまで、その機能を停止することになっていたという。
Aヒポクラテス・・・古代ギリシアの医師。迷信や呪術を排して臨床の観察と経験を重んじ、科学的医学の基礎を築いた。医師の倫理についても論じ、「医学の父」と称される。
Bペイシストラトス・・・古代ギリシア、アテナイ(アテネ)の僭主(せんしゅ)。軍人・政治家で、政治家ソロンの親族だった。二度追放されたが、復帰して政権を回復。小農民の保護、農業の奨励、商工業の発展に努め、都市国家アテナイ繁栄の基礎を築いた。ソロンとペイシストラトスの往復書簡によると、お互いにそれほど嫌悪したり憎みあったりしている様子はなく、傑出した政治家としての能力を持っていた血縁でもある二人は、感情的衝突ではなく政治的信条の違いからアテナイで毅然と袂を分かったのであった。
C僭主(せんしゅ)・・・古代ギリシャの諸ポリス(都市国家)にみられた非合法的手段で支配者となった者。多くは貴族出身で平民の不満を利用し、その支持を得て政権を掌握した。
Dオリンピック・・・最古の記録は紀元前776年にさかのぼる。その後、古代オリンピックは4年ごとに開催され、ローマ人が394年に禁止するまで、約1.100年にわたって行なわれた。当初は1日だけの祭典で、競技は「競争」と「相撲」のみだったが、紀元前7世紀の初めには1頭立ての「戦車競争」が主要競技となり、紀元前472年には5日にわたって行われるようになった。競技には全ギリシャの男性が誰でも参加できたが、彼らはまず審判に対して自分が自由であること、純粋なギリシャ人であること、市民権喪失罪や涜神罪を犯したことがないこと、10ヶ月の競技予備訓練を経ていることを証明する必要があり、また競技中に何の罪も犯さぬことを大神ゼウスの像(オリンピアのゼウス像)の前で宣誓した。オリンピア競技の優勝者には、オリーブの枝で作った冠が贈られた。
        (ニ)
  賢者ケイロン(キロン)は、次のようなアフォリズム(格言)を後世に残している。
(1)「死者の悪を話さないでください」
(2)「老人に敬意を払ってください」
(3)「恥さらしの利得より罰を好んでください」
(4)「不幸で人を笑わないでください」
(5)「自分自身の家をよく規制する方法を学んでください」
(6)「人の舌に人の感覚を上まわらせないでください」
(7)「怒りを抑えてください」
(8)「占いを嫌いにしないでください」
(9)「不可能なことを望まないでください」
(10)「法を守ってください」
(11)「誰に対するも脅威を使用しないでください」
(12)「突飛な結婚をしないでください」
(13)「特に宴会では舌を控えてください」
(参考)
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(小話843)「貧女(ひんにょ)の一燈(いっとう)、お照の一灯」の話・・・
       (一)
伝説より。和泉の国(和歌山県)に十三歳(又は十六歳)になる、親孝行なお照という娘がいた。母親のお幸は、お照が十歳の時に急死し、父親の奥山源左衛門は、お幸が死んでからずっと病気がちで、幼(おさな)いお照は、母親のお墓参りと、畑仕事の合間の父親の看病が毎日の仕事であった。ある夜のこと、いつものように、肩や腰を撫でさすってくれるお照に、源左衛門は声を掛けた。「お照、今夜は、どうしても、話しておかねばならぬ事がある。いや、その前に、仏壇の引き出しの奥に、黒い小さな箱があるから、出して来ておくれ」。お照は、立ち上がると黒い小箱を取り出して来て、源左衛門に手渡した。「お照、おとっぁんの病気は、どうにも良うならん。このまま死んだのでは、仏様に言い訳がならぬ。お照、聞いておくれ。実はなぁ、わしら夫婦には、子供が授からなんだ。何とかして、子供が授からぬかと、暇を作っては槙尾山(まきおさん)にお参りしておったのじゃ」。源左衛門は、十三年前(又は十六年前)の或る秋の夕暮れの出来事を思い出した。
       (ニ)
その日は観音様の縁日(えんにち)で、源左衛門夫婦は槙尾山(まきおさん)のお参りの帰り、村はずれの観音堂に差し掛かった時であった。どこからか赤ん坊の泣き声がした。急いで近寄って見ると、使い古した編み笠の中に、顔を真っ赤にして泣いている赤ん坊がいた。お幸は慌てて赤ん坊を抱き上げ、源左衛門は編み笠を取り上げた。赤ん坊は、お幸に抱き上げられ、優しくあやされているうちに笑顔を見せるようになった。編み笠の中には、絹の赤い小袖と、一枚の短冊(たんざく)が添えてあった。その短冊を読み終えて、源左衛門は大きく頷(うなず)いた。そして、傍(かたわ)らにいるお幸に向かって、わざと大きな声で話し掛けた。「なぁ、お幸、わしは、坪井の里の奥山源左衛門、坪井の里の奥山源左衛門だ。子供を授かりたいと、常日頃から、槙尾山の観音様に、お頼み続けてきた。今日もその帰り道、ここでこうして、こんな可愛いい子供を授かるとは、きっと観音様の思(おぼ)し召しに違いない。これからは、わしら夫婦の子供として、大事に育てさせて頂こう」。源左衛門は、赤ん坊を抱きしめているお幸と共に、家路に向かった。「お照、その赤ん坊こそが、お前なのだ。お前は百姓の子ではない。立派な、お侍の子なのじゃ。お照や、愛(いと)しい我が子を捨てるには、並々ならぬ、事情があったのだろう。決して、実の親御を恨んではならぬ。産んでいただいた、感謝をせねばならぬぞ。長い間、本当に良く尽くしてくれた。この奥山源左衛門、いつまでも忘れはせぬよ。今は亡きお幸も、草葉の陰で、どんなにか喜んでいよう。お照、礼を言うよ」。驚いて声を失っているお照に、源左衛門は小箱を開けさせた。その小箱の中には、絹の赤い子袖と、二つに折り畳んだ短冊が入っていた。「千代までも、行く末を持つ、みどり子を、今日しき捨つる、袖ぞ悲しき」。短冊には、そう二返し(二回)したためてあった。お照は、泣きじゃくりながら、源左衛門の腕にすがり付いた。お照の育ての親、奥山源左衛門が、哀れな娘をただ一人残して、この世を去ったのは、三日の後のことであった。残された僅かな畑と家は遠縁の者が名乗り出たため、お照は、養父母の位牌(いはい)と、実の親が残していったという子袖と短冊を持って、十三年(又は十六年)、暮らした家を出て、源左衛門とお幸の墓に近い、物置小屋に移り住んだ。寂しいお照の慰めは、槇尾山の観音様へのお参りであった。槇尾山施福寺は由緒ある寺で、西国三十三番観音霊場の第四番として、篤(あつ)い信仰を集めていた。そんなある日の事であった。お照は、槇尾山からの帰り道、村はずれの観音堂の縁に腰を下して、二人の旅人の話を何気なく聞いていた。それは、来年三月に、一人の長者が、一万基の燈籠(とうろう)を高野山に奉納する、という話であった。「何としても偉(えら)いものよ。わしもな、せめて一つでも奉納したいとは思うが、中々おぼつかぬわいな。亡くなった人の菩提(ぼだい)を弔うには何よりの志じゃ、とは聞いておるがのう」。聞くともなしに聞いていた、お照は、「ああ、養い育てて下さった亡き父母の為、私も、せめて一つでもいい、お大師さまへ、奉納したい」と思った。けれども、家を追われた身の上のお照には、お金に換られるものは何一つなかった。
       (三)
やがて、秋祭りの日がやってきた。鎮守様へお参りしていたお照に、一人の商人が声を掛けた。「よい娘さんだ。器量は良いし、髪の美しいこと。その黒髪をかもじ(婦人が髪を結うとき添える毛)にしたら、とてもいい値になりますよ。縁があったら、堺の町に出て、紅屋の吉兵衛をいつでも尋ねておいで」。その夜、お照は、考え込んだ。「黒髪は、女の命(いのち)。でも、この髪が、お金に換えられるものならば、例え小さくとも、高野山へ燈籠があげられるかも知れぬ」。次の朝、お照は、墓の前で、長く美しい黒髪をばっさりと切り落とし、両親の位牌と、実の親が残したという形見の品を背負って堺の町へと旅立った。堺の商人、紅屋吉兵衛は、美しい黒髪を切り落として尋ねて来た、お照の事情を聞き、その真心(まごころ)に打たれた。そして、黒髪の代金を与えて、お照を見送った。高野山の麓、神谷の里に辿り着く頃には、ちらちらと雪が降ってきた。そして、お照が神谷の宿で聞かされたのは「高野山は女人禁制で、山内へは一歩たりとも女人は入れぬ」という厳しい掟であった。か弱い女の身で、ただ一心に思い詰めて、辿り着いたお照は、食事も取らず泣くばかりであった。娘をいぶかって宿の主人、花屋市兵衛は優しく子細(しさい)を尋ねた。お照は泣きじゃくりながら、身の上を語った。するとその部屋に突然、襖(ふすま)を開けて僧侶が入ってきた。「娘ごの今の話、聞くとも無く聞いた。それにしても不思議な事よ。昨夜、高野山の自坊で、夢ううつに囁かれた。円蔵房よ、神谷の里へ行ってやれ、我に替わって行ってやれ、という声が確かに聞こえてきた。ふと目覚めてみても、誰もおらなんだが、この耳に今もまだ残っておる。夢か真(まこと)か、半信半疑のまま不動坂を下りて、ここに来たんじゃ。 お前の親孝行の気持ちを察して、拙僧をここまで指し遣わされたのであろう。有難や、お大師さまの御遺徳。娘が亡き親を思う真心は、お大師様にも通じたのじゃ。お照とやら、お前の願いの趣(おもむき)、この円蔵房快恵、確かに聞いた。そなたの念願が成就するよう、力添えいたすぞ」。一語一語、心を込めて語る円蔵房の姿に、お照は静かに手を合わせた。
       (四)
いよいよ陽春三月二十一日、奥の院の万燈会(まんどうえ=懺悔(さんげ)・報恩のために、多くの灯明をともして供養する行事)の日が来た。その日は、円蔵房快恵が寺務検校を務め、全山の僧侶が職衆(しきしゅ=梵唄・散華などの職務をつとめる僧)に立った。一万の燈籠の施主、藪坂長者は、一族郎党を引き連れて参詣(さんけい)した。一万基の新しい燈籠に火が点じられ、願文が声高らかに読み上げられた。長者は、今までに類(たぐ)いの無いことを為し遂げた、という満ち足りた思いで願文を聞いていた。ふと、見知らぬ小さな燈籠が一つ、静かに揺らぐのが、長者の目に入った。突然、長者の顔色が変わった。「円蔵房どの、わしの見知らぬ貧弱な燈籠があるが、あれは何じゃ、何人の物じゃ」。長者は、傍若無人に尋ねた。「長者どの、あれは、一人の貧しい娘が、亡き父母の為に、お大師様に捧げた燈籠でござる」。「なに、貧しい女が? わしの燈籠よりも、一段と高い所に、あるではないか。ええい、ちっぽけな、見苦しい。すぐに取り除いてもらおう」。「長者どの、決して取り除くことは出来ませぬぞ。何人も、あの「貧女の一燈」を消すことは出来ませぬぞ」。「いやいや、貧弱な、僅(わず)か一つの燈籠が、何になろう。誰も出来ぬのならば、わしが消してやろう」。怒りを全身にあらわして、長者は立ち上がった。その時。御廟(ごびょう)を取り巻く杉の梢から、一陣の風が吹き渡たった。と思うより早く、今まで煌々(こうこう)と輝いていた一万基の燈(あかり)が、一瞬にして消えて燈籠堂の中は真っ暗になってしまった。と、その時、、その昔、祈親(きしん)上人が捧げ給うたという祈親燈(きしんとう)と、お照が奉納した燈籠の二つだけが明るく、赤々と、灯(とも)り続けていた。「見よ、長者よ、人々よ。ただ一心に、亡き父母の菩提を祈る貧しき少女が、自分の命(いのち)とする黒髪を断ち切って、お大師さまに捧げた、あの燈明を。信仰は、権力でも、金の力でも、出来るものではない。お大師様は誠の心をこそ、受け給うものぞ。長者は、真心(まごころ)をもって我が身に出来る万の燈籠を、貧しき少女は、我が身に出来うる一つの燈籠を。かくてこそ、その燈明は人の心に永遠の光明を与え続けるであろう」。凛(りん)として、そして、厳かに円蔵房快恵の声が響き渡った。「悪かった。いや、私が悪うございました。金持ちという、心のおごりは、わしの心を曇らせておりました。今こそ、お大師さまに心から懺悔(ざんげ)致します。「万の光明より、真心一つ」ということを、私はこの年になって、初めて感じ入りました。嬉しゅうございます」。藪坂長者は、心新(こころあら)たに合掌した。再び、一万基の燈籠に、次々と灯(あか)りが点じられ、その光明は燦然と輝いた。その頃お照は、宿の主人に連れられ、遥か遠くに奥の院が見える辺りまで、裏山伝いに登って来ていた。お照は、御廟に向かってただ一心に手を合わせ、涙にむせびながら、微(かすか)かに聞こえる読経の声を聞いていた。
(参考)
@祈親燈(きしんとう)・・・今なお高野山奥の院に、千年の間消えることなく光り輝いている二つの燈明がある。一つは長和5年(1016)祈親(きしん)上人が高野山の復興を祈念して献灯した「祈親燈」は、貧しいお照という娘が髪を切って売り、献じたものと伝えられており、「祈親燈」と「お照の燈明」が一つとなって俗称「貧女の一灯」ともいわれようになった。もう一つは寛治2年(1033)に白河法皇が献じた「白河燈」で、ともに「消えずの燈明」とよばれ、絶えることなく一千年来燃えつづけている。
       (五)
長者は、あの小さい燈籠を奉納した施主の子細を、円蔵房から詳しく聞かされ、一層感激した。そして、「お照を我が娘としたい」と申し出た。だが、願いが達せられたお照は、円蔵房快恵を師僧(しそう=師である僧)として尼となり、亡き養い親や、生き別れた実の親の、追福菩提を祈りたい、と願い出た。お照の想いに心打たれた長者は、お照の得度(とくど=出家して僧や尼になること)の式を催し、お照のために高野山の麓、天野神社のすぐそばに「惠日庵」という、ささやかな庵(いおり)を建てた。お照は、照暗尼(しょうあんに)と名を改め、朝夕、お大師さまのお山を仰ぎ、清らかな祈りの日々を過ごしていた。それから三年。師走も十六日、粉雪が降りかかる或る夕べの事、照暗尼は夕方の勤行を終え、いつものように天野神社にお参りしようと門の外へ出た時、小さな門の傍らに、呻きながらうずくまている一人の老人に出会った。照暗尼は、老人を抱き起こして声を掛けた。「いや、実にかたじけない。高野山へお参りしたいと、ここまで来ましたが、急に差し込んで、この始末です。お言葉に甘えて、いっときだけ、休ませて頂こう」。老人は、照暗尼に助けられて庵の中に入った。狭い囲炉裏のそばで、暖かい白湯をもらった老人は、心配顔の照暗尼の前に手をついた。「人の情けの有難さに感じ入りました。拙者、高野山に登り、命(いのち)ある限りお大師様にお仕えし、罪深いこの身を清めたいと願って、ここまで参りました。貴女のような年頃の女の方を見ると、どうしても心が咎(とが)めるのです。そうじゃ庵主様、こんな年寄りの、最後の懺悔話しを聞いては下さらぬか?」。座り直した老人は、「拙者は、もと紀州家に仕える安藤四郎右衛門と申す者でございます。故(ゆえ)あって主家を離れ、浪々として早や二十年余りになります。何を商売する手段も無く、次第に苦しい生活に落ちてゆき、落ち目になれば加わる不運。愛(いと)しい妻が、長く患った末にとうとう先立ってしまいました。その時、残された娘は、まだ、乳飲み子でございました。何としても、この子だけは育てたい。男一人の身に、乳を欲しがって朝から晩まで泣き過ごす、乳飲み子を抱えての旅路の末。もしも、この子がいなければ再び他家に奉公して、と迷っては泣き、親が泣けば、何も知らぬ乳飲み子さえ泣き出す始末。今から、ちょうど二十年前、もう木枯らしが吹く秋の夕暮れでした。和泉の国、槇尾山(まきおさん)の麓、横山村の村はずれに、小さい観音堂がございました。その縁側に腰を下ろして、拙者は、無心に眠る我が子を見つめておりました。こんな親に育てられるより、せめて乳なりと存分に飲ませてくれる裕福な人の手にと、ふと思いついたのが、心の迷い。亡き妻との婚礼の祝儀に、主君から拝領の小袖。こればかりは離さぬと、死ぬまで語っていた妻の形見。その小袖に愛しい我が娘を包み、短冊を添えて草むらの中に編み笠を置きました」。不意に、照暗尼が尋ねた。「その短冊には、何と?」「はい、その短冊には、他愛の無い歌を、書き記して残しました」。お互いの顔も朧(おぼろ)な闇の中で照暗尼が、静かに口づさんだ。「千代までも、行く末を持つ、みどり子を、今日しき捨つる、袖ぞ悲しき。千代までも、行く末を持つ、みどり子を、今日しき捨つる、袖ぞ悲しき」「庵主様、どうして、その歌を?」歌を詠み終えると、照暗尼は、わっと泣き伏した。「父上様、お照でございます。その乳飲み子は、わたくしでございます」「なに! お照? では、横山村、奥山源左衛門殿に拾われた!」。手を取る父に、娘は泣きすがった。丁度その時、門口に藪坂長者の声がした。「庵主様、またまかり来ましたぞ。今日は、如何(いか)にも寒いが、お変わりありませぬか?」。奇(く)しき父と娘の巡り逢いを、誰よりも喜んだのは、長者であった。早速、高野山の円蔵房快恵上人にも知らせを走らせた。安藤四郎右衛門は、得度して「唯心房」という名を授かった。父と娘の師僧となった快恵上人は、唯心房を燈籠堂に導いて、お照が奉納した小さな燈籠を指し示した。
(参考)
@(小話73)「釈迦と老婆」の話・・・参照。と(小話413)「貧者の一灯」の話・・・と(小話842)「(ジャータカ物語)貧女(ひんじょ)の一灯」の話・・・を参照。


(小話842)「(ジャータカ物語)貧女(ひんじょ)の一灯」の話・・・
        (一)
遠い昔。舎衛城(しゃえじょう)に一人の貧しい女がいた。貧苦のために憔悴(しょうすい)し、乞食(こつじき=食を乞う人)によって命をつないでいた。ある時、城内がたいそう騒がしくなった。貧女はその喧騒を聞いて、人々に尋ねた「何故にこのように騒(さわが)しいのですか」。人々は貧女に答えて言った「勝光大王(コーサラ国の王)は三ヵ月の間、仏陀(釈迦)を集団の長(おさ)とする修行僧の僧団に、衣服・飲食・寝具・医薬を供養し、さらに一々の修行僧に価百千の衣服を施し、また今夜の夜中において、燃灯会(ねんとうえ=供養のために灯りをともすこと)を催します。実に立派な行ないですから、町中がわき立っているのです」。彼女はこのことを聞いて「この勝光王は福を修して、飽きるということがありません。しかし私は、どうしてそうすることができよう、何とかして、どこかで灯火(ともしび)を一つ乞い求めて、それを世尊に供養したいものであります」と考えて、器をもって、あちらこちらに油を求めた。そして灯(あか)りにともして、仏陀が坐禅のあとで散策される経行処(きようぎようしよ)に送りとどけた。その後で彼女は、身をかがめ、ひざまずいて、合掌をし誓願をおこした「私は一心に念じます。私はいま、この灯りを供養したことによって生じたあらゆる善根をもって、釈迦仏が百歳の時に無上の悟りを得られたのと同様に、私もまた、未来において成仏したいと念じます。そしてまた、釈迦世尊が涅槃(ねはん=悟りの境地=釈迦の死)に入られてから、人々がその舎利(遺骨)を分配して、礼拝したのと同様に、私もまた成仏のあと、般涅槃(はんねはん=死)して、舎利を分ちたいと念じます」と。この時、燃灯会の諸灯はことごとく消えてしまったが、彼女の灯りのみは、煌煌(こうこう)と輝いていた。
(参考)
@舎衛城(しゃえじょう)・・・釈迦(しゃか)在世のころ、中インドにあった国。舎衛城の南に祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)があった。
A般涅槃(死)・・・単なる死でなく、輪廻(生死を絶え間なく繰り返すこと)と涅槃(死)を越えること。
        (ニ)
仏陀(釈迦)が休息されるまでは、侍者も休息しないのが、きまりで、その時、阿難(あなん)は考えた「灯明がともっている間に、仏陀が寝につかれる筈はないから、私は今、この灯明をも消してしまおう」と。そして、灯火を手をもって摘みとろうとしたが、しかし摘みとることができなかった。そこで衣の袖で、あおいだが、しかし滅することができなかった。さらに扇(おおぎ)を持ってきてあおいだが、しかし滅することができなかった。その時、仏陀は阿難尊者に告げて言った「汝は、何をしようとしているのか?」。阿難は申し上げた「世尊よ、私は考えました。世尊は灯明がついている間は、寝につかれないから、この灯明を消そうと思いました。そして手や衣、扇などで摘みとり、吹きましたが、減することができませんでした」と。仏陀は言った「阿難よ、汝は無駄に疲労しているのである。たとい支えることが出来ない程の大風がきて、この灯明を吹いても、これを滅することはできない。いわんや汝が、手や衣、扇などで吹いて、滅することができようや。それには、実に理由があるのである。この灯明は、ちょうど今、彼(か)の女人(によにん)が、広大なる修行への誓いを起こし、無限の決心をもって、灯りをもやしたのである。阿難よ、必ずや彼の女人は、未来世において、人間の寿命が百歳の時に、必ず仏の悟りを得て、釈迦牟尼如来・仏陀と呼ばれ、仏の十号(十種の呼び名)を具足し、舎利弗・目連という二人の賢い弟子をもち、阿難という名の侍者・父は淨飲(じょうぼん)王・母は摩訶摩耶(まはーまーやー)と名づけ、城はカピラ城、その子は羅怙羅(らごら)と名づけ、さらに般涅槃したあとには、舎利は分骨されて、塔を建て祀られるであろう」との記別(きべつ=仏となることの予言)を与えた。この時、四方の人、遠方の人々も、皆この「一灯をもやして、世尊に供養したことによって、彼女は、未来に成仏するとの記別を得た」ことを聞いた。これを聞いた婆羅門・長者・居士たちは「この貧女は、未来には一切の徳をそなえるであろう」と言って、衣服や財物、食物などを競(きそ)って供養した。
(参考)
@阿難・・・釈迦の十大弟子の一人。師の説法を最も多く聞き、多聞第一とよばれた。
        (三)
勝光大王もこれを聞いて「得がたいことである」との想いが生じた。そして、香油を一千の大瓶にそなえ、四種の宝をもって灯明皿をつくり、火をともして、仏陀の経行処(きようぎようしよ)に安置した。そして、仏陀に申し上げて言った「大徳世尊よ、私は聖者、大迦葉(だいかしょう=釈迦十大弟子の一人。摩訶迦葉のこと)のために、また世尊およぴ弟子の僧団のために、七日間の供養をしましたとき、世尊は、私が往昔(おうじやく)、無塩の米膏(こめあぶら)を施し奉った因縁をお説き下さいました。そのために私はまた、世尊ならびに弟子の僧団に、三ヵ月の供養を申し出ました。さらに一人一人の修行僧に価百千の衣服を施しました。さらにまた、一億の油瓶をもって燃灯会(ねんとうえ)をなしました。しかし世尊は私に「未来に成仏するであろう」との記別(きべつ=仏となることの予言)を授けて下さいません。願わくは世尊よ、私が、仏陀になり、未来にまさに先導者となるであろうとの記別をお授け下さいますように」。仏陀は言った「大王よ、無上の仏の悟りは、はなはだ深くして、はかり難い。はなはだ深くして、照(てら)し難い。理解し難く、悟り難くして、おもむくことができない。仏の悟りは微妙にして、知り難く、智者のみの知る所であり、愚夫の了(りょう)するところではない。これは、得やすいものではない。一施をもって得ることもできるが、百施・千施・百千施をもってしても、これを得ることができない。大王よ。もし大王が無上の仏の悟りを願い求めるのであれば、まさにすべからく、種々の布施を行(ぎょう)じ、もろもろの福利を修し、善友に近づき、へりくだり、尊敬すべきであります、そうすれば、他日、先導者を成ずる時もあるであろうか」。その時、大王は仏陀のこの言葉を聞いて、涙を流して悲しんだ。衣をもって涙をぬぐい、合掌して仏陀に申し上げた「大徳世尊よ、無上の仏の悟りを求めるには、時に何等(なんら)のものを施し、どのような福業(ふくごう=善業)を修したらよろしいでしょうか」。仏陀は大王に告げた「しばらく余劫でのことは省くとして、この賢劫(げんごう=現在の時間的世界)中にても、無上の仏の悟りを得るために、施すべきもの、および修行すべきもろもろの福業を、私は述べよう」と、仏陀は自己が過去世に行なった布施と福業について語った。
(参考)
@(小話73)「釈迦と老婆」の話・・・参照。と(小話413)「貧者の一灯」の話・・・と(小話843)「貧女(ひんにょ)の一燈(いっとう)、お照の一灯」の話・・・を参照。
A「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。
 

(小話841)「宮廷音楽師アリオンを救ったイルカ」の話・・・
       (一)
ギリシャ神話より。アリオンは紀元前6世紀頃のレスボス島出身の詩人、音楽家で、伝説に名高いオルフェウスに勝るとも劣らない琴の名手として知られていた。彼は、コリントス王ペリアンドロスに仕えた宮廷音楽師だった。ある時、アリオンはイタリアのシチリア(シシリー)島で開かれる音楽祭に出場したいと王に願い出たが、王からは「勝利を得ようとする者は勝利を失うのだから」と諭された。しかしアリオンは「放浪の生活こそ詩人の自由な心にふさわしい」と王の制止を振り切ってシチリア島に出かけ、音楽祭に出場した。そして見事優勝し、多くの賞金や賞杯を受け取り、コリントスへ戻ることになった。ところが帰りに乗り込んだ船は、船長をはじめ、性質(たち)の悪い船員達がたくさん乗り込んでいた。船長達は、アリオンが多額の賞金を持っているのに目を付け、船が港を離れて沖に出るや否やたちまち海賊に変わってしまった。「おい、アリオン、音楽祭の賞金を全部出しな。出さないって言っても殺してから取るけどな」。アリオンは、観念してこう言った。「賞金はここに置いて海に身を投げます。その前に楽人らしく一曲、琴を弾きたい」。海賊達が渋々応じたので、アリオンは演奏会用の衣装に身を包んで、ひとり船尾の甲板の高みに立つと、中央甲板から見上げる船員たちに向かって、今生の思い出にと心を込めて竪琴を奏(かな)でた。
(参考)
@宮廷音楽師アリオン・・・アリオンは紀元前625年ごろ、コリントスの王ペリアンドロスにつかえた宮廷詩人であり、音楽家でもあった実在の人物だといわれる。又、ディテュランボス((当初ディオニュソス(ワインの神)への合唱歌)の発明者でも知られている。
Aアリオン・・・もう一つのアリオンは名馬アリオンが有名。海王ポセイドンは牝馬に変身した豊穣の女神デメテルを発見し、自分も牡馬の姿となって交合した。この結果デメテルは名馬アリオン(アレイオン)を生んだ。(小話467)「海王・ポセイドンと美しい豊穣の女神・デメテル」の話・・・を参照。
B名高いオルフェウス・・・(小話332)「竪琴(たてごと)の名手オルフェウスとその妻」の話・・・を参考。
       (ニ)
すると、海の中からたくさんのイルカが顔を出して、このアリオンの音楽に聞きほれていた。竪琴を弾き終わったアリオンは、船尾から海中に身を投じた。すると、たちまち周りのイルカが寄ってきて彼を担ぎ上げ、背中に乗せてタイナロン岬に送りとどけた。彼はそこからコリントスに帰り、ペリアンドロス王に全てを話した。音楽祭で優勝したことも、船の中で起こったことも、イルカに助けられたことも。やがて、コリントスの船が帰って来た。宮殿に呼び出された船長が「ただいま戻りました」と、何くわぬ顔で言ったとき、ペリアンドロス王は聞いた「ごくろう。ところでアリオンの姿が見えないが、どうしたのじゃ」。船長は「あの方は、途中で船を降りまして、南イタリアにいます」と答えた。そこへ、アリオンが姿を現わした。船長は、もうどんな言い逃れもできなかった。船長はじめ船員達たちはちまち捕らえられて重い罰をうけた。その後、アリオンを助けたイルカは、その正しい行いによって天に導かれ、星座の一つになった。それが「イルカ座」という。
(参考)
@アリオンを助けたイルカ・・・ギリシアでは、イルカを神聖な動物とし使者の魂を運んでゆくと信じられていた。
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(小話840)「賢(かしこ)い王妃と馬の飼い主の農民」の話・・・
        (一)
民話より。昔むかし、貧(まず)しい農家に、とても賢(かしこ)い娘がいた。王さまに気に入られた娘は、王さまと結婚して王妃(おうひ)さまになった。娘が王妃さまになって、何年かがすぎたある日のこと。薪(まき)を売りにきた農民たちが、空(から)の荷車を止めて休憩していた。すると、ある荷車を引いている馬が急に産気(さんけ)づき、可愛いい子馬を産んだ。しかし、何を思ったのか、その子馬は、隣りにいた別の荷車の牛をお母さんとかんちがいして、その牛のそばに座りこんでしまった。すると牛の飼い主が、子馬は自分のものだと言い出して、馬の持ち主と喧嘩を始めた。そこヘ現れたのが、王さまで、馬の飼い主と牛の飼い主が、それぞれ王様に訴えた。「うちの馬が子馬をうんだのです。あの子馬はうちの馬です」「いいえ。うちの牛が子馬をうんだのです。その証拠に、子馬はうちの牛から離れようとしません」牛の持ち主のいいぶんはムチャクチャだったが、王さまはこういった。「子どもはお母さんを慕(した)うもの。子馬が牛を慕っているのなら、子馬のお母さんは牛に間違いない」こうして子馬は、牛の持ち主のものになってしまった。せっかく産まれた子馬をとられた馬の持ち主は、その場でいつまでもくやし泣きをしていた。それを見ていた王妃さまは、馬の持ち主に近寄り、馬の持ち主に、ある知恵を与えた。そして、その知恵が決して、彼女の考えだといわないと約束させた。
        (ニ)
次の日。王さまが道を歩いていると、町の広場で馬の持ち主が魚取りの網(あみ)で魚をとろうとしていた。不思議に思った王さまが尋ねると、馬の持ち主は言った。「牛に子馬が産めるものなら、町の広場で魚だってとれるはずです」この当てつけに、王さまは怒った。「お前の考えではあるまい。誰がそんなことを思いついた」「へい、じつは」と馬の持ち主は、本当のことを白状してしまった。すると王さまは、妃の所へどなりこんだ。「わしをだますような妃はいらん。自分の大切なものを一つやるから、出ていけ!」そして二人は、最後にお別れの酒をくみかわした。「これでそなたとは、お別れだな」「そうですわね」「妃よ」「はい」「その・・・、わしに、なにか言うことはないのか?」「別に、何もありません」「そうか」王さまは自分の言ったことに後悔(こうかい)していたが、妃があやまろうとしないので、言葉を取り消すことができなかった。王さまはションボリしていたが、妃は、微笑んでいた。王さまはそんな妃には気づかず、悲しさをまぎらわそうと、盃(さかづき)のお酒を一気にのみほした。実はそのお酒に、妃は眠り薬を入れていた。次の朝、王さまが目覚めたのは、汚(きたな)い農家のベッドの上であった。ここは、妃の実家であった。「いったい、これは何のまねだ?」王さまが妃にたずねると、妃はニッコリ笑って言った。「王さまは私に、一番大切なものを一つやるといいました。ですから私は、わたしの一番大切な王さまをいただいてきただけですわ」この言葉にすっかり感動した王さまは、自分の裁判(さいばん)が間違いだったことを認めると、あの馬の持ち主に十頭の子馬をやることを約束し、そのまま妃と仲よくお城へ帰った。


(小話839)「哲学者ソクラテスの「馬と虻(あぶ)」」の話・・・
        (一)
ある時、ギリシャの哲学者ソクラテスの友人カイレフォンが、デルポイのアポロン神殿で、次のような神託を受けた。「アテネ(アテナイ)で最高の賢者は、ソクラテスである」と。それを聞いたソクラテスは、自分だけが「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比べて優れているのだと考えた。そこで彼は、アポロン神の神託の真意をよく知るために、自分よりすぐれた智恵者が本当にいないのか、それを探すために当時、賢人と呼ばれていた人々を次々にたずね歩いて問答をした。だが、誰もがいろんなことを知っているつもりだが、ソクラテスが求めている、人間にとって「善」であり「美」であるものは何かということを、結局は誰も知っていなかった。そのくせ、みんな自分の無知に気づいていなかった。ソクラテスは、この「無知の知」をみんなにも自覚させてやろうと思って、さらに問答をして歩いた。こうして、ソクラテスはアテネの人々の目を覚まさせようとした。そのころのアテネはスパルタと30年間も戦争して負け、国威は衰えるし、政治もかなり不安定だった。アテネの政治が、自分の利益だけを考えてみんなを煽動する雄弁な政治屋などが活躍して、みんながその方向に引っぱられてしまっていた。ソクラテスは「人間は何のために生きるのか」ということがわからないと言って「自分は知らないが、君は知ってるかい、知ってたら教えてくれ給え」と言って、相手も知らないことを暴露してから問答をした。このためソクラテスは、自分が真理を教えるのではなく、質問された相手が自ら真理に気づくように、自分は相手が自ら真理を「生む」のを助ける産婆みたいなものだといった。こうしてソクラテスがアテネの街角に現れては、アテネの人たちの群れに近づき問答をした。「君たちは金銭をできるだけ多く、自分のものにしたいというようなことばかりに気をつかって、評判や地位のことを気にしていても、魂をすぐれたものにするということに気をつかわないのは恥ずかしくないのか?。いくら金銭を積んでも、そこから魂が生まれてくるわけではない。金銭が人間のためによいものとなるのは、魂がすぐれていることによるのではないか!」と。ソクラテスは「人間らしさ」とか人間の「正しさ」とかいうものが何であるかを知ることが「魂をよくする」ことで、それを人間の「徳(アレテー)」といい、問答することでそれを共に考えてゆこうとした。ソクラテスにとって「正しく生きる」、「正しい行いをする」ということは同時に「何が正しいか」を知ることで、不正なことをする人は、無知だからするわけで「何が人間の正しさか」を知ることで、正しいことを必ず行うことができると考えていた(知徳合一説)。ソクラテスは、人間が知らなければならない「正しさ」を人々に問い続けているうちに「ソクラテスはポリス(都市国家)の認める神々を信じないで、ほかの新しいダイモニア(神性)を導入することにより、青年を堕落させた」という理由で訴えられてしまった。
        (ニ)
そして、その裁判の弁明で、ソクラテスは陪審員のアテネの人々に対して言った「だから、アテナイ人諸君、いまのこの弁明も、わたしがわたし自身のためにしているというようなものでは、とうていないのでして、むしろみなさんのためなのです。みなさんがわたしを有罪処分にして、せっかく神から授けられた贈ものについて、あやまちを犯すことのないようにというためなのです。なぜなら、もしみなさんがわたしを死刑にしてしまうならば、またほかにこういう人間を見つけることは、容易ではないでしょう。わたしは何のことはない。すこし滑稽な言い方になるけれども、私は神様が国家に下(くだ)さった虻(あぶ)のようなものなのです。国家というのは巨大で見事な馬のようなもので、そのあまりの大きさに動きがのろく、活気づけてやる必要があるのです。私は、神様が国家にくっつけた虻で、日がな一日、あらゆる場所で、いつもみなさんに付きまとい、みなさんを目覚めさせ、説き伏せ、叱っているのです。私のような人間は、他には簡単には見つかりませんよ。だから、みなさんに私を助命したほうがよいとお勧めするのです。しかし、私はあえて言いますが、みなさんは、眠りかけているところを起こされる人たちのように、腹を立てて、アニュトス(アテネ政界の有力者)の言に従い、わたしを叩いて、軽々(けいけい)に殺してしまうでしょう。そしてそれからの一生を、眠りつづけることになるでしょう。もしも神様が、みなさんのことを心配して、誰かもう一人別の者を、諸君のところへ、もう一度つかわされるのでないならばです。神様が私をみなさんに与えたのだと言いましたが、それが私の使命だという証拠は次のことです。もし私が他の人と同じであったなら、自分のことを一切かまわず、また多年にわたりそういう無頓着に耐えて、みなさんのことにかまって、父や兄のようにみなさんを一人一人、訪ねては、徳を尊重するよう勧めてまわったりはしなかったでしょう。その振舞はとても人間のものとは思えません。それで何かを得たり、徳を勧めたことで報酬をもらったのなら、そうすることに意味があったのでしょうが、みなさんお分かりのように、厚かましい告発者でさえ、私が誰かから支払を受けたり、求めたりしたとは言えなかったのです。そういう証人がいないのです。そして、私が言ったことが真実であることには、充分な証人がいるのです。つまりそれは、私の貧乏です」。又、「自分が罪に問われたのは多くの人たちの中傷と嫉妬が原因であって、これが他にも多くのすぐれた人たちを罪に落としただけでなく、これからもまた罪を負わせることになるだろうし、それが私で終わりになることは、決してない」とか「もし私を殺してしまうなら、それは私の損害であるよりも、むしろあなた方自身の損害になる方が大きい」などと語った。だが、ソクラテスの弁明は聞き入れられず、死刑の判決が下った。彼が刑の執行を待って牢獄につながれている時に、ソクラテスの永年の親友クリトンがやってきて「手はずを整えてあるから今すぐ脱獄して、国外へ逃げてくれ」と告げた。クリトンの勧めに対して、ソクラテスは落ちつきはらって「君、脱獄するということは正しいことかどうか、ひとつ考えてみようじゃないか。僕の質問に答えてくれ給え」と問答を始め出した。クリトンは「今は考えてるときではない」と言ったが、結局ソクラテスの問答にひき込まれてしまった。当時のアテネでは脱獄はよく行われて、逃げて生きのびることはいくらでもできた。それにソクラテスも、自分が死刑になるのは不当だということを裁判でも主張していた。それなのに、ソクラテスは「脱獄するのは正しくない」と言って逃げるのを断った。国家の正当な手続きによる裁判の判決を否定することは、自分の生きている都市国家(ポリス)自体を否定することになるため、たとえ間違っていたとしても国法には結局従わなくてはいけない(悪法もまた法なり)と言って、ソクラテスは毒を仰いで死んだ。
(参考)
@死刑の判決・・・結局501人中281票対220票でソクラテスは有罪となった。処罰の方法を決める2回目の裁判では、彼の皮肉を含んだ断固とした弁論がかえって反感をかい、さらに票差が開いて死刑が宣告された。
A永年の親友クリトン・・・老友クリトンはソクラテス裁判の後、は自分の財産を使ってまでソクラテスを救出しよう言って説得するが、ソクラテスは妥協せずそれを拒否、国家、法律、美徳について語り合い、最終的にクリトンは説得を諦めた。プラトンの対話集「クリトン」は「ソクラテスの弁明」の続編。
Bソクラテスの弁明(プラトン著)より。71歳のソクラテスが、毒ニンジンをあおり刑死した時、プラトンは29歳。ドクニンジン(毒人参)は、ソクラテスの処刑に毒薬として用いられたことが知られており、茎の赤い斑点は、ヨーロッパでは「ソクラテスの血」と呼ばれることもあった。ソクラテスは理性的に死を選び、最後まで意識を持ちながら死に至ったということで、そのドクニンジンが、後世、尊厳をもった安楽な死を迎えるための象徴とされた。ただし、ドクニンジンの作用が本当に「安楽」だったかどうかは疑問で、その中毒症状として1時間以内に「嘔吐感、神経麻痺、呼吸困難」が起こり、特に「解毒剤」の著者ニカンドロス(前2世紀)によると「頭も締め付けられるし、五臓六腑は切り裂かれ、七転八倒の苦しみに見舞われる」と記述されている。
「ソクラテスの死」(ダヴィッド)の絵はこちらへ


(小話838)「(ジャータカ物語)燃燈仏(ねんとうぶつ)と泥の中に身をなげた青年修行者、弥却(みきゃく=スメーダ)」の話・・・
        (一)
大昔、バラモンの青年修行者、弥却(みきゃく=スメーダ=又はメーガ)という名の菩薩が山奥の静かな所で一心に仏道修行に打ち込んでいた。時に、燃燈仏(ねんとうぶつ=定光仏とも言う)が都にやってくるということを聞いた。そこで、弥却はたいへん喜び、仏に参詣(さんけい)して蓮華(れんげ)を捧げて供養し、説法を聴聞したいと願い、山を下(お)りて行った。すると、道には五百人の道士(仏道を修めた人。僧侶)がいて銀銭一枚ずつ寄進してくれたので都合、五百の銀銭をもらうことになった。ところが蓮華の花は、燃燈仏を供養しようとする国王がすべて買占めてしまっており、入手することは困難であった。だが弥却はあきらめずに探していると、幸いにも七枝の蓮華を水瓶にさした婦人に出会った。この婦人の名は、この国の大臣の娘で蘇羅婆提女(そらばだいめ=ゴーパー)と言った。弥却は婦人に「その花は見事でござる。銀銭百文と交換してくだされ」と言うと、婦人は「それはできません。これは仏様のために持参したのですから、お渡しできません」と言った。「私も仏様に花を供養するために、どうしてもその花がほしい。では銀銭二百文と交換しょう」「いや、それでもなりません」「それでは五百枚全部を進呈するから、どうかお願いしたい」とさらに弥却が求めたので、婦人は「では私も布施をあなたに託して、あなたが布施をすることを受けます」と言い、その志を感じて銀銭五百枚と蓮華五枝とを取り替えた。そしてさらに婦人は、残りの蓮華ニ枝を弥却(みきゃく)に与えて言った「これは私の花です。あなたに託して、もって燃燈仏にたてまつるものです」。その時、婦人は「必ず来世(らいせ=後(のち)の世)にはあなたの妻になります」と誓いを立てた。
(参考)
@燃燈仏(ねんとうぶつ)・・・修行中の釈迦に、未来に仏となることを予言した過去の世の仏。灯火を輝かす者という意味。錠光仏(じようこうぶつ) とも言う。
A婦人の名は蘇羅婆提女・・・この縁によって弥却と婦人は生々世世(しょうじょうせぜ=生まれ変わり死に変わって経る多くの世)夫婦となり、遂には弥却はインドマカダ国のゴータマ・シッダッタ太子(釈迦)として生まれ、婦人は隣国の王女ヤショーダラー姫として生まれ、現世において夫婦となったという。
        (ニ)
鉢摩(はつま)国の都に来て、弥却(みきゃく)は思わず目を見張った。あらゆる人々が最高の興奮に沸き立ち歓喜が満ちていた。やがて、燃燈仏(ねんとうぶつ)の一行が見えた。三十二相、八十種好、金色に輝く仏を拝み、弥却は七枝の蓮華を燃燈仏に散じたところ、七枝の蓮華は虚空に留(とど)まり、大きな花の蓋(かさ)となり、香気がふくいくとかおった。そして、燃燈仏の行くところ、常にその花蓋(はなかさ)が随(したが)った。一方で、燃燈仏の進む方向に泥水があることに気付いた弥却は、自らは鹿皮の衣を脱いで覆い、足りないところには髪の毛をほどいて泥濘(でいねい)に敷き身を伏せて「仏様、どうか私の背中を、頭を踏んで渡って下さい」と言った。燃燈仏は、弥却の背中を踏んで頭の上を踏まんとした時「この捨身の若者、未来世において仏になるであろう。釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ=釈迦の尊称)という尊い仏になるだろう」との予言を授けた。その弥却(みきゃく=スメーダ=又はメーガ)こそ後(のち)の世の釈迦であった。
(参考)
@泥濘に敷き身を伏せて・・・弥却は都の人々が「燃燈仏(ねんとうぶつ)がお弟子たちと一緒にこの都においでになるので、私たちは供養させて頂く有り難さに喜んでいるのです。町を飾ったり、道路をなおしたり、家々を掃除しているのです」というので、「そうですか。それでは私にもぜひ働かさせて下さい。供養させて下さい」と大雨の後の道の修復を手伝いました。しかし道がなおりきらないうちに、燃燈仏の一行が見えたので、歩きやすいように自分の髪の毛を泥道の上に敷いたという説もある。
A燃燈仏による釈迦への授記(予言)を記す経典は多数あって、それぞれ物語の内容に多少の違いがあるが、その骨子はほぼ共通している。すなわち、購華、散華、布髪、空中躍昇の4点である。空中躍昇の記述はないものもある。
B「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。
 

(小話837)「古代ギリシャの七賢人(その5)、政治家でコリントスの僭主(せんしゅ)になったペリアンドロス」の話・・・
           (一)
古代ギリシャ七賢人の一人ペリアンドロスは、ギリシャの英雄ヘラクレスの子孫の家系に属するコリントス人であり、コリントスの僭主(せんしゅ)であるキュプセロスとその妻クラテイアの子供であった。彼はリュシデという娘を妻に迎えたが、彼女の父親は、エピダウロス国の僭主プロクレスであり、リュシデの家柄は、当時のアルカディア全体を支配するほどに強大な権力を持っており、彼女と結婚したペリアンドロスもその恩恵を受けることが出来た。彼は妻リュシデ(ペリアンドロスは妻を「メリッサ」と呼んでいた)との間に、長男のキュプセロス(祖父と同名)と次男のリュコプロンを儲(もう)けたが、弟は頭脳明晰で優秀であるのに対して、兄は愚鈍で才気に乏しい人物であった。ペリアンドロスは父の後をついでコリントスの僣主となると、ギリシャからイタリアに至る西方地域への植民を促進してコリントスの影響力拡大に務め、東方に向かってはミレトスの僣主トラシュブロスと友好関係を築き、さらにエピダウロスの僣主プロクレスの娘を娶(めと)ることにより、西から東に至る商業網の整備に力を尽くした。しかし、コリントスの僣主ペリアンドロスは、人間的に残酷非道なところがあり、ある日、妊娠中の妻リュシデが、ペリアンドロスを愚弄しているという噂や中傷を側室(そくしつ=妾)たちが流したのだが、それを本当のことだと信じた彼はリュシデを蹴り殺してしまった。後になって、それが事実ではなく側室たちの誹謗中傷だと知ったペリアンドロスは、その側室たちも全員、焼き殺してしまった。
(参考)
@七賢人・・・ギリシアの7賢人とは、タレス・ソロン・ペリアンドロス・クレオブゥロス・ケイロン・ビアス・ピッタコス(その他、アナカルシス・ミュソン・ペレキュデス・エピメニデスなども入るという)。
Aペリアンドロス・・・ペリアンドロスは、古代ギリシアの7賢人に数えられることが多いが、現代的な倫理判断や人物評価から考えると、彼を賢人と呼ぶことが出来るかどうかは微妙なところであると言われている。
B僣主(せんしゅ)・・・古代ギリシャの諸ポリス(都市国家)にみられた非合法的手段で支配者となった者。多くは貴族出身で平民の不満を利用し、その支持を得て政権を掌握した。
           (ニ)
妻リュシデを無実の罪で殺害し、側室たちを無慈悲に焼き殺したペリアンドロスは、明らかに残虐な人間であった。更にペリアンドロスは、母親を殺した父親を責めて、母親の死を嘆き悲しむ息子のリュコプロンを国外のケルキュラという国に追放した。後年になってペリアンドロスは、息子のリュコプロンをケルキュラから呼び戻そうとした時に、ケルキュラ人たちによって息子を殺されてしまった。僣主ペリアンドロスは、オリンピックの馬車競技の勝者を讃(たた)えて、神に黄金の像を献納するという約束をしていたが、像を作るための黄金が不足していることに気づいた。それで、足りない黄金を調達するために、田舎の祭儀に参加していた晴れ着姿の女性たちから金の装身具を身ぐるみ奪い取った。また、彼は王(僭主)の近辺に護衛兵を初めて配置して「僭主(せんしゅ)の地位にあって安全でいようとする者は、護衛兵の武器によってではなく、その忠誠心によって守らねばならない」と述べた。ある人があなたは何故、僭主の地位にあるのかと問われると彼は「自分から進んでその地位を退くのも、またその地位を奪われるのも、両方ともに危険なことだから」と答えた。ある時、コリントスの僭主ペリアンドロスの羊飼いの一人が、雌(めす)馬が生んだばかりの子供を皮の袋に入れて主君のもとへもってきた。その顔と首と腕は人間だったが、からだは馬だった。赤ん坊のように泣くので、皆、それが何か恐ろしい前兆だと思った。賢人タレスがそれを調べ、含み笑いをした。そして僭主ペリアンドロスに、羊飼いたちの行ないを是認するわけにはいかないと述べた。コリントスの僭主ペリアンドロスは、国家を統治する有能な知性や厳格な威厳を持っていたために、コリントスで初めて僭主制を確立した。この実務的な優越性などによって古代ギリシャの7賢人の一人に数えらたペリアンドロスの死に方は、一際(ひときわ)変わっていた。年老いてからペリアンドロスは、二人の若者に指示して、夜その道を通って進み、出会った者は殺してそれを葬(ほうむ)るように命じた。その後に別の四人の者に先の後の二人の後を追わせて、彼らを殺して埋葬するように命じた。そして更に、もっと大勢のものに四人の後を追わせた。このようにしてから、ペリアンドロス自身は最初の二人と同じ道を逆から進み、二人に出会って殺されたという。享年八0歳であった。
(参考)
@ペリアンドロスは、明らかに残虐な人間・・・ペリアンドロスの不道徳な振る舞いに対する記録は、アリスティッポスの「古人の奢侈について」という書物の中で、ペリアンドロスは母のクラテイアと不義密通の近親相姦を重ねる関係にあったと記述されている。
A賢人タレス・・・古代ギリシャの哲学者。哲学の祖とされる。ギリシャ七賢人の一人。ミレトス学派の創始者で、万物の根源は水と考えた。日食の予言やピラミッドの高さの測定なども行った。(小話793)「古代ギリシャの七賢人(その1)、哲学の祖タレス(ターレス)」 の話・・・を参照。
           (三)
賢者ペリアンドロスは、次のようなアフォリズム(格言)を後世に残している。
(1)順境にある時には適度を守り、逆境の中では思慮深くあること。
(2)約束したことは何であれ守ること。秘密は漏らさぬこと。
(3)過ちを犯したものだけなく、犯そうとしているものも懲(こ)らしめること。
(4)運命の女神にほほえみかけられている時は慢心を恐れ、背を向けられる時は絶望を恐れよ。
(5)練習がすべて。すべては練習しだい。
(6)法は古いものを用(もち)い、肴(さかな)は新しきものを用うべし。
(7)友人たちが幸運なときも、不幸なときも、汝は彼らに対して同じ人であれ(友人達に対しては、彼らが順境にある場合にも、逆境にある場合にも、いつも同じ者として接すること)
(8)静かにしていることはよいことだ。性急さは危険である。
(9)利得は醜い。
(10)民主制は、僭主制に勝(まさ)る。
(11)快楽は失われるが、名誉は不滅である。
(12)どんなこともお金のために行ってはならぬ、儲けてもよいところから儲けるべきだから。
「ペリアンドロス」の像の絵はこちらへ


(小話836)「(ジャータカ物語)尸毘王(しびおう)と二羽の鳥(鷹と鳩)」の話・・・
        (一)
遠い昔、閻浮提(えんぶだい)に尸毘王(しびおう=釈迦の前生の姿)という立派な王がいた。尸毘王はたいへん慈悲深く、民衆を愛する心は、母が我が子を愛する如くであった。この頃、天上界では帝釈天(たいしゃくてん)の寿命が尽きようとしていた。この様子を近臣の毘首(びしゅ)天子が尋ねた。「天王よ。どうしてこの頃そんなに愁いに沈んでいらっしゃいますか?」すると、帝釈天は答えて「私は遠からず死なねばなりません、今や仏法はとっくに滅び、菩薩は未だ世に出られず、生死解脱の大事が解決できないのを思うと心配でなりません」と。毘首天子は「それならば今、閻浮提(えんぶだい)に尸毘王(しびおう)と言う者が大変熱心に仏道を求められいてると聞きます。その方にお頼みになったらよろしいでしょう」と言った。帝釈天は大変喜んで本当に皆の言うことが正しいか、どうか、実際に見てみようと言うことで、毘首天子は鳩に、帝釈天は鷹となり、下界に飛び立った。尸毘王が、城の庭を歩いていると懐(ふところ)に1羽の鳩が飛び込んできて言った「助けてください」。つづいて1羽の鷹が飛んできて近くの木の枝にとまって言った「その鳩は俺の鳩だ。返してもらおう」。尸毘王は言った「この鳩は私の懐に飛び込んできたのだから、無慈悲にお前に渡すわけにもいかない。なんとか助けてやってくれないか」。すると鷹が怒って言った「俺はもう3日も飲まず食わずで、今ようやくその鳩を見つけたのだ。その鳩を食べることができなければ、おそらく死んでしまうだろう。あなたは鳩を助けてやっていい気持ちかもしれないが、鳩を助けるなら、俺の方も同じように助けてくれ」
(参考)
@閻浮提(えんぶだい)・・・仏教の世界観で須弥山(しゅみせん)の南方にあるとされる島で、人間の住む世界。須弥山は、世界の中心にそびえるという高山。頂上は帝釈天(たいしゃくてん)の地で、四天王や諸天が階層を異にして住み、日月が周囲を回転するという。
A帝釈天・・・梵天(ぼんてん)と並び称される仏法守護の主神。十二天の一で、東方を守る。利天(とうりてん)の主で、須弥山(しゅみせん)上の喜見城に住むとされる。
B毘首(びしゅ)天子・・・帝釈天の侍臣で、細工物や建築をつかさどる神。
        (ニ)
尸毘王(しびおう)は困った。さんざん悩んだあげく、家来に天秤(てんびん)ばかりをもってこさせ、自分のモモの肉を切らせて、鳩と同じ重さになったところで、その肉を鷹に食わせようとした。しかし鷹が「俺は生肉しか食わない」と言い張った。ところが、どうしたことか、右のモモの肉を秤(はかり)に乗せても、左のモモの肉を乗せ足しても、両腕の肉を乗せ足(た)しても、体中のあらゆる肉を削ぎ落として乗せ足しても、鳩のからだの方がずっと重いままなのであった。ついに尸毘王は自らの身体を秤に乗せた。我が身を失うことで尸毘王の心に悔いはなかった。これを見た諸天・竜王・阿修羅・鬼神・人民は皆「一匹の小鳥のためにこのような行動を取れるのは希(まれ)である」と絶賛した。と同時に大地が六種(東西南北上下)に震動し、大海は波をあげ、枯れ木に花を咲かせ、天は香雨をふらし、きれいな花を散じた。天女は歌いながら「必ずこの人は仏になる」と讃じ、四方の神仙も皆来て「これ真の菩薩、必ず早く仏になる」と讃じた。この時、鷹は帝釈天(たいしゃくてん)の姿に、鳩は毘首(びしゅ)天子の姿にもどり、うやうやしく尸毘王に言った「大王よ、あなたは、何のためにこれほどまでに苦行をなさいますか、もしや転輪王(古代インドの伝説上の理想的国王)となって地上に威を振るいたいためですか」。尸毘王は答えて言った「私は少しも世間の栄達を望んでいません、ただ求めるところは仏道あるばかりです」。帝釈天は更に言った「王はこれほど苦痛をなめて後悔なさらぬのですか」。尸毘王は答えた「決して後悔しません」。「では、その証拠を見せて頂きたいものです」。尸毘王は力強く「私は毛頭、後悔の念はありません、もし、私の求めている通りに仏道が果たせるならば、私の体はきっと元の通りになるでしょう」。すると、たちまちにして、傷ついた体は元の通りに完全なもにのになった。これを見た諸天を始め、居合わせた者に賛嘆せぬ者はいなかった。
(参考)
@「ジャータカ物語」(「本生譚(ほんしょうたん)」などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。

(小話835)「不死身の白鳥の勇者キュクノスとギリシャの英雄アキレウス」の話・・・
        (一)
ギリシャ神話より。キュクノス(白鳥)は海王ポセイドンとカリュケーの子で、生まれたときに海岸にさらされて死ぬ寸前であった。そのとき、白鳥が憐(あわ)れんで幼子(おさなご)のところまで飛んできて保護した。そして、彼は白鳥に育てられた。キュクノスは槍に突かれても、剣で切られても不死身な身体を父から与えられていた。やがてキュクノスは、小アジアにあるコロナイの王となり、妻プロクレイアとの間に息子テネースと娘ヘーミテアーをもうけた。だが、妻プロクレイアは先に死んでしまった。二番目の妻ピロノメーは先妻の息子テネースに恋心を抱いたが拒絶された。彼女は継子(ままこ)によってあざけられたので、夫のキュクノス王のところへ行って、テネースが彼女を強姦しようとしたと虚偽の訴えをした。先妻の息子テネースと妹ヘーミテアーは父キュクノスにテネースが無実であると主張した。そこで、後妻のピロノメーは、証人としてエウモルポスという名の横笛吹きに彼女の話を確かめるように説得した。キュクノス王は後妻のピロノメーの言い分を信じて、先妻の息子テネースと妹ヘーミテアーを共に箱に入れて海に流した。幸いにも、テネースたちはおぼれることなくレウコプリュス島に漂着した。そして、テネースは自分の名を取って、レウコプリュス島をテネドスと名づけて、そこに住んだ。
(参考)
@キュクノス(白鳥)・・・もう一人のキュクノス(白鳥)は、軍神アレスを父にし、ピュレネを母とする巨人で、彼は、パガサイの野に父神アレスの社(やしろ)を建てようと、通行人を待ち伏せてその首を刎(は)ねていた。そのため、デルポイへ行く参拝者が激減してしまった。これに怒った太陽神アポロンは、英雄ヘラクレスに命じてキュクノスを退治させた。父親のアレス神は怒って英雄ヘラクレスに決闘を挑んだが、大神ゼウスが落雷で割って入り、引き分けに終わった。
        (ニ)
キュクノス王はやがて真実を知り、横笛吹きのエウモルポスを殺し、罰として後妻のピロノメーを生埋めにした。そして、彼の息子と娘がレウコプリュス島(すでにテネドス島と呼ばれていた)で生きていたことを知った。キュクノス王は詫びて許しを乞うために息子の元に船を出した。島に入港し艫綱(ともづな)を岩に繋(つな)ぎ止めた。しかし、先妻の息子テネースは怒って斧で艫綱を切ってしまった。このことは「何がなんでもテネドスの斧で切る」という断固として断る意の諺(ことわざ)になった。後(のち)にトロイア戦争に参加した全身が白い不死身のキュクノス王は、トロイア軍の勇者として、次々とギリシャの兵士を打ち倒していった。そして、英雄アキレウスとの一騎打ちになった。アキレウスは幾度も幾度もキュクノスを槍でつき、太刀で斬り付けたが、彼の肌は少しも傷つくことはなかった。しかし最後には、アキレウスがキュクノスの上に馬乗りになり、彼の兜(かぶと)の紐で絞め殺した。キュクノスの死でトロイア軍は浮足立って退却を始めた。戦場に横たわるキュクノスを父親のポセイドン神は嘆き悲しんだ。そして、海王ポセイドンはキュクノスを白鳥に変えた。白鳥になったキュクノスは、トロイアの上空を何度も何度も旋回してから紺碧の空の彼方へ去っていった。
(参考)
@テネドス島と呼ばれていた・・・言い伝えでは、英雄アキレウスの母の女神テティスが、太陽神アポロンに罰せられるからと、テネース(父をアポロン神とする説もある)を抹殺することのないよう強く諫止し、家僕の一人に命じて、アキレウスがうっかりしてテネースを殺害することのないよう注意し、思い起こさせるようにさせた。しかし、アキレウスがテネドスの地を襲い、テネースの美しい妹ヘーミテアーを追いかけたとき、テネースも立ち向かい、妹の前に立ちはだかって守ろうとした。妹は逃れ去ったが、テネースは殺された。アキレウスは、斃(たお)れたのが誰か知って、家僕を殺した。そばにいながら、母神テティスの戒(いまし)めを思い出させなかったからであった。他方、テネースをアキレウスは神殿がある場所に埋葬したが、この神殿には横笛吹きは入ることを許されず、神殿の中ではアキレウスの話をすることさえも許されなかったという。
A白鳥になったキュクノス・・・戦場で死んだキュクノスを父親の海王ポセイドンはその体を星空に投げ上げ「白鳥座」に変えたという。
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