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(小話806)「イソップ寓話集20/20(その25)」の話・・・
        (一)「ネコとネズミたち」
あるところに、ネズミで溢(あふ)れかえっている家があった。ある猫がそれに気づき、その家に入って行くと、ネズミを一匹、また一匹と捕まえては食べていった。ネズミたちは、食べられるのを恐れて、巣穴に閉じこもった。ネコはネズミが全く捕れなくなってしまったので、なにか策略でもって、ネズミたちをおびき出さなければならないと思った。そこで、彼女はくぎに跳びつき、そこにぶら下がって、死んだ振りをした。一匹のネズミがそおっと出てきて、彼女を見るとこう言った。「ご機嫌うるわしゅうマダム。たとえ、あなたが粉袋になったとしても、あなたのそばになど近寄るものですか」
        (二)「ライオンとクマとキツネ」
ライオンとクマが、同時に同じ子ヤギを射止(いと)めた。すると両者は、今度は獲物を独占しようと、熾烈な戦いを繰り広げた。戦いの末、両者共ひどい傷を負い、ふらふらになってぶっ倒れてしまった。この争いを遠巻きに見ていたキツネは、二匹がのびたのを確認すると、両者の真ん中に手つかずで横たわっている子ヤギをひっ掴み、あらん限りの速さで跳ねて行った。ライオンとクマは起きあがることも出来ずに、こう呻いた。「ああ、忌々(いまいま)しい。我々は、キツネに獲物をくれてやるために闘っていたのか」
(とんびに油揚げさらわれた)
        (三)「農夫とキツネ」
農夫は、キツネがニワトリを盗むので大変憎んでいた。ある日のこと、農夫はついにキツネを捕まえた。そして、徹底的に懲(こ)らしめてやろうと、縄を油に浸し、キツネの尻尾に縛りつけて火をつけた。突然の災難に、キツネは、そこらじゅうを駆け回った。そして、ある畑へと入って行った。実はそこは農夫の畑だった。畑はその時期、小麦の収穫の季節であった。たわわに実った小麦は、景気よく燃え上がり、跡には何も残らなかった。彼は悲嘆にくれて家路についた。
(腹を立てたにしても、無茶なことをしてはならぬ)


(小話805)「鐘(かね)つき小僧」の話・・・
       (一)
曹洞宗の総本山「永平寺」の貫主(かんしゅ=寺の住持・管主)を務めた森田悟由(もりたごゆう)禅師の小僧時代のこと。ある朝、いつものように暁鐘(ぎょうしょう)の音に耳を傾けていた和尚は、鐘が終わるや侍者に命じて鐘点役(しようてんやく)を自室に呼ばせた。間もなく、部屋に出頭した新参の小僧(後の森田禅師)に和尚は尋ねた「今朝の鐘は、いかなる心得でついたのか」。小僧は答えた「別にこれという考えもなく、ただ鐘をついただけでございます」「いや、そうではあるまい。何か心に覚悟するものがあったであろう。同じ鐘をつくのなら、今朝のようにつくがよい。誠に尊い響きであった」と和尚は小僧を褒(ほ)めた。
(参考)
@永平寺・・・福井県にある曹洞(そうとう)宗の大本山。開創は寛元2年(1244)、開山は道元禅師。初め大仏寺と称したが、寛元4年永平寺と改めた。
A森田悟由・・・曹洞宗の僧。曹洞宗第6代管長。永平寺第64世貫主。愛知県生。名古屋の大光院泰門のもとで出家、江戸駒込の吉祥寺学寮で学んだのち、金沢の天徳院住職となり、永平寺六十四世貫主にいたる。大正4年寂、82才。
       (二)
すると小僧は「別に覚悟というほどでもございませんが、国元の師匠が、何事をなすにも仏(ほとけ)に仕える心を忘れてはならん。たとえ鐘をつくときにも鐘を仏と心得てつくのだ、とつねづね教えてくださいましたので、一拝しては第一鐘をつき、二拝しては第二鐘をついたばかりでございます」と答えた。和尚はその覚悟を褒め「そのように教えられる師匠も優れた方であるが、それを言われたとおり守るおまえさんも感心じゃ。終生、その覚悟を忘れるのではないぞ」と励ました。毎朝の日課として、当たり前のようにつく鐘。しかし、その一回一回に心をこめて鐘をつくことで、和尚を感動させ、さらに続けることが小僧自身の心を成長させ、やがて小僧は永平寺の貫主を務めるほどになった。


(小話804)「人間で初めて予言者となったメラムプス。そして、その弟ビアスとの兄弟愛」の話・・・
       (一)
ギリシャ神話より。人間で初めて予言の力を得たメラムプスの父親はクレテウスの息子アミュタイオン王で、彼はみずから建設したメッセネのピュロスの町に住んでいた。母親はエイドメネで、メラムプスの弟はビアスであった。兄のメラムプスは、子供の時、戸外で眠っていて、足の裏が太陽の光に焼けて真黒になったので「黒い足」と呼ばれていた。二人の兄弟は、たがいに心から愛しあっていた。二人はまだ幼いころから、父によって田舎へ送られ、そこで仲よく暮らしながら成長した。二人の住んでいた家の前には、柏(かしわ)の大木があり、その幹の中に蛇の穴があった。兄のメラムプスはこの利口な動物を見て楽しんでいたが、あるとき、人夫が親蛇を殺してしまったので、ひとりぼっちになった子蛇が、あわれでならなかった。それで、薪(まきを積んで火をつけ、親蛇の死骸を焼くと、子蛇を家に持ち帰って育てた。やがて子蛇が大きくなったとき、こんなことがおこった。あるとき、メラムプスがうとうとと眠っていると、飼っている蛇がはい寄り、肩に登って舌で耳をべろべろとなめた。メラムプスは驚いて目をさましたが、不思議なことには、飛んでいる鳥のさえずりが、何もかもわかるのであった。それ以来、メラムプスは有名な予言者になった。鳥が未来のことを知らせてくれたからであった。後(のち)には、犠牲の動物のはらわたで予言することも学んで、予言者の神アポロンの寵児となり、アポロン神はしぱしばメラムプスとの話に打ち興じた。
(参考)
@蛇がはい寄り・・・古代では、神々の智恵は、すなわち蛇の知識であり、くねくねした蛇の姿は、さながら生命のあらゆる神秘と謎を秘めてうねる海の波だった。
A有名な予言者になった・・・メラムプスは太陽神アポロンや酒神ディオニュソスと関係があり、二人から予言の能力を授けられたという説もある。
       (二)
当時、アミュタオン王と並んで、ピュロスで勢力のあったのは、名高い英雄のネレウス王であった。ネレウス王には、ベロという娘があったが、絶世の美人なので、男という男が縁談を持ちかげてきた。しかし、ネレウス王はペロを誰にもあたえようとはしなかった。メラムプスの弟ビアスは、美しいペロを見ると、激しい恋心に胸を焦がした。それで、ネレウス王の所におもむいて、ペロを嫁にくださいと頼んだ。すると、ネレウス王は自分の母親テュロの相続分である「テッサリア地方ピュラケを治めているピュラコス王(又はその息子イピクロス)が飼っている牝牛(めうし)を連れてきたものに娘を与えよう」と言った。しかし、このすばらしい牝牛の群れは、一匹の獰猛な犬が厳重に番をしていたので、人間も動物も、そのそばへ寄ることができなかった。そこでビアスは、兄のメラムプスに牛を盗む手助けをしてほしいと頼んだ。メラムプスは弟を心から愛していたので、投獄を覚悟の上で承諾した。それは、たとえ投獄されても、一年ののちには、その牛が自分の手にはいるということを予言で知っていたからであった。そこで、メラムプスは約束どおり、ピュラケに旅立った。そして、ピュラケで牛の群れを盗み出そうとしているところを、案の定、引き捕えられて、牢獄に投げこまれた。一年ちかくたったある日のこと、メラムプスが牢獄にすわっていると、天井の梁(はり)の中で、木食虫が働きながら話しあっているのが聞こえた。メラムプスは木食虫に「おまえたちの牢屋を壊(こわ)す作業はどれほど進んでいるのか?」とたずねた。「ほんのもう少し噛み砕けばいいんです。あと小一時間もすれぱ、仕事は終わりです」と木食虫は答えた。メラムプスはそれを聞くと、大声で牢屋の番人を呼んで、この牢屋は今日にもくずれ落ちるから、すぐにほかに移してくれと頼んだ。この願いがようやく聞きとどけられた時、見捨てられた牢屋は崩壊してこなごなになった。
(参考)
@名高い英雄のネレウス王・・・ポセイドンとサルモネウスの娘テュロの息子。神にも劣らぬ知恵を持っていたとされる。ペリアスとネレウスは双子の兄弟。成長して後、二人は争うようになって、ネレウスはピュロスの建設者。ペリアスはアイソン王からイオルコスの王位を奪ったが、アイソンの息子イアソンが王位返還を要求した。そこで、ペリアスはイアソンに黄金の羊の毛皮を持って帰るよう要求した(アルゴー船遠征)。
       (三)
牢屋に捕らえられていた男が予言者であるという知らせが、まもなくピュラコス王の耳に達した。王は非常に驚いたが、男が、世にもすぐれた予言者であることがわかったので、その男を自分の前に引き出させた。そして、王は「もしわしの息子イピクロスの病気をなおすことができるなら、牛の群れを喜んであたえよう」と約束した。というのは、息子のイピクロスは、子供のときはきわめて丈夫(じょうぷ)だったのに、ふとしたことから、急に元気がなくなり、それ以来、衰弱して病床についていたからであった。メラムプスはピュラコス王に、その原因を調べてみましょうと約束した。すると王は、牛を引渡すという例の約束を繰りかえして言った。メラムプスは、大神ゼウスのために二頭の牛を屠殺し、小さく切り刻むと、鳥たちを呼びよせた。鳥が四方八方から飛んできたとき、メラムプスは鳥たちに、イピクロスの長わずらいの原因を話してくれないだろうか、と言った。すると、その中に混じっていた年老いたハゲ鷹が、ピュラコス親子の昔の様子を覚えていた。それは次のようなことであった。昔、ピュラコス王が森で木を切ったことがあったが、幼い息子のイピクロスが、そぱでうろうろ遊びまわるので、冗談におどかそうとして、ぴかぴか光る斧をすぐ目のまえの木に投げつけた。斧は木に刺さり、そのとき以来、突き刺さったままになっているが、イピクロスは気が遠くなるほどびっくりし、それが病気の原因となった。「あなたがその斧を見っけて」とハゲ鷹は言った「さびを削(けず)り落とし、そのさびを酒に入れて、十日のあいだ飲ませれぱ、イピクロスの病気はなおるでしょう」。予言者メラムプスは、言われたとおりに、斧をさがし出して、さびを削り落とし、それをイピクロスに十日のあいだ飲ませると、すっかり元気になった。ピュラコス王は喜んで、牛の群れを与えたので、メラムプスはピュロスの町まで追って行き、英雄ネレウスに送りとどけた。その報酬として、美しい娘ペロをもらったので、ペロを弟ビアスにあたえて妻にさせた。一方、病気が治ったイピクロスは、やがて立派な勇士となり、競走にかけては無敵になった。その足の速いことは驚くべきもので、稲田を走って、穂を折ることなく、海を走って、波にくるぷしをぬらすことがないほどであった。
(参考)
@息子イピクロスの病気・・・イピクロスには、なかなか子供ができないので、ピュラコス王が困っていることに対して、予言者メラムプスはハゲ鷹から「ピュラコスが牡牛の去勢をしているときに、子供だったイピクロスがそばで悪戯をして遊んでたのだ。ピュラコスが怒って血だらけの小刀を振り回したので、イピクロスは怖がって逃げていった」のが原因であると聞いたという説もある。
       (四)
その頃、ペロポネソス半島を支配していたアルゴリス国では、双子の兄弟アクリシオスとプロイトス(二人は、母アグライアの胎内にいる時から争い、父アバスの後の王位を巡っても争いを続けた)が国を二つに分けていた。兄のアクリシオスはアルゴスの王となり、弟プロイトスはティリュンスの王となった。プロイトス王には、妻のアンテイアとの間に三人の娘イピノエ、リュシッペ、イピアナッサがいたが、どの娘も、ギリシャの男という男が、妻に望むほどの美人であった。しかし、彼女たちは神を認めず、また非常に高慢であった。あるとき、この三人の娘が神々の女王ヘラの古い神殿に行ったとき、この神殿が質素で殺風景で、父の館のほうがはるかに華麗で、立派だとあざけった。ヘラ女神は、神聖な神殿があざけられることを、許してはおかなかった。ヘラ女神は神にそむく娘たちを、恐ろしい気違いにしたので、娘たちは自分を牝牛(めうし)だと思いこんで、吠(ほえ)ながら走りまわり、狂乱してアルゴリス(半島北東部の地域)、アルヵディア(半島の中央部の高原地帯)、ペロポネソス半島の全域をさまよった。父のプロイトス王は、深くそれを悲しんだが、かねて予言者メラムプスの名声を耳にしていたので、メラムプスを呼ぴよせ、不幸な三人の娘を治療してくれるように頼んだ。ところがメラムプスは、報酬に王国の三分の一の領土を要求した。この法外な申し出をプロイトスは拒否した。ところが、その後、病気は更に蔓延し、国中の女が狂人となってしまった。困り果てたプロイトス王は、以前の要求を呑むので病気を治してほしいとメラムプスに懇願した。だがメラムプスは、今度は、プロイトス王が弟のビアスにも国の三分の一をあたえることを確約しなけれぱ、助けることはできぬと言った。それはプロイトス王にとっては、実につらいことではあったが、しかたなく承諾した。これ以上ためらっていれば、メラムプスがついには、国の全部を要求してくることを恐(おそ)れたからであった。予言者メラムプスは、アルゴリスのたくましい若者たちを集めると、山のなかに連れてゆき、みんなで大声で叫び乱舞しながら、狂人たちをシキュオンの町の近くまで追いたてて行った。この騒ぎのうちに、プロイトス王の一番上の娘イピノエは死んだが、あとの二人は、予言者メラムプスが祈願と供物(くもつ)で、女神ヘラの怒りをしずめると、錯乱がすっかりおさまった。こうして、二人の娘はさいわいにも正気にもどったので、プロイトス王は約束した土地のほかに、娘の一人をメラムプスに、他の一人をビアスに妻として与えた。こうしてアルゴスには王家が三つ存在することになった。予言者メラムプスとビアスの兄弟からは、りっばな光輝ある子孫「メラムプスの人たぢ」がが出て、先祖の持っていた予言の才能を受け継いた。
(参考)
@兄のアクリシオス・・・アクリシオス王は妻エウリュディケとの間に娘ダナエを生む。息子が欲しかった彼は、神託を受けるが、その結果はダナエの息子に殺されるというものだった。それを恐れたアクリシオスは、青銅の塔にダナエを幽閉するが、黄金の雨となった大神ゼウス が彼女と関係し、ペルセウスが生まれた。
Aプロイトス王には・・・三人の娘イピノエ、リュシッペ、イピアナッサは、アルゴス全土がディオニソス信徒で湧き上がっている中、彼女たちはこの祭礼を受け入れなかった。そのため気が狂ってアルゴス全土をさまよい歩いたという説もある。(小話516)「各地を遍歴する酒神・ディオニュソス」の話・・・を参照。


(小話803)「剣豪、塚原卜伝の逸話(その2、「暴れ馬」と「三人の子供」)」の話・・・
           (一)
剣豪、塚原卜伝の弟子の一人が、馬の後ろを歩いていた時、急に馬が跳ねて蹴られそうになった。弟子はとっさに避けて馬を斬った。民衆は「さすが、卜伝の高弟」と褒め称(たた)えた。だが、卜伝の評価は違っていた「あれでは、秘剣・一の太刀(たち)は譲れん」。そういう卜伝は、どうするのかと、わざと卜伝の通り道に馬を繋(つな)いでおいた。馬の近くを通ろうとする卜伝は、馬の後ろに来ると急に向きを変えて、馬との距離を大きくとって通り過ぎた。不思議に思った人々が卜伝に尋ねると卜伝は「跳ねた馬を素早く避けて斬るのは兵法者として優れているようであるが、馬は元々、跳ねるもの。だから、日頃から馬に蹴られぬように注意を怠ってはならない。それを忘れて馬の後ろを通るような者は、兵法者として日頃の心掛けが足りない者である」と答えた。
(参考)
@塚原卜伝・・・室町後期の剣客。常陸(ひたち)の人。卜伝流(新当流)の祖。上泉伊勢守に新陰流を学び、流派を成したのち全国を回って修行を重ね、真剣勝負19度、出陣37度に及んだという。鹿島神宮に参籠(さんろう=祈願のため、神社や寺院などに、ある期間こもること)すること一千日、神意を蒙って「一の太刀」の妙理を悟った。「心新たにして事に当たれ」という意で新当流と称した。将軍、足利義輝(あしかがよしてる)・北畠具教(きたばたけとものり)らを指南したという。
           (二)
塚原卜伝は諸国修業の後に故郷の常陸に帰り、いよいよ最期の時にその家督を譲ろうとして三人の子供を呼び、それを試すことにした、まず、部屋の鴨居(かもい)に木枕を置き、暖簾(のれん)越しに見えなくした。そして、暖簾をくぐると、頭に落ちてくるように仕掛けた。こうして、第一に嫡子(嫡子=長男)を呼ぶと、嫡子は仕掛けを見抜くと、その木枕をとって部屋に入って来た。次に次男を呼ぶと、次男は暖簾(のれん)を開いた時に木の枕が落ちて来たので、飛びしさって刀に手をかけてから部屋に入って来た。最後に三男を呼ぷと、三男は、暖簾(のれん)を開いた途端に木枕が落ちて来たので、それを見るなり刀を抜いて木枕を見事に斬り捨てて部屋へ入って来た。すると卜伝は三男に「枕ごときに驚いて剣を抜くとは呆れたヤツである」と叱りつけて、一番用心深かった一番目に部屋に入った嫡子、彦四郎に家督を譲ったという。


(小話802)「烏龍(うりゅう)」の話・・・
         (一)
会稽(かいけい)の句章(こうしょう)の民、張然(ちょうぜん)という男は都の夫役(ぶやく)に徴(め)されて、年を経るまで帰ることが出来なかった。留守は若い妻と一人の僕(しもべ)ばかりで、かれらはいつか密通した。張(ちょう)は都にあるあいだに一匹の狗(いぬ)を飼った。それは甚(はなは)だ、すこやかな狗(いぬ)であるので、張は烏龍(うりゅう)と名づけて愛育しているうちに、いったん帰郷することとなったので、彼は烏龍を伴って帰った。夫が突然に帰って来たので、妻と僕(しもべ)は相談の末に彼を亡き者にしようと企てた。妻は飯の支度をして、夫と共に箸(はし)をとろうとする時、俄(にわ)かに形をあらためて言った。「これが一生のお別れです。あなたも機嫌よく箸をおとりなさい」おかしなことを言うと思うと、部屋の入口には僕(しもべ)が刀を帯びて、弓に矢をつがえて立っていた。彼は主人の食事の終るのを待っているのである。
         (二)
さてはと覚(さと)ったが、もうどうすることも出来ないので、張(ちょう)はただ泣くばかりであった。烏龍(うりゅう)はその時も主人のそばに付いていたので、張(ちょう)は皿のなかの肉をとって狗(いぬ)にあたえた。「わたしはここで殺されるのだ。お前は救ってくれるか?」。烏龍(うりゅう)はその肉を啖(く)わないで、眼を据え、くちびるを舐(ねぶ)りながら、仇の僕(しもべ)を睨みつめているのである。張(ちょう)もその意を覚って、やや安心していると、僕(しもべ)は待ちかねて早く食え食えと主人に迫るので、張(ちょう)は奮然決心して、わが膝を叩きながら大いに叫んだ。「烏龍(うりゅう)、やっつけろ!」狗(いぬ)は声に応じて飛びかかって僕(しもべ)に咬みついた。それが飛鳥のような疾(はや)さであるので、彼は思わず得物を取り落して地に倒れた。張(ちょう)はその刀を奪って、直ちに不義の僕(しもべ)を斬り殺した。妻は県の役所へ引き渡されて、法のごとくに行なわれた。
(参考)
岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話801)「失われた謎の大陸アトランティス。その高度な文明と偉大な王国」の話・・・
       (一)
伝説より。人類最初の文明は、エジプト、メソポタミア、インダス、黄河の四大文明だが、それ以前にアトランティス、ムー、レムリアなどの大陸が存在して、高度な文明を築いていたが、これらの大陸は突然に姿を消した。これら古代文明の中でも、もっとも有名なのはアトランティス大陸で、今から約1万2000年前に、現代文明をも凌(しの)ぐ「アトランティス」と呼ばれる超古代文明が大西洋に存在した。このアトランティスについて、最初に語ったのはギリシャの哲学者プラトンで、彼はこの伝説について晩年に「ティマイオス」と「クリティアス」という二つの著書に書き残した。アトランティスの伝説は、アテナイ(アテネ)の政治家・改革者ソロンがエジプトのサイスの神官から伝え聞いた話を、親族にして友人のドロピデスに伝え、更にその息子のクリティアスが引き継ぎ、更に同名の孫のクリティアスが十歳の頃に九十歳となった祖父のクリティアスからアパトゥリア祭の時に聞かされた事として、プラトンが著書「ティマイオス」と「クリティアス」の中で披露した。
(参考)
@ムー・・・約1万2000年前、太平洋上に存在していたという巨大な大陸。白人を中心として高度な文明が繁栄していたが、神の怒りを買い、一夜にして海底に沈没してしまったという、太平洋にあったという伝説上の大陸。
Aレムリア・・・約5000万年以上前、インド洋または太平洋上に存在したという神秘の大陸。沈没時期は不明だが海底に沈んだ。このレムリア大陸を人類発祥の地だという。
B哲学者プラトン・・・古代ギリシアの哲学者。ソクラテスの弟子。アテナイ郊外に学園(アカデメイア)を創設。現象界とイデア界、感性と理性、霊魂と肉体とを区別する二元論的認識論において、ヨーロッパ哲学に大きな影響を残した。ソクラテスを主人公にした約30編の対話編がある。著「ソクラテスの弁明」「ファイドン」「饗宴」「国家」「法律」など。
Cアテナイ(アテネ)の政治家ソロン・・・(小話796)「古代ギリシャの七賢人(その2)、政治家・改革者ソロン」の話・・・を参照。
       (二)
「ティマイオス」の冒頭で、ソクラテスの家で開催された饗宴の席でのクリティアス(ソロンとクリティアスはプラトンの血縁関係)の話は次のようにであった「それではさあ、聞いてくれたまえ、ソクラテス。これは何とも不思議な話ではあるが、しかし、それでも全面的に真実の話であって、そのことは七賢者の中でも第一人者のソロンが、かつて保証したところなのだ。さて、あのソロンという人は、自分でも自作の詩のあちこちで言っているように、私の曾祖父ドロピデスとは親族の間柄でもあり、また大いに仲のよい友だちでもあった。そして私の祖父クリティアスに向かって(と、この老祖父がこれまたわれわれに向かって、思い出話としてよく聞かせてくれたものだが)こんなことを言ったと言うのだ。つまり、もう時も経(た)ち、人々も死に絶えたのでさっぱりわからなくなっているが、驚嘆すべき偉業の数々が、その昔、このアテナイの国によって成し遂げられていたというのだ」(プラトン著「ティマイオス」より)。こうして、理想の国家がかつてアテナイ(アテネ)に存在し、その敵対国家としてアトランティスの伝説が語られた。エジプトのアマシス2世 (アアフメス2世)が即位した後の紀元前570〜560年頃、アテナイ(アテネ)の政治家ソロンは賢者として、エジプトのサイスの神殿に招かれた。そこでソロンは、デウカリオンの洪水伝説で始まる人類の歴史の知識を披露した。すると、神官たちの中より非常に年老いた者が言った「おおソロンよ、ソロン。ヘレネス (ギリシャ人) は常に子供だ。ヘレネス (ギリシャ人) には老人 (賢者) がいない」。神官は、ギリシャでは度重なる災害によってせっかくある程度まで発達した文明が何度も消滅し、歴史の記録が何度も失われてしまったが、ナイル河によって守られているエジプトでは、それよりも古い記録が完全に残っており、デウカリオン以前にも大洪水が何度も起こったことを指摘した。また、エジプトの女神ネイト(サイスの守護者にして戦の女神)が神官たちによる国家体制を建設して、まだ8000年しか時間が経っていないが、アテナイの町はそれよりさらに1000年古い9000年前に成立しており、女神アテナのもたらした法の下で複数の階層社会を形成し、支配層に優れた戦士階級が形成されていたことを告げた。その頃、ヘラクレスの柱 (ジブラルタル海峡) の入り口の手前の外洋であるアトラスの海(大西洋)にリビア(アフリカのこと)とアジアを合わせたよりも広い、アトランティスという一個の巨大な島(大陸)が存在し、大洋を取り巻く彼方(かなた)の大陸との往来も、彼方の大陸とアトランティス島との間に存在するその他の島々を介して可能であった。アトランティス島(大陸)に成立した恐るべき王国は、ヘラクレスの境界内 (地中海世界) を侵略し、エジプトよりも西のリビア全域と、テュレニアに至るまでのヨーロッパを支配した。
(参考)
@デウカリオンの洪水伝説・・・(小話576)「大洪水(デウカリオンの洪水)を生き抜いた夫婦、デウカリオンとそのピュラ」の話・・・を参照。
Aアトランティス島・・・歴史家ディオドロスは「歴史叢書」で、アフリカの大西洋岸 (モロッコ西岸) に聳えるアトラス山と、その麓でギリシア人並の文明生活を送っているアトランティオイ人について記載している。アトランティオイ人の神話によると、ウラノス神(ギリシア神話で、世界の最初の支配者)がアトランティオイ人に都市文明をもたらし、その後ティタン達が世界を分割統治した際にアトラスが大西洋岸の支配圏を得たが、アトラスはアトラス山の上で天体観測を行い、地球が球体であることを人々に伝えたという。また、アトラス王は弟ヘスペロスの娘ヘスペリティスと結婚して7人の美しい娘達の父となり、エジプトのブシリス王の依頼を受けた海賊に誘拐されてしまった娘達を英雄ヘラクレスが救った際に、その礼としてヘラクレスの最後の功業を手伝ったのみならず、天文の知識を教えたが、これがギリシア世界でアトラスの天空を担ぐアトラス伝説へと変化してしまったという。
       (三)
「ティマイオス」の続編にあたる「クリティアス(古くからアトランティス物語との別名がある)」の中で、クリティアスは、今度はアテナイ(アテネ)とアトランティスの物語を披露した。9000年以上前、ヘラクレスの柱(現在のジブラルタル海峡)の彼方に住む人々と、こちらに住む人々の間で戦争が行われた時、それぞれアテナイとアトランティスが軍勢を指揮した。当時のアテナイ市民は私有財産を持たず、多くの階層に分かれて、それぞれの本分を果たしていた。また、当時のアテナイは現在よりも肥沃であり、約2万人の壮年男女からなる強大な軍勢を養うことが出来たし、アテナイのアクロポリス(都市国家の中心部となる丘)も遥かに広い台地であった。だが、デウカリオンの災害から逆算して三つ目に当たる彼の大洪水により多くの森が失われ、泉が枯れ、今日のような荒涼とした姿になってしまった。エジプトの神官は当時のアテナイの王の名前として、ケクロプス 、エレクテウス 、エリクトニオス 、エリュシクトンなどを挙げたとソロンは証言した。一方、アトランティスの国は、アトランティス島の南の海岸線から小高い山があり、そこで大地から生まれた原住民エウエノルが妻レウキッペ の間にクレイトという娘を生んだ。アトランティスの支配権を得た海王ポセイドンは美しいクレイトと結ばれ、5組の双子(ふたご)の合計10人の子供が生まれた。即ち「アトラスの海」 (大西洋) の語源となった初代のアトランティス王(1) アトラスで、アトラスのすぐ後に生まれたもう一人の子には、(2)ガデイロスという名をつけた。この兄弟は最初に生まれた双子で、2番目に生まれた双子のうち、一人を(3)アンペレス、もう一人を(4)エウアイモンと名付けた。3度目に生まれた双子のうち、最初の子には(5)ムネセウス、後に生まれた子には(6)アウトクトンと名付けた。4度目に生まれた双子のうち、最初の子には(7)エラシッポス、次の子には(8)メストルと名付けた。5度目に生まれた双子のうち、最初の子には(9)アザエス、後に生まれた子には(10)ディアプレペスと名付けた。海王ポセイドンは大陸をこの10人の子供に配分し、長男アトラスを他の9人の上に君臨する大王にした。さらに、海王ポセイドンはアトラスを称(たた)えて国をアトランティス、周辺の海をアトランティック(大西洋)と呼んだ(プラトン著「クリティアス」より)。
(参考)
@海王ポセイドン・・・ギリシア神話で、海・地震・馬の神。神々の二代目の王クロノスとレアの子で、大神(ゼウス=神々の三代目の王)たちの兄弟。三叉の戟(ほこ)を持ち、海洋を思いのままに制するとされた。
Aアトラス・・・アトランティスという単語は、ギリシャ神話のティタン族の神アトラス(オリュンポスの神々と戦って敗れ、世界の西の端で天空を双肩で支える罰を科せられた)の女性形で「アトラスの娘」、「アトラスの海」、「アトラスの島」。又、古代ギリシア語の「海」や「島」などを意味する。ヘロドトス (古代ギリシアの歴史家)は「歴史」の中で、大西洋のことを「アトランティスと呼ばれる柱の外の海」と記述した。この時代以降、大西洋は「アトラスの海」、大洋と呼ばれるようになった。
       (四)
こうして10人の子供(アトラス一族)は、海王ポセイドンによって分割された島(大陸)の10の地域を支配する10の王家の先祖となり、何代にも渡り長子相続により王権が維持された。海王ポセイドンは人間たちから隔離するために、妻クレイトの住む小高い山を取り囲む三重の堀を造ったが、やがてこの地をアクロポリス(神殿のある都市)とするアトランティスの都が形作られた。当時のアトランティス人は、神の心を持ち続け、非常に徳が高く、聡明で、物欲を起こすことを軽蔑し、万物一体の調和ある生活をしていた。又、彼らはテレパシーを使い、その言葉には治癒(ちゆ)力があり、動物の凶暴性を静めたり、雨を降らせたり、火山を静めたりすることもできた。アトランティスの首都となったアクロポリス(神殿のある都市。ポセイドニアとも言う)は、輪の形をした巨大な運河によって、三重に取り囲まれた壮麗な水の都であった。これらの運河は外洋と水路によってつながっていたので、外から来た船は、水路を伝って自由にこの中に出入りすることが出来た。三つの輪の形をした運河はそれぞれ城壁に囲まれ、多数の船が停泊出来る港にもなっていた。三つの運河同士は無数のトンネルで結ばれており、船はそのトンネルを通って他の運河にも行くことが出来き、さらにアクロポリスの中心部にまで行くことが出来る構造であった。巨大な輪の運河に取り巻かれたアクロポリスには、たくさんの建物があり、それらは、この地下で産出された石で造られ、中央の島、内側の環状島、外側の環状島の石塀は、それぞれオレイカルコス(超金属=オリハルコン)、錫(すず)、銅の板で飾られていた。そして、中央島のアクロポリスには王宮が置かれ、王宮の中央には王家の始祖10人が生まれた場所とされた。海王ポセイドンとクレイト両神を祀(まつ)る神殿があり、黄金の柵で囲まれていた。これとは別に大きな異国風の神殿があり、海王ポセイドンに捧(ささ)げられていた。海王ポセイドンの神殿は金、銀、オレイカルコス(超金属=オリハルコン)、象牙で飾られ、中央には6頭の空飛ぶ馬に引かせた戦車にまたがった海王ポセイドンの黄金神像が安置され、その周りにはイルカに跨(またが)った100体のネレイデス(海に棲むニンフ)像や、奉納された神像が配置されていた。更に10の王家の歴代の王と王妃の黄金像、海外諸国などから奉納された巨大な神像が神殿の外側を囲んでいた。神殿の横には10人の王の相互関係を定めた海王ポセイドンの戒律を刻んだオレイカルコスの柱が安置され、牡牛(おうし)が放牧されていた。
(参考)
@オレイカルコス(超金属=オリハルコン)・・・アトランティス人は「オリハルコン」と呼ばれる超金属を自在に操っていたという。この金属の性質について「クリティアス」の中では「オリハルコンは飛行船を宙に浮かせる事が出来る」と書かれている。「今はただ名のみとなっているが、当時は実際に採掘されていたオレイカルコスの類は、そのころ金につぐ非常に貴重な金属であって、島内のいたるところに分布していた」(プラトン著「クリティアス」より)。
       (五)
また、アトランティス大陸の気候は暑くもなく寒くもなく、温暖で太陽がさんさんと輝き、四季を通じて心地よく暮らすことができた。果物、穀物など、作物も沢山とれ、地下資源も豊富だった。アトランティスでは、太陽こそ全能の象徴で、全ての生命を育む原点だと言う考えを持っていた。住民たちだけではなく、王以下の支配者達も宗教的には太陽を信仰していた。彼らは日々、太陽に向かって拝礼をしていた。アクロポリスには、海王ポセイドンが涌(わ)かせた冷泉と温泉があり、その泉から出た水をもとに「ポセイドンの果樹園」とよばれる庭園、屋外プールや屋内浴場が作られたほか、橋沿いに設けられた水道を通して内側と外側の環状島へ水が供給された。港と市街地は世界各地からやって来た船舶と商人で満ち溢(あふ)れ、昼夜を問わず賑わっていた。アトランティスは生活に必要な諸物資のほとんどを産する豊かな巨大な島(大陸)で、オレイカルコスなどの地下鉱物資源、象などの野生動物や家畜、家畜の餌や木材となる草木、ハーブなどの香料植物、葡萄、穀物、野菜、果実など、様々な自然の恵みの恩恵を受けていた。島の南側の中央には、広大な長方形の大平原が広がり、その外側を海面から聳(そび)える高い山々が取り囲んでいた。山地には原住民の村が沢山あり、樹木や放牧に適した草原が豊かにあった。この広大な平原は10の地域に区分されていた。その1つの地域には、それぞれアトラス王の血統の王がいて、これを統治していた。従って、アトランティスの王は全部で10人いて、10の国の連合王朝で、10王国の合議制だったが、最終決定は長男の家系(アトラスの子孫)によって行われた。アトランティスの10の王国の総軍隊は戦車1万台、100万の陸軍、水軍は1200隻(20万)で総計120万人を越える大軍団を擁していた。それに、アトランティスの市民生活を支える奴隷達を加えると、総人口はよゆうに1000万人以上を超えていた。アトランティスの10人の王は、5年または6年ごとに海王ポセイドンの神殿に集まって会合を開き、オレイカルコスの柱の前で祭事を執り行った。アクロポリスの神殿内には、牡牛が放牧されていたが、その中の一頭を捕らえて生贄(いけにえ)にした。即ち10人の王達の手によって捕えられた生贄の牡牛の血で柱の文字を染め、生贄を火に投じた。そして、クラテル (葡萄酒を薄めるための瓶) に満たした血の混じった酒を黄金の盃を用いて火に注ぎながら誓願を行ったのち、血酒を飲み、盃を海王ポセイドンに献じた。その後、10人の王達は礼服に着替えて生贄の灰の横で夜を過ごしながら裁(さば)きを行い、翌朝、判決事項を黄金の板に記し、礼服を奉納するというものであった。
       (六)
アトランティス王国の10人の王は代々絶対的な権力を有していた。そして、先王の掟に従い、10人の王はいずれも高邁な精神の持ち主であった。その掟はオレイカルコス(オリハルコン)の柱に刻まれていた。しかし、先王の戒(いまし)めは次第に忘れられ、アトランティス王国の王とその支配者達は、原住民との結婚を繰り返す内に「神の心」から「人間の心」に変化し、物欲という悪魔が忍び込んで堕落していった。すべての人々が傲慢になって、大いなる欲望の虜(とりこ)となった。それを目にした大神ゼウスは天罰を下そうと考えた「 (ゼウスは) 総ての神々を、自分達が最も尊敬する住まい、即ち全宇宙の中心に位置し、生成に関わる総てのものを見下ろす所 (オリュンポス山) に召集し、集まるとこう仰(おっしゃ)った」(以上、「クリティアス」より。ここで「クリティアス」の文章は途切れ、アトランティスの物語は未完となる)。ある時、アトランティス王国は強大な軍隊を率(ひき)いて、古代アテナイ王国を侵略をしようとしたが、ギリシャ人の諸都市国家はアテナイを総指揮として団結してアトランティスと戦い、既にアトランティスに支配された地域を開放し、エジプトを含めた諸国をアトランティスの脅威から未然に防いだ。「しかし、やがて異常な地震と大洪水が起こり、過酷な一昼夜が訪れ、あなた方 (アテナイ勢) の戦士全員が大地に呑み込まれ、アトランティス島も同様にして海に呑み込まれて消えてしまった。それ故、その場所の海は、島が沈んだ際にできた浅い泥によって妨げられ、今なお航海も探索もできなくなった」(以上、「ティマエオス」の老神官の話より)。
(参考)
@アトランティスの物語は未完となる・・・ソロンの血縁者であったプラトンは、アトランティスの物語を書き上げようとしたが、結局、作品を書き終える前に亡くなり、今日(こんにち)アテナイのオリュンピエイオンの神殿に収められているプラトンの全作品の内、アトランティスの物語 (「クリティアス」) だけが未完に終わってしまい、本当に残念なことだとプルタルコスは感想を述べている。このことから、少なくともプルタルコスの時代には、すでに「クリティアス」は未完の作品として伝わっていたと思われる。
A異常な地震と大洪水・・・(1)地中海説---サントリーニ島の火山噴火説が現在有力。エーゲ海に浮かぶティラ(サントリーニ)島の火山が紀元前1500年頃に爆発し、その影響で当時栄えていたクレタ島のミノア文明が崩壊したことが、アトランティスの伝説を生んだという説である。(2)大西洋説---プラトンの叙述をそのまま適用すると大西洋にアトランティスがあることになる。大西洋沿岸を生息域とする生物の一部には、奇妙な習性を持つものもいるが、その原因として、陸地(アトランティス)の沈没を上げる説が出されている。大西洋上には、アゾレス海台に位置するアゾレス諸島があるが、すべて火山島である。(3)南極説---古くからあった考え方、ポールシフト(地球の自転軸移動)以前の南極大陸こそがアトランティスであるという説。(4)大海進説---紀元前9560年頃にアトランティスが海中に沈んだとするのは、氷河期の終焉による海面の上昇とかつての陸地の水没を指すとする説。
「アトランティス滅亡(ジュール・ヴェルヌ作「海底二万里)」の挿絵はこちらへ
「アトランティス大陸の想像図」の絵はこちらへ
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「アトランティスの都の想像図」の絵はこちらへ


(小話800)「謎かけ姫(その二)ペルシアの王子と中国の冷血王女」の話・・・
          (一)
民話より。ペルシア(イラン)のエブラーヒーム王子は、ある日、狩りに出かけた。そして、洞窟の中で一枚の肖像画を持って泣いている老人を見つけた。その肖像画に描かれた女性は冷血王女で、誰もが彼女に心を奪われるが、彼女は誰とも結婚しようとせず、求婚者をすべて殺してしまうという。エブラーヒーム王子は一目見て、この女性に心を奪われ、彼女の住む中国へと出かけた。中国に着いた王子は、ある老女に助けを求めた。王子に同情した老女は、王女と会い、結婚しない理由を聞いた。王女の答は次のようなものであった「ある晩、私は夢を見ました。夢の中で、私は牝鹿(めじか)になって荒野を歩いて、草を食べていました。すると、近くに牡鹿(おじか)が現われて、仲良くなりました。そうしているうちに、牡鹿の足がネズミの穴に落ちました。どんなにがんばっても足は穴から抜けませんでした。私は、1ファルサング(約6キロ)の道のりを歩いて、口の中に水を入れて持ってきて、ネズミの穴に注ぎました。すると、牡鹿は足を抜くことができました。そして、また歩きはじめると、今度は私の足が穴に落ちて抜けなくなりました。牡鹿は水をもとめて行き、戻ってきませんでした。ここで夢から覚め、そのときから私はこう決めたのです。どんなに男の人が求婚にきても、殺すことにしよう。というのも、男というのは薄情だからです」
          (二)
この話を聞いた老女は、エブラーヒーム王子に公衆浴場を作り、そこに絵を描くよう指示した。脱衣所に牡牝(おすめす)二頭の鹿が草を食べている絵を描いた。二階には牡鹿がネズミの穴に落ちて、牝鹿が水を持って穴に注いでいる絵を、そして、三階に牝鹿の足が穴に落ち、牡鹿が水を求めて泉に行ったところで、猟師に弓で射られている絵を描いた。公衆浴場建立の噂を聞いた冷血王女も、この公衆浴場を見に行った。そして、絵を見た王女は、牡鹿に悪意がなかったことを知り、もう求婚者を殺すことはやめ、いい伴侶を見つけようと改心した。やがて、王女もエブラーヒーム王子を気に入り、二人はめでたく結婚した。


(小話799)「剣豪、塚原卜伝の逸話(その1、「無手勝流」「左太刀」)」の話・・・
           (一)
室町時代末期の剣豪、塚原卜伝(つかはらぼくでん)が、旅の途中で琵琶湖の矢橋(やばせ)の渡し船に乗ったところ、六、七人の乗り合わせた客の中に血の気の多そうな武芸者がいて、我こそは天下無敵と剣術自慢を始めた。あまりにうるさいので寝たふりをしていた卜伝も、ついに耐えかねてたしなめると、武芸者はいきり立って「お前は何流!」とからんで来た。そこで卜伝は「それがしの剣は、人に勝とうとするものではなく、ただ人に負けぬためのもので、「無手勝流(むてかつりゅうりう)」と申す」と答えた。これを聞いた武芸者は「ならばその「無手勝流」とやらで、拙者と真剣勝負をせい!」と迫った。卜伝は「狭い舟の中では乗り合いの客に迷惑をかけるから、向こうに見える小島で立ち会いましょう」と言って、船頭に命じて船を小島に向けさせた。島に着くと武芸者は待ちかねたように飛び移り、大刀(だいとう)を抜いて「さあ早く来い」と叫び立てた。すると卜伝は船頭から棹(さお)を借り、それで小島に飛び移るかと思いきや、なんと船を島から突き離してしまった。「こら、なぜ逃げる。勝負しろ」とわめく武芸者に、卜伝は船をどんどん進めながら笑って言い放った「戦わなければ絶対に負けることはない。これが「無手勝流」じゃ。悔しければここまで泳いで来い、お手前にも伝授いたそうぞ」。
(参考)
@塚原卜伝・・・室町後期の剣客。常陸(ひたち)の人。卜伝流(新当流)の祖。上泉伊勢守に新陰流を学び、流派を成したのち全国を回って修行を重ね、真剣勝負19度、出陣37度に及んだという。鹿島神宮に参籠(さんろう=祈願のため、神社や寺院などに、ある期間こもること)すること一千日、神意を蒙って「一の太刀」の妙理を悟った。「心新たにして事に当たれ」という意で新当流と称した。将軍、足利義輝(あしかがよしてる)・北畠具教(きたばたけとものり)らを指南したという。
           (二)
ある武士から塚原卜伝は勝負を申し込まれた。卜伝は、勝負を延ばしつつ、その武士について調(しら)べた。調べ上げて分かったことは「左太刀・片手斬りが得意」ということだった。そこで卜伝は、使者を遣(や)って「左太刀は卑怯だから辞めるように」とその武士に申し伝えた。その武士は、当然そんな申し出に従うはずもない。それでも、卜伝は何度でも同じ内容の遣いを送った。相手の武士も、相も変わらぬ返答を繰り返すばかりであった。試合当日、再三の卜伝の申し出に、すっかり「卜伝は、俺の左太刀に臆(おく)している」と、必要以上に左太刀にこだわったその武士は、卜伝に一刀のもとに切られてしまった。相手の慢心を上手く利用した、塚原卜伝の作戦勝ちであった。


(小話798)「永遠の夫婦愛、死後も結ばれた老夫婦。正直者の夫ピレモンと誠実な妻バウキス」の話・・・
         (一)
ギリシャ神話より。ある時、神々の王である大神ゼウスが、息子の伝令神ヘルメスを連れて、人々が客をどのようにもてなすかを試そうと考えて、ブリュギアの地方へやって来た。それは冬の日のことで、ある町に、二人は人間に変身し、ぼろを身にまとった親子の旅人の姿になって、町の家々のドアを叩き、家の人にパンを分けてくれるように頼んだ。「少しで構いませんから、パンを分けてください。せめて息子だけでも」と旅人の父親がそう言っても、町の人達は曖昧に返事をするか、ピシャリと家のドアを閉めてしまうかのどちらかで、この親子に食べ物を恵んではくれなかった。町の人々は「客人が訪れたときは、神の使いだと思って歓待すべし」というのが大神ゼウスの定めた義務であったのに、それを踏みにじって恥とも思わぬ人たちばかりであった。大神ゼウスは呟いた「神の姿である時と、なんて差があるのだろう。私達が神である時は、皆ひれ伏し、供(そな)え物をしてくれる。だが、貧しい者達には食べ物を恵むどころか、姿を見るなりドアを閉めてしまう。人間達の心は、こんなにも残酷だったのだろうか?」。村はずれに、一軒の貧しい小屋があった。低い小さな家で、藁(わら)と沼にはえる葦(あし)で屋根がふいてあった。しかし、この貧しい家には幸福な夫婦、正直者のピレモンと、誠実な妻バウキスが住んでいた。この小屋で二人は、楽しい青春を共に過ごし、この小屋で二人は白髪の老人になったのであった。二人のあいだには子供がなかったが、二人は自分たちの貧乏を隠すことなく、深い愛情に結ばれて、二人きりで、明るく楽しく暮らしていた。親子の旅人の姿をした大神ゼウスがその家のドアを叩くと、中からぼろを身にまとった妻バウキスが出てきた。「どうか、パンを恵んでは下さらないでしょうか」と旅人の父親がそう言うと、バウキスは親切にこう言った。「まぁ、さぞ寒かったでしょう。こんなあばら家ですけれど、よろしかったら、どうぞ上がって下さい」。背の高い二人の神が、低い入口を首をかがめてはいると、家の中には、バウキスと同じような粗末な服のピレモンがいて、二人に心からの挨拶をのべた。老人が椅子を置きなおすと、妻のバウキスがその椅子にそまつな織物をかけ「どうぞゆっくりお休みください」と言った。それから妻は、囲炉裏(いろり)のところへ行き、小さく割った薪を、火の上にかけてある小さな鍋の下に押し込んだ。その間に、夫のピレモンが、小さな野菜畑からキャベツを取ってきていたので、妻はせっせとその葉をむしった。夫の老人はそれから、部屋の煤(すす)けた天井からいぷした豚の背肉(これは祝祭の場合のために貯蔵してあったのである)を取りおろし、肩の肉から適当なかたまりを切って、熱湯のなかに入れた。そのあいだにも、夫婦は他国から来た二人の客を退屈させまいとして、しきりに他愛のない話をして楽しませた。
(参考)
@大神ゼウス・・・ギリシア神話の最高神。天候・社会秩序をつかさどる。父神クロノスを王座から追放し、3代目の支配者となった。
A伝令神ヘルメス・・・オリュンポス十二神の一人。大神ゼウスと巨神アトラスの娘マイアとの子。神々の使者(伝令)を務めるほか、富と幸運の神で、商業・発明・盗人・旅行者などの守護神。
         (二)
それからまた、老夫婦は、客たちに足湯をつかわせるため、木の盥(たらい)に水を入れた。大神ゼウスとヘルメス神は微笑しながら、親切に差しだされた盥(たらい)を受け取った。そして、両足を気持よく水のなかに伸ばした。その間に、老夫婦は寝るための長椅子の用意をした。粗末な食卓には暖かい料理が運ぱれ、食後の食べ物の場所をあけるために、酒杯はかたわらへかたよせられた。この食事の最大の魅力は、なんといっても、誠実な老夫婦の善良な好意のこもった顔で、その顔には、気まえのよさと淳朴さとがあふれていた。四人が楽しく御馳走を食べ、酒を飲んでいるうちに、夫のピレモンは、ぷどう酒のはいっている壷がいっこうに空(から)にならず、いつまでも酒が壷の縁いっぱいになっていることに気がついた。それで、泊めた客がだれであるかを知って驚き、かつ恐れた。ピレモンは妻といっしょに両手をあげ、うやうやしく目を伏せて、神々が粗末な食事を寛大に見、このいたらぬもてなしにも腹をたてないでください、と哀願した。「ああ、わたしたちは天のお客様に、何を差しあげれぱよいのでしょうか?ああそうだ、外の家畜小屋には鵞鳥(がちょう)が一羽いたっけ。あれをお供えすることにしよう」と老夫婦は急いで出て行った。しかし、鵞鳥の足は、二人の足より速かった。ガアガア鳴き、羽をバタバタさせながら、家のなかに走りこみ、神に保護を乞うかのように、二人の客のうしろに隠れた。そしてその保護があたえられた。客は躍起になっている老夫婦を制して、やさしく微笑しながら言った。「わたしたちは神なのだ。わたしたちは人間が客をどんなに厚くもてなすかを調べるために、地上におりて来た。おまえたちの近所のものどもは、実に不埒(ふらち)だ。だから罰をまぬかれることはできぬ。だが、お前たちはこの家を出て、わたしたちについて山の頂上に行くのだ。罪のないお前たちが、罪のあるものといっしょに罰をうけないためにな」
(参考)
「ユピテル(ゼウス)とメルクリウス(ヘルメス)をもてなすフィレモン(ピレモ)とバウキス」(レストゥー)の絵はこちらへ
         (三)
老夫婦はその言葉に従った。そして杖にささえられて、やっとの思いで険(けわ)しい山を登って行った。山の途中で夫婦は不安に駆られて、うしろを振り返って見た。すると見渡すかぎり、田や畑は一面の波だつ湖となり、夫婦の住んでいた小さい家だけが、ぽつんと残っていた。二人は驚いて目を見張り、ほかの人々の運命を嘆いていると、みすぼらしい古い家が、見る見るうちにそびえ立つ神殿になった。円柱にささえられた黄金の屋根は、きらきらと輝き、床は大理石で敷きつめられていた。ゼウスは慈悲ぶかい顔を、ふるえている老夫婦に向けて言った。「さあ、言いなさい。正直な老人よ、またその夫にふさわしき妻よ。おまえたちが望むものを?」ピレモンは妻と二言(ふたこと)三言(みこと)、言葉をかわすと、こう言った。「わたしたちは、あなたさまの神官になりたいと思います。どうぞあの神殿のお守りをすることを許してください。それにわたしたちは、長年のあいだ、たがいに仲よく暮らしてきたのですから、二人を同じ時に死なせてください。そうすれば、わたしは愛(いと)しい妻の墓を見ることもないし、また妻を埋葬しなくてもすむわけですから」。老夫婦の希望はかなえられ、天寿を終えるまで、神殿の守りをした。二人のいる神殿には、いつもたくさんの人々がやってきた。二人は飢えで苦しむ事がないことよりも、一緒にいられる事が幸せであった。二人は、仲良く暮らしていた。あるとき、寄る年波にすっかり老衰(ろうすい)した夫婦が、いっしょに神殿の階段の前に立つと、妻のバウキスは夫が、夫のピレモンは妻が、緑の葉に包まれて消えて行くのを見た。二人の顔のまわりには見る見るうちに、蔭の多い梢(こずえ)が高く伸びていった。「さようなら、愛(いと)しいあなた」「さようなら、愛する妻」。二人は口のきけるかぎり、そう叫んだ。それがこの尊敬すべき夫婦の最期であった。夫のピレモンは柏(かしわ)の木になり、妻のバウキスは菩提樹となった。神殿の階段脇に生きているとき離れなかったように、死んでもなお、仲良く並び立つ二本の木を、人々は敬神の念厚き者に贈られる神寵の証(あかし)として敬い、常にその枝に花輪を捧げて自らもかくありたいものと願った。そして今もブリュギア国の、とある丘の上に、樹齢千年の柏(かしわ)の木が、すぐそのそぱには、それと同じくらいの菩提樹の老木がそぴえ立っている。二本の木のまわりには低い塀がめぐらされ、二本の木の枝には多くの花輪がかけてあり、そこからあまり遠くないところには、沼のような湖がその浅瀬をひろげている。そこは以前は、人の住む陸地であったが、いまはアビ(アビ目アビ科の鳥)や青鷺(あおさぎ=サギ科の鳥)が飛び交うだけであった。
(参考)
@は柏(かしわ)の木・・・夫のピレモンは樫(かし)の木とかオークの木になったと言う説もある。
Aいっしょに神殿の階段の前に立つと・・・ある朝、目ざめると、二人とも頭から葉っぱが生えていた。そして二人は最期の日が来たことを知ったという説もある。
B菩提樹・・・柏の花言葉は「勇敢・歓待・独立・愛は永遠に・愛想のよさ・自由」。菩提樹には、人間の霊が宿っていると信じられ、霊感師は、この葉を指に巻くという。菩提樹の花言葉は「結ばれる愛・結婚・熱愛・夫婦の愛」。
「フィレモン(ピレモン)とバウキス 」(ジャン・マテウス)の挿絵はこちらへ


(小話797)「イソップ寓話集20/20(その24)」の話・・・
         (一)「キツネと樵(きこり)」
キツネが猟犬に追われて、樵(きこり)のところへやってきた。キツネは樵に、身を隠す場所を乞うた。樵は、自分の小屋に隠れるようにと勧めた。そこでキツネは、小屋の隅に身を潜(ひそ)めた。すぐに、猟師が猟犬と共にやって来た。そして樵に、キツネを見かけなかったかと尋ねた。樵は、見なかったと答えたが、応(こた)えている間ずうっと、キツネの隠れている小屋を指さしていた。しかし、猟師は、その合図に気付かずに、樵の言葉だけを信じて、先を急いだ。猟師たちが遠くへ行ってしまうと、すぐにキツネは出てきた。そして、樵に一瞥(いちべつ)もくれずに、そこから去って行こうとした。樵は、キツネを呼び止めると咎(とが)め立ててこう言った。「まったく、命を救ってもらったくせに、お礼の一つも言わずに出て行くとは、なんて恩知らずな奴なんだ!」。するとキツネがこう応えた。「あなたの振る舞いが、あなたの言葉と同じだったら、いくらでもお礼を言うのですがね」
         (二)「サルと漁師」
サルが、高い木の上に座って、漁師たちが川に網を投じるのをじいっと観察していた。しばらくすると、漁師たちは、食事のために、土手に漁網(ぎょもう)を残して帰って行った。ものまね屋のサルは、木のてっぺんから下りて行き、漁師たちの真似をしようと、漁網をとって、川の中へ投じた。しかし網が体に絡みつき、サルは溺(おぼ)れてしまった。サルは、死に際(ぎわ)に独りごちた。「こんな目に遭うのも当たり前だ。網など扱ったこともない者が、魚を捕らえようとするなんて、一体どういう了見だったのだろう」
         (三)「ノミと格闘家」
ノミは、格闘家の足にとりつくと、その足をがぶりと咬(か)んだ。格闘家は、たまらずに、ヘラクレスに大声で助けをもとめた。その後、ノミがまた、男の足にとりついた時のこと、格闘家は呻きながらこう言った。「おお、ヘラクレス様。ノミを相手にさえ、あなたのご加護が得られないというのに、強い格闘家と闘う時に、あなたのご加護をどうして期待できるでしょうか?」
(参考)
@ヘラクレス・・・ギリシア神話で、最大の英雄。神々の王ゼウスとアルクメネとの子。大神ゼウスの妻ヘラの激しい嫉妬(しっと)により、その生涯は難行苦行の連続であったが、ライオン・水蛇・怪鳥退治など、アルゴス王エウリュステウスに命じられた12の難題解決は特に有名。死後、天上に迎えられて神になったという。


(小話796)「古代ギリシャの七賢人(その2)、政治家・改革者ソロン」の話・・・
        (一)
古代ギリシャ七賢人の一人ソロンは、紀元前6世紀頃に活躍したアテナイ(アテネ)の政治家・立法家で「ソロンの改革」を行って、それまで行われていた貴族政治を終結させ財産政治の端緒を築いた。ソロン(紀元前640年〜紀元前560年頃=推定)の両親は共に名家の出身であったが、決して富裕ではなかった。賢人と言われたソロンは、若い時に海外貿易に従事し、さまざまな国を渡り歩いた。それは蓄財のためばかりでなく、修養のためでもあった。彼の知識欲は「年老いても尚(なお)、多くを学ぶ」と言って、老年になっても各地をめぐり歩いた生涯であった。ソロンは外国貿易の経験から、奢侈(しゃし)や惰弱(だじゃく)、船員に伴う危険な快楽も経験し、ソロンは40歳頃、自分を中産者階級と自覚した。そして、ソロンはつねづね「悪人が富み栄え、善人で貧しい者が多い」と言い「富める者の貪欲(どんよく)と傲慢から富者と貧者の抗争が生まれた」と考えていた。やがてソロンは、その人格の高さが評価されて、人々に推され、紀元前594年(46歳頃)アテナイ(アテネ)の政治の中枢をになう役であるアルコン(執政官)になった。当時、古代アテナイ初の成文法である「ドラコンの立法」というものがあった。この法は、曖昧(あいまい)であった慣習法を成文化したものであったが、依然として貴族に有利な法であった。「ドラコンの法」は、貴族優位の法であるというだけでなく、非常に厳しい法律で、殺人罪だけでなく窃盗罪などに対しても死刑の規定が為されていた。貿易経済の発展によって経済力を高めた平民達は、「ドラコンの法」の貴族に有利な不公正性に対して不満を高めていった。アルコン(政務官)となったソロンは、「ドラコンの法」を公正で現実的な条文へと改正(ソロンは「ドラコンの殺人に関する法」以外は全て廃止して、より民主的な新法にした)した。
(参考)
@財産政治・・・市民を財産によって等級分けして、財産を持つ平民にも参政権を与えた。従来は、貴族の神聖な義務であった共同体防衛の為の戦争行為に参加することで貴族に参政権が認められていた。それを重装歩兵として武具を自弁できる財産のある平民の連中には政治参加を認めた。
Aドラコンの立法・・・ドラコンはギリシアのアテナイ初の成文法を書き上げた人物で、ギリシャの著述家プルタルコスは「ドラコンの法」をキャベツを盗んでも死刑が適用されるほどで「血で書かれた法」、「死刑しかない法」などと伝えている。「なぜ死刑なのか?」この問いにドラコンは答えた。「小さな罪もこれに値すると思うし、大きな罪にはこれより大きな罰がないから」と。
        (二)
古代ギリシャにおいては、自分の国家を防衛する為に戦争に参加する事は最大の名誉であり、武器と防具、馬を準備して戦争に参加することは、義務ではなく積極的に望む権利であった。また、国家の繁栄と防衛の為の戦争に参加する市民(貴族)だけが、国家の政治に参加する権利を有するという原則があった。その為、それまで貧しくて戦争に参加できなかった平民達も、貿易活動によって経済力を蓄えて、武器を自弁できる裕福な平民が多くなり、政治に参加しょうとする機運が高まって来た。そのためアルコン(政務官)のソロンは、市民を財産によって4階級(貴族、騎士、自作農、貧困層)に分け、それぞれに見合った参政権を与えた。又、ソロンは、参政権を得られない貧困層の平民の不満を緩和する為に「重荷おろし」(「債務の帳消し」と「債務奴隷の禁止」)の法を出して、借金を帳消しにし、また身体を抵当にしての借財を禁じた。こうして、自作農民が奴隷に転落するのを防いだ。さらに、彼は市民の一人が傷つけられたとき、それは都市全体の傷にもなりうる、と示した。「どんな国家が住みやすいか」という問いにソロンは「不正な目にあっていない人たちが、不正な目にあっている人たちと同じように憤りを感ずる国家だ」と答えた。彼は、戦争で死んだ者の子供をポリス(都市国家)の費用で扶養・教育する定めや、父親から技術を教えられなかった子供は、父親を養う義務はない、など市民生活の細部まで規定した。しかし、相変わらず官職は、財産の多寡(たか)によって決められ、貴族にほぼ独占されていた土地の再分配は行われなかった。
(参考)
@市民生活の細部まで規定・・・スキタイ人の賢者アナカルシスがソロンの家に滞在した時、ソロンは国政に携(たずさわ)り、法律を編纂していた。アナカルシスは、ソロンの仕事を知って言った「ソロンが市民たちの不正と貪欲を抑止しようと考えているのは、蜘蛛(くも)の網のようなものである。蜘蛛の網のように架(か)かった者のうち、非力で弱い者は捉えておけるが、力ある者や富者によって破られる。ギリシャ人の間では演説するのは賢人たちだが、決定するのが無知な人々なので驚いた」と。
        (三)
こうして「ソロンの改革」は、貴族階級と平民階級の対立の激化を抑制して民衆から絶大な支持を得た。だが、ソロンはその人気を理由にして僣主(せんしゅ=独裁者)になることは決してなかった。「独裁は美しい山だが、一度登れば下(お)りられなくなる」とソロンは言っていた。ソロンが名声を高めたのは、彼がまだアルコン(執政官)の役に就く前のことで、彼の生誕地サラミスをメガラから防衛したことであった。メガラは当時の強国で、アテナイ(アテネ)は何度もメガラとの戦闘に破れてサラミスの防衛に対しては消極的になっていた。その上、アテナイ市民は、今後、サラミスの防衛の為の戦争を推し進める者があれば、死刑に処するという決議を民会で行った。そこで、メガラからサラミスを守りアテナイの栄光を高めるためにソロンは、政治の中心地アゴラ(広場)に乗り込み、戦意高揚の歌を歌った「こんなことなら私は、アテナイ人である代わりに、祖国を取り換えて、ポレガンドロス島やシキノス島のような小さな島の人間でありたいものだ。すぐにも人々の間でこんな噂が立つことだろうから。「見ろ、こいつもサラミスを裏切ったアッティカ(アッティカ半島。首都アテナイ)の男だ」と。 さあ、サラミスへ行って、愛(いと)しい島の為に戦おう。そして、このつらい恥辱を晴らそうではないか」。 相次ぐメガラとの敗戦によって戦意喪失し、弱気な政治決定に傾いていたアテナイは、ソロンの捨て身の訴えによってメガラと再戦し、見事に打ち破ることが出来た。こうしてメガラとの戦争の勝利によって、ソロンの名は一躍アテナイ中に知れ渡った。「ソロンの改革」によって、貴族階級と平民階級の対立の激化を抑制したものの、彼は、この改革が富裕層にも貧困層にも恨まれるだろう、と予想した。ソロンに「あなたはアテナイ人のために最良の法律を作ったか?」と聞かれて「人々が受け入れる内で最良のものを」と答えた。後(のち)に大哲学者アリストテレスは「ソロンは、他人を抑(おさ)えて僣主(せんしゅ)になることも出来たが、僣主(せんしゅ)にならず、双方の側から憎まれても、自己の利益よりも美徳と国家の安全を重んじたほどに節制であり、公平であった」と評価した。ソロンは、この法律(「重荷おろし」=「債務の帳消し」と「債務奴隷の禁止」)に百年の効力を与え、木の回転板に記して行政府に掲げた。500年後、プルタルコス(古代ギリシアの哲学者・著述家)がアテナイを訪れた時にも、まだその回転板の朽(く)ちた残りがあったという。
(参考)
@僣主(せんしゅ)・・・古代ギリシャの諸ポリス(都市国家)にみられた非合法的手段で支配者となった者。多くは貴族出身で平民の不満を利用し、その支持を得て政権を掌握した。
Aアリストテレス・・・古代ギリシアの哲学者。プラトンの弟子。アテナイ(アテネ)に学校リュケイオンを開いてペリパトス学派の祖となる。「自然学」「動物誌」「ニコマコス倫理学」「政治学」「詩学」などの多くの書を著し、古代で最大の学問体系を樹立した。
        (四)
「ソロンの改革」には富裕層にも貧困層にも不満だったので、彼は十年間、法を変更しないことを誓わせて、公職を引退しエジプト、キュプロス、イオニア地方を旅した。ソロンが、エジプトのサイスという街を訪れたとき、一人の老神官が不思議なことを語った「ソロンよ、あなたたちギリシャ人は、ほんの幼児です。ギリシャには老人 (賢者)がおりません。精神においてみな若いのです。あなたたちには、古い思想が伝統によって伝えられているわけでもなく、また、時を経て白髪を備えた学問も、持ち合わせていません。その理由を申し上げましょう。人間は現在に至るまで、幾度となく破滅しているのです。また、これからも破滅するでしょう」。さらに神官は、これまでさまざまな国で起こったことはすべて、エジプトの神殿に記録されているが、ギリシャ人はまったく知らないと語った。その一つが、9850年前に海に没した偉大なアトランティス文明であった。又、ソロンは旅の途中、リディア国のクロイソス王を訪ねた。クロイソスの統治するリディアは、当時非常に栄えており、クロイソスは巨万の富を保有していた。王は絢欄たる王宮の莫大な富をソロンに自慢した。そして、王は質問した「ソロンよ。あなたは、有名な賢人であり、世界を旅して見識も豊かと聞いている。そこで聞きたい。今までに会ったなかで、一番、幸福な人はだれか?」。するとソロンは、アテナイの一人の市民テロスの名前をあげた。その市民は決して特別な人間ではなかった。実直そのものの人柄で、善良な子どもに恵まれた。生きるに困らない程度の財産があり、名もない、地位もない市民であった。だが、この市民には勇気があった。愛するアテナイを守るために敢然と戦い、そして死んでいった。その生涯には人々から深い感謝が捧げられていた。賢人ソロンは、この「勇敢な市民」こそ「第一の幸福者である」と王に告げた。王は不服であった「では第二の幸福者はだれか?」とさらに尋ねた。王は、次こそ自分の名があげられると期待した。しかし、ソロンが名前をあげたのは、仲が良く、親孝行なアルゴスのクレオビスとビトンの兄弟であった。この兄弟は、母親を優しくいたわり、最高に喜ばせた。そして人々の祝福に包まれ、穏(おだ)やかに死んでいった市民であった。ソロンは、この兄弟を「第二の幸福者である」と判定した。王は怒った「どうして私ではないのか。権力者の自分をさしおいて、ごく平凡な市民が幸福とは有り得ない」と。ソロンは静かに語った「あなたが巨万の富を持ち、国を治める国王であることはよく知っています。しかし、人の幸・不幸は、時とともに変化していくため、将来どのような運命が待ち受けているかは、わかりません。幸福の絶頂から、奈落の底に落ちることもあります。現在どんなに幸福でも、死に際(ぎわ)に恵まれなければ幸福とは言えません」。賢人ソロンと王との対話は、これで終わったが、王は納得せず、不機嫌なままであった。
(参考)
@アトランティス文明・・・かつて、ヘラクレスの柱(現在のジブラルタル海峡)の外海にアトランティスという大きな島があった。その広さは、小アジアとリビアを合わせたほど広かったという。この島では、海神ポセイドンが、原住民の娘クレイトに産ませたアトラスが初代国王となり、アトランティスという国名が生まれた。島は代々10人の王によって、分割統治されていた。豊穣な野には作物が実り、象やラクダなどの野生動物がすごし、運河が縦横に走り、鉱泉と温泉が湧き、道路は舗装され、港には貿易船が溢れ、純然たる都市文明を強力な軍隊が守っていた。しかし、この理想的な国家アトランティスも、文明が爛熟してくると、倫理(モラル)が地に落ちた。アトランティスの市民たちは、物欲に走り、不道徳な行為をするようになってしまった。それを見た大神ゼウスは彼らに罰を与えようと決意し、業火と洪水と津波を起こして、アトランティスを一夜と一日にして海底に沈めてしまった。(エジプトの神官から伝え聞いた話だと書かれてはいるものの、アトランティスにまつわる話はギリシャの神話の色彩が濃い)。アトランティスはプラトンの著作「ティマイオス」の中で語られる伝説の国。(小話801)「失われた謎の大陸アトランティス。その高度な文明と偉大な王国」・・・を参照。
Aリディア王クロイソス・・・(小話602)「リディア王クロイソスと賢者ソロン」の話・・・を参照。
        (五)
こうしてソロンは、メソポタミアおよびエジプトなどのオリエント各地を見聞して知識を深め、帰国してアテナイの市民に広めた。しかし、紀元前561年頃(79歳頃)、ソロンの親族で友人でもあり、政敵でもあったペイシストラトスが、財産政治の下で参政権を与えられなかった貧困層の絶大な支持を受けて、強引に僭主の座に就いて独裁的な僭主政治を始めた。この時、ソロンは民会に乗り込んでいってペイシストラトスが政治権力を掌握しようとするのを阻(はば)もうとした。「アテナイ人諸君、私はあなた方の中の、ある人たちよりは賢いし、ある人たちよりも勇気がある。つまり、ペイシストラトスの詭計を見破れないでいる人たちよりは賢いし、またそれを知りながらも、恐怖心のために沈黙している人たちよりは勇気があるのだ」。しかし、この時には、既に民会の権力機構の殆(ほとん)どがペイシストラトスの独裁に肯定的になっていたので、ソロンは本当に狂人扱いされてその意見は完全に黙殺されてしまった。ソロンは自分の説得では民衆を動かすことができず、民衆が喜んでペイシストラトスの独裁に服するのを見て落胆した。友人たちは、亡命を勧めたが、ソロンはアテナイにとどまった。人々は、ソロンは僭主ペイシストラトスに殺されるだろうと噂した。しかし、ペイシストラトスはソロンに敬意を表して丁重に扱った。ソロンは80歳(推定)でキュプロス島で死んだ。死に臨(のぞ)んで彼は、自分の骨を故郷サラミスへ運び、そこで灰にしたのちに、大地の上へ撒(ま)くようにと頼んだという。
(参考)
@ペイシストラトス・・・古代ギリシア、アテナイ(アテネ)の僭主(せんしゅ)。軍人・政治家で、政治家ソロンの親族だった。二度追放されたが、復帰して政権を回復。小農民の保護、農業の奨励、商工業の発展に努め、都市国家アテナイ繁栄の基礎を築いた。ソロンとペイシストラトスの往復書簡によると、お互いにそれほど嫌悪したり憎みあったりしている様子はなく、傑出した政治家としての能力を持っていた血縁でもある二人は、感情的衝突ではなく政治的信条の違いからアテナイで毅然と袂を分かったのであった。
Aアテナイ人諸君・・・以下はソロンの言葉。(1)「無知は重荷である」。(2)「人に服従してみることによって、いかにして、人を支配するかを、学びとらなければならない(支配する前にまず服従することを学べ)」。(3)「誓いの言葉よりも人柄の立派さの方を信頼せよ」。(4)「友を得ようと早まることなかれ。しかし、いったん得た友を見限るに早まることなかれ(友は急いでつくるな)」。(5)「大事業においては、すべての人の気に入ることは難しい」。(6)「忠告する場合には,最も快いことではなく,最も善いことを忠告せよ」。(7)「理性を道案内人とせよ」。(8)「中傷においては、中傷された者が傷つくのはもちろんであるが、中傷した人自身もまた傷つくのだ」。又、ソロンは息子に先立たれて嘆いている時、友人に「涙を流したって何もなりませんよ」と言われて「何にもならないからこそ、私は涙を流しているのだ」と答えた。
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「クロイソス王とソロン」(Hendrick Van Steenwyck)の絵はこちらへ
「ソロンとクロイソス王」(ゲリット・バンホントホルスト)の絵はこちらへ


(小話795)「神の血をひく豪胆な若者イダスと美しい娘マルペッサ」の話・・・
          (一)
ギリシャ神話より。軍神アレスの息子エウエノスに、マルペッサという美しい娘がいた。アレス神の子らには凶暴なのが多いけど、このエウエノスも、自分との戦車競技に勝てば娘をやるが、負ければ首を切る、というわけで、娘マルペッサの求婚者たちを片っ端から殺していた。この美しいマルペッサには、早くから太陽神アポロンが見初(みそ)めて、しばしば言い寄っていたが、アポロン神が手に入れないうちに、同じく彼女に恋い焦がれていた、海神ポセイドンの血を引く豪胆なイダスが、彼女を戦車に乗せて連れ去ってしまった。イダスは、父の海王ポセイドンから、翼のついた空飛ぶ戦車を借り受け、マルペッサを略奪したのであった。激怒した父親のエウエノスは戦車を駆(か)ってイダスを追跡したが、やはり神の戦車には及ばなかった。途中リュコルマス川で力尽きて、エウエノスは追跡を断念し、馬を殺して自分も川に身を投げた。それからその川はエウエノス川と言われるようになった。
(参考)
@軍神アレス・・・オリュンポス12神の一人。大神ゼウスとヘラの息子。殺戮と血の神。(小話67-538)「軍神・アレスと三人の神(美の女神アフロディーテと不和の女神エリスと冥王ハデス)」の話・・・を参照。
A太陽神アポロン・・・大神ゼウスとレトの子で、デロス島に生まれた。神々の中で最も美しい神で、芸術の守護神とされ、ミューズの女神たちが彼に従っている。光の神であり、真理の神、ときには太陽の神とも見られている。(小話349)「太陽神・アポロンの誕生」の話・・・を参照。
     Bイダス・・・メッセネの王アパレウスとアレネの息子で、 リュンケウスとは双子の兄弟。しかし彼はポセイドンの子という説もある。
          (二)
一方、アポロン神のほうも指を加えて黙っているはずがなかった。アポロン神は、イダスとマルペッサが幸せに暮らしていたメッセネに赴(おもむ)いて、マルペッサを連れ去ろうとした。そこで、イダスとアポロン神との激しいマルペッサ争奪戦が始まった。イダスは海王ポセイドンの子であったので、アポロン神と対等にわたりあい決着が着かなかった。そこで、大神ゼウスが仲裁に入った。大神ゼウスは、マルペッサ自身に相手を選び取らせることにした。彼女は思案の末にイダスを選んだ。マルペッサは言った「不死の神よりも、自分と共に年老(としお)いる人間のほうがよい」と。さらにマルペッサは言った「他日、アポロンさまは、老いた自分を捨て、別の若い女へと心移りするだろう」と。イダスとマルペッサの間には、英雄メレアグロスの妻となるクレオパトラ(エジプトの絶世の美女とは違う)が生まれた。やがて、イダスは兄弟の千里眼を持つリュンケウスと共にカリュドンの猪退治やアルゴー船遠征(アルゴナウタイ)に参加した。ある時、イダスとリュンケウスの双子の兄弟は、従兄弟の双子の兄弟、馬術と戦術の名人カストルと剣術と拳闘の名手で不死身のポリュデウケスたちと一緒にアルカディアからたくさんの牛を略奪してきた。しかし、その分配のやり方で争いが起こり、四人は入り乱れて戦うことになった。そして、リュンケウスはカストルに殺され、カストルはイダスに殺され、イダスはポリュデウケスに殺された。イダスの死後、マルペッサもその後を追った。
(参考)
@イダスはポリュデウケスに殺された・・・一人生き残ったポリュデウケスは、兄カストルの死骸を抱いて、大神ゼウスに訴えた「兄カストルとは、いつも二人で仲良く戦場におもむきました。生まれた時も一緒なのですから、死ぬ時も一緒にしてもらいたかった。しかし、私は不死身の体で死ぬことが出来ません。何とかして私の不死身の体を解いて貰えないでしょうか」ポリュデウケスの願いは叶えられ、二人は仲良く天に上げられ星座(双子座)になった。(小話604)「白鳥に変身した大神ゼウスとスパルタの美しい王妃レダ。そして、その子供で双子の兄弟(カストルとポリュデウケス)と絶世の美女ヘレネ」の話・・・を参照。


(小話794)「干宝(かんぽう)の父」 の話・・・
        (一)
東晋(とうしん)の干宝(かんぽう)は字(あざな)を令升(れいしょう)といい、その祖先は新蔡(しんさい)の人である。かれの父の瑩(けい)という人に一人の愛妾があったが、母は非常に嫉妬ぶかい婦人で、父が死んで埋葬する時に、ひそかにその妾をも墓のなかへ押し落して、生きながらに埋めてしまった。当時、干宝(かんぽう)もその兄もみな幼年であったので、そんな秘密をいっさい知らなかったのである。
        (二)
それから十年の後に、母も死んだ。その死体を合葬するために父の墓をひらくと、かの妾(めかけ)が父の棺の上に俯伏(ふふく)しているのを発見した。衣服も生きている時の姿と変らず、身内もすこしく温かで、息も微(かす)かにかよっているらしい。驚き怪しんで輿(こし)にかき乗せ、自宅へ連れ戻って介抱すると、五、六日の後にまったく蘇生した。妾の話によると、その十年のあいだ、死んだ父が常に飲み食いの物を運んでくれた。そうして、生きている時と同じように、彼女と一緒に寝起きをしていたのみか、自宅に吉凶のことある毎(ごと)に、一々(いちいち)彼女に話して聞かせたというのである。あまりに不思議なことであるので、干宝兄弟は試みに彼女に問いただしてみると、果たして彼女は父が死後の出来事をみなよく知っていて、その言うところがすべて事実と符合するのであった。彼女はその後幾年を無事に送って、今度はほんとうに死んだ。
(参考)
@干宝(かんぽう)・・・干宝(かんぽう)は「捜神記」の著者で、彼が天地のあいだに幽怪神秘のことあるを信じて、その述作に志すようになったのは、少年時代におけるこの実験に因(よ)ったのであると伝えられている。
A岡本綺堂の「捜神記」より。


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