季節の便り  岐阜の和傘

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仕上げの油を引き天日干しする



                                       
  岐阜の和傘について、岐阜市和傘振興会の藤沢健一会長のお話を聞く機会がありました。
岐阜の生産高は昭和24年 1200万本をピークに、平成15年には3万本にまで減少しています。
久留米、高松、鳥取、金沢、花巻など有名な産地もほとんど壊滅状態で、和傘屋は1軒、1人状態です。
伝統文化の保護政策で保存会が出来たりして細々と伝統の灯を繋いでいます。
  その中で岐阜加納地区では、6軒の傘屋さんが自治体の支援も受けず頑張っています。
傘作りは分業で行われてきましたので、現存産地の多くは部品供給などで岐阜からの支援が無ければ継
続できないところまできています。
一方和傘の需要は、観光地のお土産品から、舞踊、野点、お芝居、花街、お祭りなどに量は少なくても無
くてはならない小道具なのです。
  
  
      鹿児島三大祭「曽我どんの傘焼き
      パルランド病院HPから借用     http://www.pearlland.or.jp/hiroba058.htm
  鹿児島観光局 HP  http://knkn.cocolog-nifty.com/erk/2004/07/20040724.html
 
 6月 鹿児島のお祭り『曽我どんの傘焼き』では、古い傘を集めて焼きます。この傘が集まらずお祭りの
継続に難渋しています。
 岐阜からは4〜500本集めて送っています。長良川宝暦治水の縁で姉妹都市になっているので支援して
いるのだそうです。
札幌のよさこい祭り、歌舞伎、日本舞踊など岐阜の傘屋さんが支えているのです。
  
      
       野点                         歌川芳虎                   細田常之
 
歴史
 安時代には傘はあったようですが、折りたたみはできず、儀式や高貴な方へ差し掛ける傘でした。
江戸時代になって折りたたみできる傘が出現し、「からくり傘」が縮められた「から傘」が現れました。
から傘は唐傘ではないのです。
 
 江戸時代岐阜城は廃城となり、岐阜駅南の加納城に徳川家康の長女亀姫が嫁した奥平信昌が
10万石で入りました。
 その後、大久保氏7万石、戸田氏(松平)7万石、安藤氏6.5万石、永井氏3.2万石と変わりました。
1639年 播磨明石から戸田重光が岐阜へ封じられたとき、傘屋金右衛門を伴ったのが岐阜の傘作り
の始まりでした。
 武蔵岩槻から永井氏は3.2万石で入りました。石高はさらに減少して藩財政は苦しくなり武士も内職
せざるを得ませんでした。幸い傘作りは分業でしたので、真竹から傘骨を削り出すような仕事は目立
たずに出来ましたから、下級武士の仕事になり、武士と町人の合作で傘産業は発展しました。
映画に出てくる傘張り浪人の実態は、目立つ紙貼りではなく竹骨削りだったようです。
 
傘作り工程
 @   竹骨削り     真竹を割って細骨を作る            骨師
     骨染め      竹骨を染める
     ためかけ      竹骨を火であぶりクセをとる   
 A   ろくろ      ちしゃ(えご)の木でろくろを作る     轆轤師
  B  繰込み    細竹に止具をつけ轆轤をいれる       繰込屋
  C  繋ぎ     繰込みに竹骨を糸で繋ぐ          繋ぎ屋
  D  紙張り    繋ぎ(骨組)に和紙を貼る         張師
  E  仕上げ    紙に油をひき天日で乾燥後、        仕上屋
          傘を閉じた表面に塗料を塗る
  F  飾り糸付け  傘の内部の骨を色糸で飾る         飾り屋

 

 
  
和傘は美しい
   
         
  番傘  作者が自分の名前を判で押したからとも、旅籠が貸し傘に番号を付けたからとも言うが定説は無い。
 
   
           舞 踊 傘 
  
                  廻 す と 面 白 い

加納宿
  
  
    長良川の鵜飼           歌川広重          中仙道加納宿
 
     
   江戸時代 岐阜の賑わいは       岐阜城を壊した材料も加納城建設に使われた
  加納宿であった               明治の廃城で加納城も石垣だけになった