潔し”山男有情”

                                          山口 博子      

 1981年6月4日の毎日新聞の見出しです。
同志社大ワンゲル「貴重な自然守る」、湿原「八丁平」の小屋、自主撤去と大きく取り上げられました。
 
 私が所属していたDWVC(同志社大学ワンダーフォーゲルクラブ)は貴重な高層湿原、”関西の尾瀬”と呼ばれている京都北山・八丁平に山小屋「新心荘」を有していました。私が同大在学中の1978年、京都市は八丁平を通る林道建設を計画しました。DWVCはこれに対し「八丁平の自然を破壊するもの」として反対し、その林道反対運動のなかで、京都市に環境アセスメントの実施を求めました。

京都市が委託した八丁平環境調査団(団長・四手井綱英京大名誉教授)は1979年5月から半年間の調査の結果、
林道は工法、道幅など最も影響が少ないように」と勧告しながらも林道建設にはゴーサインを出し、その一方で「新心荘の存在自体が八丁平の環境に悪影響を及ぼす」として小屋を湿原区域外に移すことを提唱しました。この時のゴーサインがその後林道建設の中止が検討された際、足かせになってしまうという皮肉なことになるのですが、八丁平を守る会、京都府勤労者山岳連盟、地学団体研究会京都支部、各団体の方々の地道な反対運動の結果、1992年八丁平への林道敷設は中止されることになるのです。

 しかし、この調査団報告を受けた時は本当に驚きました。夏期八丁と呼んでいた合宿ではルート整備を行い、湿原内に立ち入っている人に注意を促したり、小屋周辺でサイトしている人に合成洗剤の使用をやめてもらうなど、八丁平の保全には一役かっていると自負していたのに、まさか、という気持ちでした。とはいってもトイレは多くの登山者に利用され、ひどい状態でしたので、し尿を八丁平の集水域外に運び出し、埋めることにしました。大きなポリバケツにひしゃくで汲み出し、当時の山小屋委員長の杉山君がカッパを着て背負ってくれました。私は杉山君の背中でチャプチャプ揺れ、時々跳ねて飛び出す汚物の入ったポリバケツをみつめて歩きながら、人が自然に接することのむずかしさをつくづく思いました。何度か運んでも長年溜まったし尿は目に見えては減っていかず、虚しい思いが残りました。

 その後、OBの方にも加わってもらい、何度も話し合い、大学当局と検討した結果、「思い出深い小屋を解体、移転するのは忍びないが、それで八丁平の自然生態が守れるのなら」と新心荘の撤去、移転に踏み切りました。その時、新心荘は建設から15年しか経っていなかったのですが、建設当時の部長、多田雅彦さんは「環境破壊を防ぐため、思い切って小屋の撤去に踏み切った後輩らに拍手を送りたい」と話してくださいました。でも、汗の結晶である新心荘が壊されるということに対して、先輩方はどんなに残念に思われていたか、その当時の私はこれからのことで頭がいっぱいで、先輩方の無念さに思いを寄せることができていなかったように思います。

 昨年秋、移築20周年を迎えた新心荘に娘を連れて訪れた私は、「この道を何度も往復してね、ブロックや砂を運んだんよ、まだ雪が残っててね、誰かがずるっと落ちた跡がいっぱいあってね」などと話しながら、前新心荘の建設に関わられた先輩方は苦しくとも懐かしい小屋造りの思い出をゆっくり語るということもできないうちにわずか15年で撤去、移転になってしまったということを思い起こすと本当に申し訳ないことだったと思いました。

 前新心荘の建設に関わられた先輩方、前新心荘を守って、八丁平の保全に努められた先輩方、新心荘の撤去、移転に関わった同輩・後輩たち、新新心荘を守ってくれた後輩たち、廃部の危機に直面しながらもなんとか存続させてくれた後輩たち、DWVC48年の歴史のなかで様々な方が様々な形で関わってきたその結果、今の新心荘があり、DWVCがあると思います。

 DWVCで過ごした4年間は、今の私のライフスタイルの原点になっています。DWVC関係者のみなさんに心から感謝しています。

                                              2002年