縁起 
   天平10年(738)、行基菩薩が西の赤坂の浜から、東の各務野まで七里(28キロ)の中央にあった孤島、乙津島に着船され、仏法縁由の地と定められました。行基菩薩は自ら十一面千手観音像を彫られ、草庵一宇を建てられ安置されたのがこの寺の始まりと伝えられています。
 
 弘仁4年(813)、創建開山である弘法大師は、嵯峨天皇の勅命を受けて
仏法を広めるため乙津島に着船されました。深穏(しんおん)な草庵の中には、行基菩薩が彫られた十一面千手観音像を拝むことができ、そばにいる白髪の翁(おきな)が、
「私はここの年老いた
船頭(現在、船歩大明神。乙津寺の鎮守)です。先に行基菩薩がこの島に来られ自ら十一面千手観音像を彫刻され、暫く草庵を結ばれましたが、縁が満ちてきたので速やかに伽藍を営みましょう」と告げられました。
 大師は秘法を尽し、ひたすら願うこと37日間、法鏡を龍神に向けられますと、たちまち蒼海が桑田になりました。大勢の人が集り、とても感動しました。この縁によってこの地を鏡島と言い、乙津寺の名称は鎮守乙神(乙津島にいた神の名)に由来しています。

 弘仁5年(814)の春
嵯峨天皇の勅命により、七堂伽藍、塔頭五ヶ寺、鎮守などがわずか三年で造営されました。大師は感嘆されまして、
「神託どおりに、ついに宿願は達成されました。私はもう長くは、留錫(滞在)できないのです」とおっしゃいました。
 旅装支度されますと、たちまち僧や皆が集まり別れを悲しみました。大師が言われるには、
「出逢った者は必ず別れなければならないが、別れを悲しまないでいつか又出逢えると思えば、お互いに楽しいではないか。みな励み勉めましょう。私はしばらくここに留まり、あなた達を導きましょう」と。
 大師は自ら弘法大師像を彫られました。そして、皆で開山堂を建て、大師の御影(像)を安置したのであります。
大師は御堂の前に‘梅の杖’を植えて誓って言われました、「仏法この地に栄えれば、この杖に枝葉が栄えるだろう」と。
 不思議なことにこの‘梅の杖’は、たちまち枝が出て葉がなったので、世間に梅寺と知られるようになったのであります。
 
弘法大師の自詠の歌
さしおきし 杖も逆枝て 梅の寺 法もひろまれ 鶯のこえ 

当寺に弘法大師42才自作の像あり。日本三躰除厄弘法の一に数えられ参拝者常に多し。
梅寺の‘肖像大師正作’とあり。大師挿木の梅樹あるを以って、俗に梅寺といわれる。

『濃飛両国通史「岐阜県教育会、編。原刊大正12年(1923)1月25日、上巻P767」』


   寛平5年(894)、宇多天皇(第59代天皇)より『霊梅場』の額を賜わり、これを楼門に掲示しました。これ故に当時は国家鎮護のため天皇の祈願古道場といたしまして、元暦年中(1184~1185)の頃まで当寺はこのあたり一郷を寺領としました。永正年間(1504~1521)に兵火によって天皇直筆の『霊梅場』額が焼失してしまいましたが、『下乗の石碑』と宇多天皇の位牌『寛平法皇御尊碑』は戦災をまぬがれ現在も存在しています。

 
西行法師(1118~1190、院政期から鎌倉時代初期にかけての僧侶・歌が、諸国を漫遊している途中に、この寺に寄られ、「梅の一枝を下さい」と言われましたが、小僧がすげなく断ったので、この一首を詠み去られたといいます。

   梅の花一枝をくれぬ小僧めが 庇一つ鏡島の乙津寺

 
歴応年中(1338~1342)土岐氏弾正少弼(武家)が総領職を拝命し、美濃・尾張・伊勢の三カ国を所領していたが、寺領の鏡島一郷を没収し、改めて二百石を寄付されて、引き続き土岐頼康や土岐成頼や土岐政房など美濃国守護代々の祈願道場として外護されました。

 連歌師の宗祇(1421~1502)が当寺の大師堂へ参籠され次の句を詠まれました。

   加賀しまはこと木も香ふ梅の寺


 現在は宗祗法師の作者名と歌が刻まれた『飯尾宗祗法師歌石碑(鏡島弘法大師除厄尊像)』の石碑が残っています。


 文明5年(1474)、一条関白兼良公(公卿・学者)は、能恩権僧都(弘法大師から6代目)と幼年から文学の友達であり当寺の塔頭寺院である長寧院へ来藍されました。一条関白兼良公は
大師の霊梅の詩について述べられました。

   大師暦試東漸瑞 只有乙津占甲科
   幾度人亡城又換 風流留得一枝花

 

 一条兼良公は『藤川の紀』の冒頭に美濃国にゆかりの者と友人がいるので、その人たちに会うのが美濃旅行の由縁だと記しています。
 
一条兼良公に20人の子があり、そのうち15人は正室東御方が産んだとされています。東御方は、応仁の乱に荒れる京都を避けて美濃へ来られました。
 文明5年(1473)5月に一条兼良公は多くの公家と同じく難を避け地方に逃げようとしました。娘の梅津是心院了高は乙津寺(塔頭長寧院)に身を寄せており、息子の良鎮は美濃国芥見に領地がありました。
 一条兼良公は乙津寺の小庵(長寧院)で、東御方をはじめ一族ゆかりの者が集まってくつろがれ、また美濃国守護代である川手城主斎藤妙椿(かわてじょうしゅさいとうみょうちん)の招待により、英手(川手)の正法寺を訪れています。一条兼良公正室・東御方と娘(梅津是心院了高尼)も同行しています。
 再び鏡島に戻り、一条兼良公は奈良に帰られましたが、東御方は70余歳で没するまで鏡島に留まりました。乙津寺に一条兼良公正室・東御方の宝篋印塔がございます。

 天文9年(1540)夏の大洪水のため、この寺もその難に会い、宝蔵はくずれ古書など数多くが水害で腐ってしまいました。
その後に斎藤山城守道三(美濃国の大名)が乱を起こし寺は大変衰退してしまいました。
 
 天文14年(1549)に鏡島城主、石河駿河守光清(石川氏)が‘伽藍を再興し’京都妙心寺の開山、無相大師から十世にあたる孤岫宗峻禅師(勅諡大円霊光禅師)を招きまして、褝密兼学の道場としました。
   石河駿河守光清は、鏡島城の初代主と考えられ、その後4、5代鏡島城が続きます。安土桃山時代の石河氏一族は、織田信長、豊臣秀吉に仕えたと伝えられていますが、はっきりとした記録は残っておりません。城の規模等ははっきりとはわかっていないものの、長瀬に鏡島城跡があり、城を守る神社として伝えられている倉稲魂(うかのみたま)稲荷神社が乙津寺の南にございます。その後、関ヶ原合戦で西軍に属して所領を失ったと伝えられています。
 門前の近くに石河駿河守光清の墓(五輪塔)がございます。この五輪塔の両脇にある墓石には天文23年(1554)の年号が刻まれています。
 永禄年間(1558~1570)織田信長は稲葉城を所領し、この寺の霊梅を稲葉山に移しましたが、法難を蒙ったので元に戻されました。枯れた梅の樹で武運長久のために、毘沙門天王像を彫刻されまして、この寺に納められました。
 元亀(1570~1573)と天正(1573~1592)の間に莫大の勲功があったのは毘沙門天王の霊験であると歓喜されて、天正時代、大阪に
梵刹(ぼんせつ)を建てられ武神の多聞天王(毘沙門天)を移し、胎内仏として大師の像を安置され、梅大師と名付けられたと伝えられています。当寺の住職、蘭叔(孤岫宗峻から2代目)に梵刹を兼帯するように命じました。元和元年(1615)大阪城の落城の時、火事によって堂宇が焼失しましたが梅大師御胎佛勝敵多聞天王は護持し、再びこの寺へ納められたと伝えられています。

 
蘭叔はのちに京都の妙心寺の53世となります。天正6年(1578)7月には一派の元老として、他の35人の宗匠と共に妙心寺法度制定のことにも与かり、天正8年(1580)には朝廷から紫衣をいただています。天正14年(1586)9月に後の陽成天皇から清浄本然禅師の勅諡号を賜っています。
 蘭叔は『酒茶論』の著者であり、『蘭叔録』という語録があります。『酒茶論』は2000字ばかりの漢文であり、その内容は酒と茶の優劣を論じ合うが、酒も茶もその徳を言い出せば永久に極めることはできなく優劣はないと収められています。それは中国をはじめインドにおける禅門の語句を類にあげ、軽妙に禅味を漂わせています。
 『蘭叔録』によりその思想的背景をみることができます。蘭叔の生きた時代は織田信長の時代であり、五山文学の復興の兆しがありまして、『蘭叔録』に多くの偈頌が記録されていることから、当時、乙津寺を中心とした詩文の研究の交流場であったと考えられます。
 『酒茶論』と『蘭叔録』の原本は乙津寺に昭和20年(1945)大東亜戦争まで残っていましたが、今は戦災と共に失われています。東大史料編纂所の史料目録⑪『酒茶論(蘭室自筆。天正四年暮春日)』と⑮『蘭叔録』にその内容が残されています。


 豊臣秀吉の天下統一後、太閤検地によって当寺の寺領について、以下の記録が残っています。

 
 『豊臣秀吉朱印』文禄2年(1593)10月3日朱印。当村之内50石寄附。
  東大史料編纂所の史料目録⑯乙津寺文書

  『筑前守秀吉公證状』
6月2日筑前守朱印。豊臣秀吉制札壱通。
乙津寺の寺領は前々と相違ないことを認める。また、寺内に陣地を構えることも禁止する。つけたしとして、境内の竹木を切り取ることは、堅くさし止めさせる。もし違反する仲間がいればすぐさまきびしい罰を与える。
この旨を
秀吉は「羽柴秀吉朱印状」とともに乙津寺へ出した、いわゆる、安全確保の保証書であり、この朱印状は、年未詳であるが秀吉と家康が対立した、小牧・長久手の戦い(天正12(1584))の頃と想定されています。
 東大史料編纂所の史料目録⑯乙津寺文書
 天正18年(1590)織田信長が所領安堵の證状を興し、大谷吉継刑部小補が検地(田畑の面積と収量の調査)をされまして寺領は54石6斗6升9合と下ります。
 美濃國史料刊行會(昭和12年1月30日発行)に記載[4]天正18年11月3日美濃國加賀島梅之寺領帳 

 
慶長5年(1601)8月23日、河渡川(長良川)の戦いは鏡島が戦場でありました。
 東照神君(徳川家康、東軍)
が開ケ原へ赴く日に東軍先鋒が竹ヶ鼻城(羽島市竹鼻町)の杉浦五良左衛門の一族を追討しました。
 竹ヶ鼻城の攻撃を知った西軍大垣城の石田三成は、大垣進攻を阻止するため沢渡村(大垣市三城)まで出陣しました。岐阜からの西軍は、舞兵庫、森九兵衛、杉江勘兵衛等であり、河渡川石岸に陣をかまえました。
 木曽川の下流の加賀野井を越えた黒田長政(大名)、田中吉政、藤堂高虎等は岐阜城攻撃よりも西軍の来援を阻止するため、河渡川に向かいました。
 暫く喉の渇きを癒すためにこの寺へ休憩に立ち寄られた諸将(黒田長政、田中吉政、藤堂高虎等)は、住職の久室和尚(孤岫宗峻から4代目)に対し、この寺について尋ねられ、「勝軍地蔵尊像を拝むとよいだろう」との言葉を受け、合掌し東軍の開運祈願をされました。
 諸将は西軍を阻止するため河渡川ヘ馳せ向い、濃霧のため、気づかれることなく西軍の陣地を銃撃急襲しました。西軍の森九兵衛(もりくへい)朝食中でしたが、急を後陣に知らせて応戦しました。
 初めに田中吉政、つづいて黒田長政が今の河渡橋付近を渡河したといいます。そして西端に迂回して舞兵庫(まいひょうご)の陣を突きました。西軍の進軍を止め陣営し、気を引締めて兵士を引き従え、難なく大河を勢いよく渡り、河渡川の砦(とりで)を攻め、舞兵庫の軍勢もよく防戦に務めましたが、やがて退却いたしました。また杉江勘兵衛(すぎえかんべい)は勇敢に戦いましたが田中吉政に討ち取られました。
   さらに西軍を呂久川左岸まで追撃し、藤堂高虎は赤坂まで軍勢を進めました。やがて西軍は大垣に退いたので、翌日に東軍は赤坂の高地に集結し、たちまちに関ヶ原へ馳せ参じました。
 
諸将は莫大の勲功を上げることができましたのは、梅寺の勝軍地蔵尊の霊験であると、凱陣(がいじん)して帰る日に、徳川家康に申し上げまして、再び寺へ参詣されました。
 河渡川の戦いは赤坂を押さえるという戦果でありました。戦後、黒田長政(18万石から52万石)、田中吉政(10万石から32万石)、藤堂高虎(8万石から20万石)は3倍増の恩賞を受けられました。
 
その後、黒田長政はしばしば参詣に訪れられ、また藤堂高虎は「野刀一振」を奉納されました。勝軍地蔵尊は河渡川瀬踏勝軍地蔵尊と称し、中山道絵図には「瀬踏勝軍地蔵」と記されています。仏像は戦災を受けまして、現在は開運地蔵尊画像がございます
 『濃飛両国通史』「岐阜県教育会、編。原刊大正13年(1924)」と縁起

  『大久保石見守證状』慶長15(1610)年8月6日。徳川家康の家臣、大久保長安(1545~1613)が検地をして寺領は55石5斗と下ります。
 東大史料編纂所の史料目録⑯乙津寺文書
 明治6年(1873)、甘棠義校(かんとうぎこう)が乙津寺境内に開校し、のち明治31年(1898)、鏡島小学校となります。 

  
明治24年(1891)10月28日、岐阜、愛知県に大被害をもたらした濃尾大地震は、マグニチュード8.0であり、激震地域は濃尾平野一帯から福井県に及び、死者7千2百人余、負傷者1万7千人余、全壊家屋18万戸余りでありました。
 乙津寺も大被害を受け、ほとんど壊滅に近い状態でありました。 
 
 大正3年(1914)8月25日に十一面千手観音と毘沙門天が国宝に指定されます。
 大正14年(1925)4月14日に
十一面千手観音像、毘沙門天像に続き、韋駄天像が国宝に指定されます。
 昭和20年(1945)7月9日の夜、大東亜戦争(第二次世界大戦、岐阜空襲)で岐阜市はアメリカ空軍のB-29による編隊爆撃を受けました。
 乙津寺は焼夷弾を浴びていっせいに火の海になりました。乙津寺には高射砲隊から軍曹と二等兵が派遣されて、また十方信徒諸氏がいました。大東亜戦争で空襲が激しくなりましたので本尊十一面千手観音像、毘沙門天像、韋駄天像は本堂から庫裏の裏にある土蔵に移動しました。
高射砲隊達や十方信徒諸氏の協力を得て庫裏の裏にある土蔵から3躰と、大師堂からは弘法大師の像を担ぎ出しました。
 すると「空より光に照らされて、その光りが堤防まで誘導してくれた。弘法様の不思議な神通力で安全に避難することができた」と、語り継がれています。 
 4躰の焼失はまぬがれましたが、本堂、大師堂、庫裏、宝蔵、鐘門、山門、勅使門、古文書、史料などは全て焼失してしまいました。
 終戦直後の7年間は仮大師堂の状態が続きました。旅館の建物を移動させ庫裏としました。

 昭和27年(1952)10月、日本で初めて国の援助金が出て、国宝安置殿が建てられます。国宝安置殿は鉄筋コンクリート製で藤原様式耐震耐火防災造りとなっております。国宝安置殿の援助金に第70代文部大臣 下条康麿(しもじょうやすまろ、在任期間:1948~1949)と関わりがあり、下条康麿文部大臣の額「施無畏」が宝殿に掲示しています。
 昭和28(1953)7月10日に完成、同年10月18日落慶入仏供養を行いました。

 大師堂は昭和30年(1955)に起工、昭和33年(1958)秋に完成しました。大本山妙心寺派管長古川大航貌下親修により10月18日に落慶入仏法要を行いました。
   大師堂が再建された当時、堂本印象画伯(帝室技芸員)が、乙津寺へ来寺され、大師堂の天井に墨絵で龍を描かれ(天井墨絵雲龍」)、これを寄進されています。

 堂本印象画伯は昭和43年(1968)にも「超ゆる空、暗香(裏面)」、「妍春(けんしゅん)」、「光る庭」(非公開)などの襖絵17面を再建書院に寄進されました。この襖絵はピカソの影響を受けたと言われている作品であります。堂本印象画伯が画人としての純粋な意識、つまり無の境地で描かれたものであります。日本美術の伝統の未来をきり開く世界美術、新時代の新芸術。新しい空間性の創造、世界中どこにもない新領域。東洋美術の真髄から芸術の本質を問い、その究極点からの創造者、芸術境、その心境から生まれた内容の作品であります。
 さらに昭和47年(1972)には「不動尊軸」を寄進して頂いております。



 
そして今日まで皆様のご協力により、法灯が受け継がれております。

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