放課後

 

「先生は、どうして数学を専攻されたのですか?」
「・・・・・・」
いつものように単調な1日を終えた放課後、職員室で明日の授業の準備をしている私のところへ有沢が質問に来た。
彼女の質問は、先日出した課題に対してのもので、彼女はほとんど解答を終えていた。私は、最後の一押しをしてさえすれば良かった。
「お先に失礼します」
隣にいた同僚が、席を立って職員室を出て行った。いつの間にか、窓の外は薄暗くなっていた。日中は暖かそうな日差しを教室の中からでも感じたが、今はきっと肌寒いであろう。冬はもうすぐだ。
「…なぜ、そのようなことを聞く?」
 質問を終えると彼女は、いつも「失礼します」という挨拶を残し去っていく。その後、・・・彼女が私のプライベートな部分について質問するなんて、今までにないことだった。
 「いえ、自分の将来を決めるのに、先生の経験など聞けたら参考になると思いますし・・・。氷室先生なら、他の分野にも精通していらっしゃいますから、敢えて数学を選んだその魅力について、お伺いしてみたかったんです」
 彼女の答えは、私の個人的内容を質問するのに、充分なもののように感じた。
「数学は常に解答が一つだからだ。公式に当てはめ、理路整然と問題を解決することが私には一番好ましいからだ。また、数学こそが自然科学の根本であることから、何を理解するにおいても数学を理解せねばどうしようもないと考えるからだ」
「・・・・・・なるほど、何を学ぶに置いても数学有木、というわけですね」
「そうだ」
さすが彼女は理解が早い。
「先生!」
突然、遠くから彼女の声が聞こえた。私の意識がすべてその声の主に集中したような気がした。
近頃、私が解けない唯一の問題。なぜ、こんなにも心乱されるのか。
「なんだ、どうした?質問か?」
「あ、志穂さん・・・」
彼女は先に来ていた有沢の姿を認め、ちょっと躊躇ったようだった。
「いいわよ、私の質問はもう終わったところだから。氷室先生、ありがとうございました」
「数学に限らず質問があればいつでも来なさい。私には答える用意がある」
「失礼します」
有沢は、一礼して踵を返した。彼女はいつも礼儀正しい。
「じゃあね、成田さん」
「うん、またね、志穂さん」
小さく有沢に手を振りながら、彼女はとことこと私の元に駆け寄ってきた。
にぎやかな時間が、訪れた気がした。
「先生には、数学もいいけれど、音楽も教えてもらいたかったです」
 突然の彼女の言葉に、私は少々面食らった。先ほどの有沢との会話を彼女は聞いていたようだ。そこまでは理解できたが、私に音楽を教えて欲しかったとは・・・一体。
「・・・音楽は、単なる趣味だ。教えられないわけではないが、数学が私の性分に合っている」
「そうですか?音楽って、心の教養だと思うんですよね。先生の演奏みたいに心に優しく伝わる音楽を、先生なら教えてくれると思います。先生の心の豊かさから、私たちはきっともっと多くのものを学べると思うんですけど」
 「・・・心の、教養?」
 聞きなれない言葉に、私はますます面食らった。確認するように、繰り返した。
「単なる思い付きの言葉なんですけど」
ぺろりと舌を出して恥じる彼女をとても好ましく思った。
 「なかなか良い言葉だ。覚えておこう」
 人間は、知性だけで片付けられないものが数多く存在する。また、芸術を解するにはどうしても知性だけでは語れない。それが心なのだと、私は思う。その心に余裕があったり、豊かであったりすればするほど、人間としてもまた、豊かなものになることは私も良く分かっていた。そして、私の心を揺さぶる存在が今、目の前にいる。
「それで、どうした、成田。何か私に用があったから、ここへ来たのではないか?」
私が心乱れていることを、誰にも知られたくなかった。何事もないように、ただの1生徒として彼女に問い掛けた。
「それが実は特に用なんてないんです。今日の数学の授業で分からないことがあったんですけど、さっき先生が志穂さんに教えているのが廊下の私のところにまで聞こえて、それで私の用も済んでしまいました。特に用なんてなかったんですけど・・・先生と少しお話をしたくて、来てしまいました」
特に用もないが、話したいから私のところに来る・・・彼女はいつもわたしの想像もつかないようなことを言い、実行する。
「結構。君もとうとう有沢のように高度な質問ができるようになったということだな。日ごろの努力が成果となって現れているようだ」
「先生のおかげです」
 にっこり笑って答えた彼女に、私の心がつき動かされた気がした。彼女ともっと話をしたかった。
「大変よろしい。・・・ときに、私はこれから岐路につく。もう遅い、家まで送っていこう」
「・・・いいんですか?」
 彼女は戸惑いながら首を傾げて、立ち上がった私を見上げた。
 「構わない。君の家は私の岐路にある」
「それじゃあ、お言葉に甘えて…お願いします!!教室に鞄を置いてきてしまったので、校門で少し待っててください!!すぐに行きますから!!」
ワントーン跳ね上がった声は、パタパタという足音とともに遠くなっていった。その声が、耳に心地よく入ってくるのを感じながら、私も帰り支度を始めた。