「a worthwhile holiday」
毎朝氷室はテレビのニュースを欠かさず見ている。新聞に目を通しながらではある が、耳から入る情報で大体の内容は理解できる。
だから、夏でもないのにじりじりと陽射しが照りつけることは予測していたのだ。
しかし、気象予報士が伝えた情報を生かそうにも、彼の仕事着がスーツである以上 、打てる対策はしれていた。
暑さにうんざりしながらも、歩みの速度は緩めずに、氷室は商店街の路地を進んでいく。
いつにもまして暑さを感じるのは、人ごみのせいもあった。
今日は5月3日。憲法記念日。
ただの休日ではなく、世間一般で言われるゴールデンウィークにもあたる。
「まったく……もう少し有意義な休日の過ごし方をしたらどうだ」
誰に聞かすでもなく漏れた言葉は、周囲のざわめきにすぐにかき消される。
氷室が腕時計を見ると、針は午後2時10分をさしていた。
朝の10時から始めた校外指導で、すでに8人の生徒に注意を与えている。連休の気の緩みと、新学期が始まって間もない時期でもあり、羽目を外したがる生徒がいつもに比べて多いと氷室は分析していた。気持ちがわからないわけでもないが、やはり学生たるもの、節度を保ち学業に励むことが大切だと彼らに教えねばならない。
氷室は同じように校外指導にあたっている教師と連絡をとるため、表通りを外れ、オフィスビルの一角で立ち止まると携帯をとり出した。
番号を押し、耳元に携帯を近づけながら、氷室は何気なく辺りを見た。
「……あれは」
視線の先にいた人影に一瞬目を疑う。
しかし彼は自分が錯覚などしないと知っていた。だから叫んだ。
「成瀬!」
赤褐色の髪が揺れて、人影が振り返る。
「氷室先生……!」
白いシャツに淡い水色のスカートという清楚ないでたちの少女が、驚いた表情でこちらを見ている。氷室は携帯をしまうと、彼の教え子に向って歩き出した。
成瀬つばさ。彼女ははばたき学園の3年生であると共に、氷室が担任を勤めるクラスの生徒でもあった。
氷室が近づくと今度はばつの悪そうな、頬を赤く染めた表情で、成瀬はおずおずと口を開いた。
「こ、こんにちは、氷室先生」
「こんなところで君は一体何をしている?」
「さ、散歩です」
「君の家からここまでは手軽に歩いてこれる距離ではない。君は午前中からずっと歩きつづけているとでも言うのか」
「い、いえ……」
容赦なく浴びせられる言葉と視線に、成瀬がうつむく。
教室での彼女はいつも多様な表情を見せていたが、このように萎縮している姿は見たことがない。その様子にためらいを覚えながらも、氷室は厳しく問いただすことをやめなかった。
「私の記憶が間違いなければ、君は今日から家族と親戚の家に行くと言っていたのではないか?」
「そうです」
連休前に学園の階段の踊り場で、彼女が言ったセリフを思い出す。
『すいません先生。その日から家族と親戚の家に泊りがけで行くことになっているんです』
『気にすることはない。有意義な休日を過ごせば結構だ』
去年の暮れから始まった「社会見学」という名の、二人きりの課外授業。学習をより有意義にすることを目的とした時間は、氷室にとって、いつしか成瀬と過ごす時間へとその意味を変えていた。
だからあの時初めて誘いを断られて、本当はひどく動揺したのだ。
迷惑に思われているのではないか。
彼女への接触が生徒と教師の関係を逸脱しているのではないか。
それが彼女の重荷になっているのではないか……。
そんな不安は意識の何処かに貼り付いたまま、今も消えていない。
「ならば何故こんなところにいる?」
「あ、あのそれは……」
言いにくそうにさらに小さくなる成瀬の態度が、氷室に一つの答えをはじかせる。
氷室は胸の中がヒンヤリと冷たくなるのを感じながら、成瀬から視線を逸らした。
「私の誘いが迷惑ならはっきりとその旨を伝えればよい。……私に嘘をつくのなら、もう少し上手くやることだ。失敬!」
苛立ちをぶつけるようにそう言うと、氷室は成瀬に背を向け、歩き出した。
捨て台詞を吐いて生徒を放り出すなど、普段の自分では考えられない行動だ。成瀬と接するようになってから言動が混乱することが多くなったことは事実だが、こんなにも胸が苦しくなる思いは経験がなかった。
「え?……あっ」
訳がわからないまま、氷室の背を見ていた成瀬は、はっと気がつくと慌てて氷室のあとを追いかけた。
「先生、待ってください、氷室先生!」
歩いているはずなのに、長身の氷室に追いつくためには、成瀬はかなり走らなくてはならなかった。追いついても歩く速度を緩めない氷室の横で小走りになりながら、必死についていく。
「氷室先生、違うんです、あの……」
「言い訳無用!君は早く帰宅しなさい!」
振り返りもせず声を荒げた氷室に、成瀬の中で何かがプツンと切れた。
「…………ひ、氷室先生の馬鹿っっ!!!」
「何っ!?」
聞き捨てならないセリフに思わず振り向いた氷室の胸に、緑色のトートバックが勢いよくぶつかった。
「君は、教師に向って何を……!」
「私嘘なんかついてません!」
投げつけたバックもそのままに、成瀬はキッと氷室を睨んだ。
「今日家族と出かけることになっていたのは本当です。でも弟がちょっと具合が悪くなって、それで来週に行くことになったんです!」
唖然と見守る氷室から視線を外し、アスファルトをじっと見つめ一度唇をかみ締めたあと、成瀬は言葉を続けた。
「せっかく氷室先生が社会見学に誘ってくれたのに、それを断ってまで作った時間だったのに……先生と社会見学に行く以上に有意義な休みの過ごし方なんて全然思い浮かばなくて!…そう思ったら、どうしてもどうしても氷室先生に会いたくなって、情けないけど、もしかしたら校外指導してるかもしれないって、そう思って、だから……だから朝から先生を探してうろうろしていたんです!それだけです!どうもすいま
せんでしたっ!!」
怒りと恥ずかしさから顔を真っ赤にしながらそれだけ言うと、成瀬は氷室に背を向け走り出した。
「待ちなさい!」
足元に転がったバックを拾うと、今度は氷室が成瀬を追いかける番だった。
(俺をさがしていただと……?)
小さな背を見ながら走る氷室の耳に、成瀬の声がよみがえった。
そんな馬鹿な。……いや、馬鹿ではない。
にわかに信じがたいことだったが、そんな嘘をつける人間ではないことは担任である自分が誰よりも理解している。
「わかった、わかったから、成瀬!」
成瀬が華奢なミュールを履いていたのが幸いしたのか、氷室は彼が発揮できる運動能力ぎりぎりのところで白い腕をつかんだ。
びくっとした反応を感じたが、つかんだ手をそのままに呼吸を整えながら氷室は言った。
「…君は…私に会えなかったらどうするつもりだったんだ……確かに、校外指導ではある一定のコースを巡回している。しかし、少なくともそれは生徒である君の知るところではない。仮にそれを知っていたとしてもだ……どんな不足の事態が起こるとも限らない。校外指導に当たる教師の動きは極めて不規則だ。そもそも、今日私が校外指導に出ていない可能性も考えられただろう?」
「でも……会えました、先生に」
見上げる顔は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「それは結果論でしかない。まったく、まったく君は……」
一体どんな気持ちで、何時間もこの暑い中をひとり歩いていたのか。
氷室の顔が微かに歪む。
どうしてこの少女の言動は、自分の予測をはるかに超えてくるのだろう。
どうしてこんなにも自分は振り回され、またそれを心地よいと感じてしまうのだろう。
無軌道で危なっかしくまったく予測がつかない。設けているはずの生徒と教師の壁すら軽やかにこえて、素直な気持ちを届けてくる。
氷室は一つ深呼吸をすると、ゆっくりと頭を下げた。
「すまなかった。君の話も聞かず一方的に結論を決め付けた私が悪かった。冷静さを失っていたようだ」
「や、いいですよ、先生!私がはっきり言わなかったから……」
「君が謝罪することはない。君を不用意に傷つけた。私の責任だ。本当にすまなかった」
「氷室先生……」
潤んだ眼差しから逃れるように、コホンとせき払いをして、氷室はつかんでいた手を離した。
「しかし……人に物を投げるのは感心しない。君は衝動的な行動に走る傾向がある。
以後気をつけるように。また、君が私に発した暴言は聞かなかったことにする。そうでなければ反省文を最低10枚は書かせるところだ」
「す、すいませんでした!」
バックを受け取りながら慌てている成瀬を見て、氷室は思わず吹き出した。
「フッ……」
萎縮していたかと思えば物を投げ、大人びた表情をしたかと思えば幼さを取りもどす。彼女を見ていると制御できない混乱も悪くないと思えてくる。
考えてみれば、彼女といる時の自分も同じようなものなのかもしれない。
そんな自分を想像し、氷室はさらに愉快な気分になった。
「何がおかしいんですか〜っ」
「いや、問題ない」
笑いを含んだ声でそう答えると、氷室は言った。
「ところで成瀬、明日の予定はあいているか」
「はい、明日も明後日もあいていますけど」
「大変結構。それでは明日と明後日、君の休日が有意義なものになるように、社会見学を行おうと思うが、どうだ」
氷室の申し出に、成瀬の顔がぱあっと明るくなる。
「わ……!行きます、絶対行きます!」
「よろしい。それでは明日の10時、家の前に集合だ。くれぐれも遅れないように」
「はい!」
はしゃぐ成瀬に微笑むと、氷室は暑さを感じてスーツの上着を脱いだ。布ごしに感じる5月の風が、思った以上に心地よい。ふと見上げた街路樹は新緑の彩りをまとい
、氷室はその姿を素直に美しいと思う。
(俺も君と過ごす以上に、有意義な休日はないといえるだろう)
そう声にする代わり、氷室はもう一度成瀬にやさしく微笑んだ。