side TSUBASA
今日は朝から学校の雰囲気が特別だった。なんだか、そわそわするような空気で。
理由は簡単。黒板横に書かれた日付をみればわかる。2月14日。
「つばさちゃん!俺、今日ずっと待ってるもんがあるんやけど」
午後の授業の休み時間、廊下で隣のクラスの姫上君に呼び止められた。
姫条君の手にぶら下がってる紙袋から幾つものリボンやカラフルな包装紙がのぞいている。さすが学園一のプレイボーイ。
「ハイハイ、ちゃんと用意してます。姫上君にはちょっと大人のブランデー入りチョコね」
ポケットから用意してきた小さな包みを取り出して、ハイどうぞ、とそのチョコレート受付袋に入れた。
「おおきに!……でもこれおもいきり義理ちゃう?」
「大正解!ハワイ旅行は自分で行ってきてね〜」
ずっこける姫上君に手を振って、借りてた辞書を返そうと、窓際で友達としゃべっているなつみんに声をかけた。
去年のバレンタインデー。氷室先生はチョコレートを受け取ってくれなかった。
それは、教師に贈るチョコレートは、職員室の横にチョコ受付箱というものが置かれていて、そこで一括に回収され職員に公平に分配されることになっているから。
『来客時の茶請けとしても使われる』
氷室先生の台詞を思い出し、思わずため息が出た。先生はフォローのつもりでそう口にしたみたいだったけど、はっきりいってダメ押しだった。
(今年はもらってくれるかな……)
帰りのホームルーム。
数メートル先の教壇で先生は相変わらずピンと背筋を伸ばし手元のタクトを揺らしながら、みんながしっかりと聞き取れるはっきりとした口調で連絡事項を伝えていて、私はその姿をじっと見つめていた。
入学して初めて迎えた春から約2年。
変わらない先生の姿。変わらない私の姿。
(でも、あれからいろんなことがあったな)
単なる気まぐれと不思議な夕暮れの丘に連れて行ってくれたこと。放課後の音楽室でとてもやさしい音色のピアノをきいたこと。氷室学級のエースと認めてくれたこと。誕生日に数学の論文を受け取ってもらえたこと。初詣で初めて……手を握ってもらったこと。他のみんなと一緒じゃない社会見学に連れて行ってもらえたこと。
氷室先生の、いろんな表情を知った。やわらかな眼差し、照れた表情。困ったように眉を顰めるところや、小さな笑顔も。
先生のことがどんどん気になって、気が付いたらすごくすきになっていた。
(でもそんなこと先生には言えない)
きっと先生は困る。迷惑になる。
疎ましく思われて、そんな不純な動機でそばにいたのかと、軽蔑されるかもしれない。先生はやさしいから、そんな風に生徒を見ることはないだろうけど……
(それでも)
先生に好きだと伝えたい気持ちは勝手にどんどん大きくなって収まらなくなって。
彼女になりたいから、恋人になりたいからとかじゃなくて、ただ伝えたい。それだけがぐるぐると胸の中にあって。
伝えてしまったら、今が壊れてしまうかもしれないのに、それでもどうして伝えたいと思うのか自分でも不思議だったけど。でも、昨日の放課後チョコレートの材料を買ってしまう私がいた。
(バカだ、私)
去年のようにもらってもらえなくてもいいから、先生と生徒の関係にまぎれてでもいいから、冗談や何かに混ぜてでいいから。
バレンタインデーのチョコレート。
そんなフィルター越しに、先生に少しでも気持ちを伝えたくて……。
「……せ、……い」
肩が少しあたたかい。そう思ったら、急に寒さを感じて背中に震えが来た。
「…なさい」
あれ、なんか声がする……なあ……
「成瀬、起きなさい」
「……!」
はっと気がついて目を開けると机の木目のアップが視界に飛び込んできた。
「氷室先生!」
「全く、君は……」
先生は肩を揺すっていた手を離すと、呆れた表情で私を見下ろした。
(やっちゃった……)
窓の外を見ると一番星が見えそうなくらい闇が濃くなっている。いつの間にか眠ってしまったらしい。原因は今朝起きたのが早かったからだとすぐにわかった。チョコレートを作ってたから……
(誰か起こしてくれればいいのに〜っ)
「すみません」
「とっくに下校時刻は過ぎているぞ。教室で居眠りなどしていては風邪をひく。早く帰宅しなさい」
「はい」
先生は私の返事に頷くと踵を返して教室から出て行こうとする。その背中を見たら寝ぼけた頭が急に冷えた。
ダメだ、今を逃したら渡せない。
「待ってください氷室先生!」
慌てて呼び止めると先生が振り向いた。
「何だ?」
「はい。あの……」
とっさに机の脇に掛けておいた小さな紙袋を取り、先生に駆け寄って差し出す。
「これバレンタインのチョコレートです!」
「……全く、君は……」
そう言うと、先生は目をそらしてため息をついた。
「教師に贈るチョコレートは、職員室のチョコ受付箱だ。君も知っているだろう?」
案の定、去年と同じ先生のセリフ。予想していたのに胸が苦しい。
(やっぱり……え、あれ……?)
気のせいか、先生が困ったような、普段学校では見せないようなやわらかい表情をしてる気がして。
……少し勇気が出た。
「でも、氷室先生に差し上げたいんです。だって、あの、先生へのお礼の気持ちもありますから!」
「お礼?」
怪訝な顔になった先生を見るのがこわくて視線を逸らしながら必死にくいさがる。
「はい、あの、最近氷室先生にいろいろ、その、社会見学に連れて行っていただいたりして、遠くに連れて行ってもらったり、いろんな体験をさせていただいたりしています。すごく楽しくて嬉しくて、氷室先生に感謝してるんです。だから、せめてこういう機会に感謝の気持ちを受け取ってもらいたいんです!」
嘘はついてない。本当に伝えたい気持ちは別でも……
一気に言っておそるおそる先生を見ると、先生は腕組みをしてなんて表現したらいいかわからない複雑な表情をしていた。
(間違えたかな、こんなこと言ったらダメだったかな)
少しの沈黙の後、先生が言った。
「ふむ……。これを受け取らなければ、君の気持ちがおさまらない。社会見学に参加する際、私に対して後ろめたい気持ちになると、そういうわけだな」
「そ、そんなことはないですけど……」
顔をあげると、先生は口元に手を当て考え込むようにしていた。
「しかし、言っておくが最近の……その、コホン、社会見学、に、ついては、君が遠慮もしくは私に対して気を遣う必要は一切ない。君が指摘したように、私は教師として向学のために君を……誘っているのだから。そして、君はそこから学んだことを生かし、日々その成果を発揮している。私は君のその姿に満足しているし、礼と言うならばそれ以上に望むものはない。覚えておきなさい」
「氷室先生…」
「よろしい。今回は、特別に受け取っておこう」
「え……」
「かしてみなさい」
そう言うと先生は私の手から紙袋を受け取り、なかにあった小さなクリアケースを取り出した。茶色と黒のリボンのシンプルな包装。紙のクッションの上に小さいチョコレートが転がっているのが見える。
「君が作ったのか」
「はい。氷室先生、お酒を呑まれるから、ちょっとしたおつまみになるようにと思って、小さく濃い目に作ってみました。お口に合わなかったらすみません」
「君が作ったのであれば、味に問題はないように思うが」
さらりとそう言って、先生が私を見た。
「……立派にできたじゃないか。苦労したろう?」
(先生、それ反則)
やさしい言葉が涙腺を直撃して目の奥がじんわり熱くなる。
「少しだけです。でも、そのせいで居眠りしちゃいました」
泣きそうな顔を見られたらダメだと思って、でもうつむくと涙がこぼれてしまいそうだったから、瞼をパチパチしながら視線を泳がせた。
「……そうか」
先生が微笑む。また泣きそうになってしまう。
(すきです、先生がすき、先生がすきです)
先生の言葉ひとつひとつが、仕種ひとつひとつが、私の中で鳴り響いて、どうして心をこんなにも揺さぶるんだろう。
「それでは、君の下校が遅くなった責任は私にもあるということだな。……もう遅い。私の車で送ろう。正門前で待っていなさい」
「え!あ……でも」
それはすごく、魅力的な誘いで、でも同じだけ困るものでもあり……
(これ以上二人っきりでいたらどうにかなります)
「今日はいいです。一人で帰ります」
「何か用事でもあるのか」
明らかに納得できないと言う先生の顔。私は思わず笑ってしまう。
先生と一緒に過ごした短くも長い月日の中で、先生が実は表情が豊かなことに私は気づいてる。他のみんなや先生自身すら知らないかもしれないことだけど。
そういうところも大好きです、先生。
「すみません、また今度一緒に帰らせてください」
早口で言って、私はバタバタと急いで支度すると、憮然としている先生にぺこっと頭を下げた。
「待ちなさい」
「氷室先生!」
入り口で振り向いて言った。
「私、氷室先生にチョコレートあげたかったんです」
「……君の考えは、先ほどの話で理解したが」
先生の不思議そうな顔。
それでも私は繰り返す。
「氷室先生にあげたかったんです」
お礼だけの気持ちじゃないんです。先生はその気持ちに応えてくれたのだとしても。
(すきです)
それ以上言葉にできないけど。
「……そうか」
先生は少し考えるように答えて、それから真っ直ぐに私を見て言った。
「成瀬……ありがとう」
今度こそダメで、もう一度頭を下げると私は急いで教室を出た。
走りながら堰を切ったようにこぼれてくる涙の理由は、自分でもわからなかった。