2005.-4.-1.

岐阜祭は、伊奈波神社の春祭りです。
4両の山車が町内を練り歩き、宵宮には提灯をつけた山車が伊奈波神社に集まります
からくり人形は3両で演じられ、一両は踊り山車でボーイスカウトによって維持されています。


岐阜伊奈波神社の山車祭りは江戸時代に始まったと伝えられているが、明治24年の濃尾震災によってほとんどの
山車がこの被害に遭遇している。特に伊奈波神社の近くでは火災が発生し、周辺の小熊町から北では、すべてが焼失している。
伊奈波神社に残っている岐阜名所図会で描かれている山車はすべてこの範囲のものであり、焼失したものと考えられる。
現在残る清影車は、湊町の山車であった。この地区は濃尾震災の火災では被害が無かったが、水害に悩まされる川沿いの
地区なため、大きな山車は持っていなかった。
しかし、濃尾大震災の後に山車を復活する動きがあり、この清影車は湊町と玉井町・元浜町の三町内で作くられた。
安宅車も、震災後すぐに再興された山車で、上今町が所有していたものである。
文献によると明治44年に改修、となっているが、このときに漆塗を施したものと推測される。
お囃子については、戦後の復活時に車町(本町5丁目)のお囃子を継承している。
蛭子車は、元々は加納町本町3丁目の山車で、岐阜町と同じく濃尾震災で大きな被害があったため
天満宮のお祭が質素なものとなり、岐阜町金屋町に売られていったものである。この山車の製作は
1802年で、幣振人形も同時期の製作である。上山車人形はこの時には、作ることが出来ず、
1852年の製作となっている。岐阜祭の山車の中ではもちろん、他の地区の中でも最古のものである。
岐阜空襲の時には、関係者によって鶯谷随道に疎開させたと言い継がれている。
この山車は、加納から金屋町に移ったが、天満宮のお祭に加納本町3丁目の人が曳き出したと言う。
踊山車(おどりやましゃ)については小熊町の山車で屋根が無く踊りを踊ったと伝えられている。
しかし、調査資料がなく不明であるが、にわか山車との関係も気になるところである。
岐阜の山車はと書いて(やま)と呼ばれている。現在、市の資料では(だし)と表記されているが、
年寄り達は、「岐阜まつりにやまを見にいこ」という事から、ヤマで浸透していたのだろう。なお、名前の呼び方と
して、「おどりやましゃ」「くらまやましゃ」「ひるこやましゃ」「とおるやましゃ」と偏と旁に分けて呼ばれることもある。

岐阜祭のからくりは、戦後の復活時に地元能楽師にお願いして振り付けを施したもので、
戦前までの形態では謡曲での演技はなかったものと考えられる。


現在資料に残る岐阜周辺の「加茂山車」「三輪車」「融車(焼失)」「鞍馬車」「老寿車(焼失)」「清影車」「安宅車」は
岐阜で製作された岐阜型と言える山車たちである。
岐阜型の特徴は、台枠については名古屋型とほとんど同じ寸法に対して、下山の高さが3500mmと
名古屋型に対して1000mmほど高くなっています。背高のっぽでより大きく見えます。
屋根の構造として、岐阜型は鬼板として獅子の彫刻が使われ、張り屋根となっています。
この違いを見るには、関まつりで曳き出される山車で、名古屋型と岐阜型が神社で並んで展示されます。


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