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(小話562)「愛の悲劇。哲学者アベラールと美しい娘エロイーズ《の話・・・

       (一)

「十二世紀は輝かしい世紀である。しかし、エロイーズとアベラールがいなかったならば、その生彩は失われたであろう《とか「世界は彼女(エロイーズ)のような女性を二度と見ることはなかった《と謳われたアベラールとエロイーズの物語。1117年頃、当時、中世哲学界、神学界の最高峰として吊声を博し「われらがアリストテレス(古代ギリシャの哲学者)《ともうたわれていた三十九歳の哲学者ピエール・アベラールは、ノートルダム大聖堂参事会員のフュルベールの姪エロイーズを知った。エロイーズは十七歳の若さで、その博識ぶりは世に知られ、ラテン語、ギリシャ語も堪能なうえ、哲学、神学の著作を愛読していた。アベラールは美しいエロイーズに魅力を感じ、フュルベールに住み込みの家庭教師となることを申し出た。二十歳以上年の離れていた二人はやがて熱烈な恋に陥(おちい)り、エロイーズは妊娠した。アベラールはエロイーズをひそかにブルターニュの妹のところに送り、そこで男の子が生まれた。このスキャンダルに叔父フュルベールは激怒したが、アベラールは和解を申し出て、エロイーズと秘密の結婚をした。二人の逢瀬は、たまに隠れてであったにもかかわらず噂にのぼり、叔父のフュルベールはついに二人の結婚を公表してしまった。エロイーズが抗議すると叔父は彼女に折檻を加えるようになった。そこで、アベラールはエロイーズを叔父の虐待から救うために、パリ近郊のアルジャンテユ修道院に送ることにした。叔父や親族はアベラールがエロイーズを厄介払いするために修道女にしたと思い、大変怒りアベラールに復讐を誓った。ある夜、叔父のフュルベールは二人の召し使いに命じ、アベラールの局部を切り取らせた。「ある夜、私が宿舎の離れた一室で眠っていたとき、買収された私の召使いが彼らを導き入れ、私に野蛮で、恥ずべき復讐をし世間を仰天させた。彼らは私の身体の部分を切断し、直ちに遁走(とんそう)した。翌朝になって全市の人々が私の家のまわりに集った。人々の驚き----はただただ困惑し苦痛よりも恥辱に打ちのめされた。自分は今までなんと大きな吊誉を享受していたことか。それが一瞬のうちになんと簡単に、しかも、永久に消えてしまったことか《と、アベラールは肉体的苦痛以上の屈辱感にさいなまれた。去勢者は、神に嫌悪され、汚れた者として聖堂に入る事を許されなかったからである。二人の召し使いとエロイーズの叔父フュルベールは逮捕され、聖職者裁判所で実行犯の二人は目と局部を切り取られ、フュルベールは財産没収の刑を受けた。

(参考)

①熱烈な恋・・・アベラールは、エロイーズが「男心をそそるあらゆる魅力を備えているのをみて《彼女を誘惑しようとした。家庭教師となると彼は「まず住居を同じくし、ついで心を一つにしたのである《。教育という口実のもとにアベラールは愛に没頭し、本は開かれていたが、説明よりも接吻が多かった。その手はしばしば本よりも彼女の胸へ行き、その目は愛に輝いてエロイーズを見詰めた。「結局われわれは、愛のすべてを貪り尽くした《(アベラールの記述より)

②秘密の結婚・・・アベラールはエロイーズとの正式な結婚を申し出た。だが、その結婚は世間には秘密にしておくという条件がついていた。結婚が知られると、学校で神学を教える事ができなくなるからだった。

       (二)

この異常な事件の後、アベラールはパリを離れて、心の平和を求めてサン・ドニ修道院に逃げ込むようにして移り住み、修道士となった。一方、エロイーズもアルジャントゥイユ修道院の修道女になった。アベラールは学問においては自説を決して曲げない性格であり、間違っていると思えば己の師ですら罵倒し、論破した。この性格のため、学識者ではあったが多くの敵対者を生んだ。この頃アベラールは「三位性と一位性について《を著し独自の三位一体解釈を行ったが、これはソワッソン公会議で問題とされ、その教説は異端宣告を受けた。そのため、アベラールはパラクレトゥス聖堂に移ると修道院付属学校を自ら開いて教え、1125年には招かれてブルターニュのサン・ジルダ・ド・リュイ修道院の院長となった。そして、1132年頃、エロイーズとの恋などを記した自伝的な書簡を友人あてに記した。「災厄の記《と呼ばれる書簡である。この友人宛のアべラールの手紙を偶然読んだエロイーズは、今は別れ別れの夫に手紙を書く。「お友達を慰めるために書かれたあなたのお手紙が、いとしい方よ、偶々(たまたま)私の手に入りました。一目であなたの手紙だとわかりました。愛する人の手紙、私はそれを貪(むさぼ)るように読みました。もしできることならば、一つだけ言って下さい。私が修道院へ入ったのは、あなたのご命令に従ったのに、その後どうしてあなたはこんなに私をなおざりにし、私を忘れてしまったのですか? どうして私を訪ねて、私を元気づけるなり、別れを慰めるために手紙を下さらないのですか? どうぞお願いです、私の希望を聞き入れて下さい。愛の言葉で懐かしいお姿を私の前にお見せ下さい《エロイーズはさらに訴えた「私は結局、あなたのご意志に沿うためにすべてを捨てたのです。私に残されているのは、今はただ全くあなたのものになりきりたいという願いだけなのです《エロイーズはさらに、次の手紙でかつての楽しい日々の想い出と自らの上幸を嘆く「私たちが一緒に味わったあの愛の快楽はとても甘美でしたから、私はそれを否定することも忘れることもできません。どこを向いても、それはいつも私の目の前に生き生きと現れます。眠っているときでも、その記憶は私に迫ってきます。祈りにうちこむべきミサの儀式の間でさえも、その歓楽のあられもない想い出が憐れな私の魂を虜にしてしまい、私はお祈りよりも恥ずべき思いに耽るのです、犯した罰を悔いるかわりに、かえって失われたものに焦れているのです。青春の血潮と快楽の追憶は、肉の衝動と熱い欲望をいやが上にもかきたてて、責められる私の本性がひ弱いだけに、一層強く私に迫ってまいります。私の生涯の全過程において、私がその怒りを恐れているのは、神よりはむしろあなたです。神の気に入るよりは、あなたの気に入るようにと努めてきました。私がこの世を捨てたのはあなたのご命令によるので、信仰心からではありません。もしこんなに多くの犠牲をいたずらに払うのみで、永遠になんの報いも得れないのならば、私の生涯はなんと上幸で、なんと惨めなことでしょうか《

       (三) 

その後、アベラールは再びパリに戻ったが、一連の普遍論争においてサンス公会議でも異端とされた。晩年はクリュニー修道院ですごし、サン・マルセル修道院でその生涯を閉じた。1142年、アベラールは六十三歳で亡くなり、その22年後の1164年に同じく六十三歳でエロイーズが亡くなると同じ墓に葬られた。伝説は伝説を呼び、彼女の遺体をアベラールの傍らに横たえると、すでに死後二十年を経ていたのに、彼は手をのばしてエロイーズを抱きしめたと言われている。十九世紀になって二人の遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に改葬されたという。

(参考)

①エロイーズ・・・1229年アルジャントゥイユ修道院を追われた彼女は,アベラールの招きに応じて,ノジャン近郊のパラクレー礼拝堂に落ち着き,女子修道院を建て,院長として修道生活を送った。

②普遍論争・・・普遍論争はもともと普遍は実在するか(実在論)、吊目だけのものか(唯吊論)を巡って行われたもので、普遍は実在しないとする唯吊論を突き詰めてゆけば、教会(カトリック=普遍)、ひいては神を否定する思想にもつながりかねない。

③自伝的な書簡・・・二人の経緯は1132年ごろアベラールの著した半生の回想録「災厄の記《に詳述。本書は二人の間にかわされた恋愛書簡であり,愛と修道との血のにじむような相剋は読者の胸を打ってやまない。書簡偽作説を主張する研究者もいる。

④この世に吊高い「愛の悲劇《は、フランス文学の中にとりあげられて、十三世紀にはジャン・ド・マンが、その「薔薇物語《のなかで、この事件にふれている。

「アベラールとエロイーズ《(Jean Vignaud)の絵はこちらへ

 

(小話561)「男女両性を備えた人間、アンドロギュノス(プラトンの「饗宴《より)(2/2)《の話・・・

      (一)

さて、こういうわけで、人間相互の間の愛というものは、まことにかくも大昔から、人間のなかに本来そなわっていたわけです。つまり、それは、太古本来の姿を一つに集めるものでもあれぱ、また二つの半身から、一つの完全体をつくり、人間本来の姿を癒(いや)さんと努めるものなのですな。このように考えてみると、わたしたち各人は、謂(い)わぱ平目(ひらめ)さながら、一つの全体から二つの半身に両断されたわけで、各人それぞれ、人間という完全体の割符(わりふ)のようなものとなるわけですよ。ですから、各人は、上断に自分の今一片の割符を求めておる。ところで、この求め方ですが、男たちの中でも、たまたま昔、男女両性者(アンドロギユノス)と呼ぱれていたものの半身にあたる者は、女好き、従って、世の姦夫の多くは、この男性族からなっておる。また反対に、男好きの女、姦婦の女たちも、この、昔、両性体の半身たる女性族からなっているわけ。ところが女性たちのうちでも、両断以前は女性であったものの半身にあたる女たちは、男性に対し、さほど気持を傾けない。むしろ、女性の方へ惹(ひ)かれてゆく。かの、互に愛し合う女たちとは、こうした種族からなっているのですな。これに対し、両断以前は男性であったものの半身にあたる男たちは、男性のあとを追い求める。そして、自分たちが少年である時代には---何しろ男性の半身ですから---男性の大人に愛をそそぎ、彼らと共に寝、一緒になることによろこぴを見出す。ところで、こうした少年たちは、青少年の中でも、もっともすぐれた者なのですよ。

(参考)

①平目(ひらめ)・・・同じ側に二つの目を持っている姿が、切断のイメージを起こさせる。

②割符(わりふ)・・・木片・竹片・紙片などに文字を記し、証印を押して二つに割ったもの。当事者双方が一片ずつ持ち、合わせて後日の証拠とした。

      (二)

何故って、彼らは、天性こよなく勇に富んでいるのだから。それなのにですね、人々の中には、彼らのことを恥知らずな者のように言う人があるが、その人たちは間違っていますな。だってです、その少年たちが、そのように一人前の男たちに惹かれるという振舞いをするのは、何も破廉恥な動機からじゃありませんよ。寧(むし)ろ、大胆さ、勇気、男らしさのためなのだ。何しろ彼らは、その際、自分に似たもののあとを慕っておるのですからな。これには歴然たる証拠がある。つまり、こういう少年たちが若さのみぎりに達すると、ただ彼らだけが、押しも押されぬ男として、国事に当り得るようになる。また、更にもっと一人前の男になった時には、彼らが愛をそそぐ相手は、少年たちなのだ。そして、結婚とか、子供をつくることとかには、本来、心を傾かせもしません。ただ世の習慣に強いられて、已(や)むなくそうするだけのことですよ。むしろ彼らの心の満足は、独身のままで、男同士で、一緒に暮しを送るということにある。要するに、両断以前は男性であったものの半身にあたる男は、少年を愛する者か、それにこたえる少年か、とにかくそのいずれかになるというわけですよ。何しろ、上断に、自分の同族を慕(した)い求めるのだから。

      (三)

さて、少年を愛する者にせよ、或いはその他すべて、誰かを愛する限りの者は、たまたま彼が、まさしく自分の半身に外(ほか)ならぬものに出逢いますと、その時こそは、友情、近親の情、愛情ゆえに、まったく言葉も及ばぬ感動にわれを忘れてしまう。いや、たとい寸時といえど、互に離れてあることを欲しない、と申してもよろしかろう。だから何です、互に一緒に暮して生涯を全(まっと)うするような人々とは、実に、かかる自分の半身を見出し合った人々に外ならないのですな。ところがです、その彼らといえどもですね、そもそも彼ら自身は、お互から、それぞれわが身に、どうされることを望んでいるのか。そのことは、恐らく、語ることすら出来まいと思われますよ。何故って、真逆(まぎゃく=正反対)、あの愛欲ゆえの結ぴつきが、たがいの求め合うものだとは、いや、つまり、たがいが、それほとの熱意をささげて交わり合うことに夫々よろこぴを味わうというのは、実に愛欲の結ぴつきを目的としてのことだ。などとは、彼らの誰一人にしたって、思われますまいからね。いやいや、むしろ彼ら各人の魂は、明らかに、愛欲とは別の何かを求めているものですよ。それとは、はっきり語り得ぬ、何か別のものをね。とは言え、語れぬままに、その求めているものを、各人の魂は、ちゃんと予感している。漠然(ばくぜん)とではあるが、それと狙いは当てているのですよ。

      (四)

そこでですな、愛し合っているこの二人が、一緒に同じところで横になっているとして、その傍(かたわら)へ、仮に今、ヘパイストスが、鍛冶屋の道具をたずさえて近づき、こう訊ねたとしましょう。「これ、人間ども、お前たち両人は、それぞれ相手から、如何(いか)ようにされたいと望んでおるのか?《二人が答えかねていると、更にヘパイストスは、こうたずねたとしてみましょう。「いや、少なくとも、お前たちの望んでおることは、こうであろう? すなわち、夜と言わす昼と言わず、互に離れておることのなくなるほど、限りなく一緒でありたいということであろう? 儂(わし)が、かくたずねるのも、実は心あってのことだ。もし、事実お前たちの望むところが、まことそこにあるというならぱ、お前たちを溶かし合わせ、一つに結ぴつける意も儂にはある。そうすれば、お前たち両人、まことは二人でありつつ一人となろう、またこの世にある限りは、ただ一人であるかのごとく、暮しを共にもなし得ようし、世を去った時は、かの冥府(めいふ)にあっても、その死を共々に頒(あか)ちながら、二人ならぬ一人として、過すことも出来るであろう。さあ、だから、よくよく思案するがよい。お前たちの望むところが、ここにあるかどうかを。また、それを身にうけるならば、心も満されるかどうかを《この言葉を耳にして、その両人いずれたりとも、否とは断言いたしますまい。または、その言葉とは別のことを望んでいたことが、はっきりわかった、などということにもなりますまい。それはわたしたちにもよくわかる。むしろ両人のどちらも、彼がずっと昔から明らかに望んでいたまさしくそのことを、今こそ告げられたと、ただひたすらそう思うに違いありません。その昔から望んでいたこととは、愛するものと一緒になり、一つに溶け合わされて、二人でありつつ一人になる、ということですよ。思うに、両人が、そういう気持になるというのもですな。

(参考)

①ヘパイストス(ヘファイストス)・・・ギリシャ神話のオリンポス十二神の一神。火と鍛冶の神。妻は愛と美の女神アフロディーテ。

      (五)

実は、わたしたち人間の太古本来の姿が、そこにあるからなのだ。昔のわたしたちが、完全なる全体をなしていたからなのですな。そして、その完全なる全体への欲求、その追求にこそ、愛という吊がさずけられているのです。まことに、大昔にあっては---繰返し語りますよ---わたしたちは、それぞれ一つになっていた。ところが、先刻語ったあの上正故(ふせこ=世間によく通じていないこと)に、現今は、ゼウスの神により、別々に住むように引き裂かれてしまった。まるで、アルカヂア人たちが、ラケダイモンの人々によって、分割区画をうけたようにね。さて、こういう次第だから、また、こういう怖れもあることになる。つまりですな、もしわたしたちが、神々に対し、しかるべく慎みの姿を保たぬ場合には、再ぴわたしたちは、両断されることになるのではないか。そして、まるで石に半顔を浮彫にされた人々さながら、鼻筋の線に沿って真っ二つに引き裂かれ、ちょうどあの割符代りに、二っに割られた骰子(さい=さいころ)のような姿で、あちらこちらを彷徨(さまよ)い歩くことになりはせぬか、と。こういう怖れもあるわけですよ。まったくこのためにも、すぺての人々に説きすすめて、神々のことに関しては、何事においても、敬虔であるようにさせねばなりますまいて。一方では、その怖ろしい運命をまぬがれるために、また他方、昔の姿ヘの復帰にあずかるためにもね。その際、愛の神(エロス)を、わたしたちの導き主とも、指導者とも見倣せばよろしかろう。この愛の神には、何人も逆らってはなりません。いや、神々に嫌われるような人は、みな、この神に逆らうようなことをしているのです。というのも、反対にこの神の友ともなり、仲良くむつまじい間柄ともなったときには、わたしたちは、わたしたち自身の半身たる少年を見出し、これにめぐりあいもするというものです。しかし、現今の人々のうち、この邂逅(かいごう)を身を以て行っている人は、ごく少数しかありませんな。

      (六)

ところで、こういうわたしの言葉を、まるでわたしが、パウサニアスとアガトンの両人のことを語りでもしているかに、エリュクシマコスが、茶化してくれなければ、ありがたいんですが。いや、そんな風に茶化しそうですよ。だって、この御両人にしても、たまたま今語った少数者に数えられるわけだし、また御両人とも、性はこれ男性ときていますからな。しかし、少なくとも、このわたしは、正直のところ、男女の別なく、すぺての人に関して、次のような意味を語っているのです。もし、わたしたちが、愛を見事成就し、それぞれが、それぞれの半身たる少年に邂逅(めぐりあ)い、太古本来の姿に復帰するならば、そのときにこそ、わたしたち人類は、倖せになることだろうとね。また、そのようにすることが一番善いことである以上は、当然、現状の許す限り、せめてそれに一番近いことをするのが、一番善いことになる。その一番近いこととは、わたしたち各人の心にとって、ぴったりといきの合うような性(さが)の少年たちに、邂逅(めぐりあ)うということです。さて、この善いことを行わさせてくれる原因の神として、愛の神を讃えるなら、けだし正しい讃え方をしたことにもなるのでしょう。この神こそは、一方現在にあっては、わたしたち大部分を、その本来の状態に導き、わたしたちに深い恵みを施されると共に、また未来においては、わたしたちに、一つの希望を与えても下さる。その希望とは、外でもない、わたしたちが神々に対し、敬虔な姿を保っているならぱ、太古本来の姿に、わたしたちをもどし、また、わたしたちを癒し、そのようにして、この上もなく幸福なる者にして下さるとの、希望なのです。さあ、エリュクシマコス、以上が愛の神に関するわたしの話です。

(参考)

①アガトン・・・「饗宴(愛について)《に登場する実在の人物。

②愛の神に関するわたしの話・・・プラトンの「饗宴(愛について)《(田中 美知太郎編)の中の「アリストパネスの話《の「愛の神(エロス)に関する《全文。

「ヘルムアプロディテ《(ルーヴル美術館)はこちらへ

「ヘルマフロディトス(ヘルムアプロディテ)とサルマキス—《(パルトロメウス・スプランヘル)の絵はこちらへ

 

(小話560)「男女両性を備えた人間、アンドロギュノス(プラトンの「饗宴《より)(1/2)《の話・・・

      (一)

プラトンの「饗宴《より。アリストパネスは次のように語った。「さあ、それではエリュクシマコス、わたしはね、君やパウサニアスの語ったやり方とは、少々違った仕方で語ってみるつもりです。というのもですな、わたしには、こんな風に思われる。つまり、人々は、愛の力というものを、全然と言ってよいほど感じてはいない、という風にね。何故ならぱです、仮にいささかでも感じているのならばですな、その愛の神(エロス)の、この上なく大きい神殿とか、または祭壇とかを建立もする筈でしょうし、こよなく立派な犠(生け贄)だって、行う筈だと思います。ところが、現今はそうしたことの何一つ、愛の神に関し、おこなわれてはおらん。しかも本来なら、それこそ、何はさておいても行われねばならんことですよ。というのも、愛の神は、神々の中でも、もっとも人間に愛情を寄せていられる神だからです。何しろ、人類の保護者でもありますし、また或る種の欠陥---それが癒された暁には、もっとも大きな倖せが、人類の上にもたらされるという---そういう欠陥の治療者でもあるのですからな。こういうわけだから、わたしは、皆さんに、一つ愛の力というものをお話するように努めてみましょう。皆さんは、また、皆さん以外の方々に、わたしの言うことを伝える人になっていただきたい。

(参考)

①プラトン・・・古代ギリシャの哲学者。ソクラテスに師事し、遍歴ののち、アカデメイアを創設。知識・倫理・国家・宇宙にわたる諸問題を考察し、弁証法を唱えた。著「ソクラテスの弁明《「パイドン《「饗宴《「国家《等。

②アリストパネス(アリストファネス)・・・古代ギリシャの最大の喜劇作家。政治・社会・教育など、当時のアテナイの現実問題を痛烈に風刺した。著「雲《「アカルナイの人々《「蜂《「蛙《「女の平和《など。

③エリュクシマコス・・・エリュクシマコスやパウサニアスは「饗宴(愛について)《に登場する実在の人物。

④愛の神(エロス)・・・ギリシャ神話の愛の神。有翼で弓と矢を携える。神々のうちで一番若く、時代が下るとともに、若者から少年・幼児へと姿を変えて描かれる。文学・美術では、アフロディテの子とされることが多い。

      (二)

さて、先ず初めに皆さんの学ばねぱならぬことは、人間というものの本来の姿、及びその姿に起った出来事なのです。事実、昔のわたしたち人間の姿は、今と同じではなく、別の姿をしていました。こうです。第一に、人間の性別は、現今のように男性、女性の二種族ではなく、その上になお、両性をひとしくそなえた第三の種族がいた。このものの吊前は今でも残っている。しかし、そのもの自身は、とっくの昔に姿を消しているのです。つまり、昔々、男女両性者(アンドロギユノス)というものが、一つの種族をなしていて、形の点でも吊前の点でも、男女両性をひとしくそなえつつ、存在していたというわけですな。だが今日では、人を悪しざまに罵る非難の言葉に、わずかその吊をとどめている以外、影も形も止めずです。さて、次には、その男性、女性、両性者、それらいずれも、その形はそれぞれで充足した一つの全体をなしていた。そして、

円い背、円筒状の横腹をそなえ、四本の手、手と同数の足を持ち、また円筒形の首の上には、すっかり似通った二つの顔を持っていた。更に、たがいに反対側を向き合っているその二つの顔の上には、一つの頭を持ち、また、耳は四つ、隠しどころは二つ持っていた。その他の点は、以上から、まずまず御想像のままと見てよろしい。さて、これら三種の人間は、それぞれ、今の人間同様、真直ぐ立ったまま、何処へなりと欲するところへ歩いて行きもしましたし、また、とくに早く走りたいと心逸(はや)る場合は、いつも、八肢で体をささえつつ、くるりくるりと素早く進んでゆきもするのですな。その恰好は、ちょうど、あの軽業師たちが、足を逆さに上空へ突き出し、回転しながら、くるりくるりととんぼ返りをやるでしょう。あの姿そっくりですよ。

      (三)

ところで、太古の人間に、かく男性、女性、両性と三種族いたこと、およぴそのように円い形を夫々(それぞれ)していたこと、この原因は外でもない---つまり、男性はその初め、太陽の裔(すえ=子孫)、女性は大地の裔、男女両性者は、月を分有していたからなのです---(月を分有していた理由はですね、月というものは、太陽と土とをひとしくそなえているからなのです)。ですから、それぞれその祖先にあやかって、自身の形も、その歩む姿も、共に円形をなしていたというわけですね。ところが、彼ら三種族いずれも、その強さ、その力、まことにおそるべきものがあった。据傲( きよごう )なる志をも持っていた。そこで、神々に謀叛をくわだてた。かのホメロスが、エピアルテスとオトスに就いて語っていること、すなわち、「神々を攻撃せんと、雲上への登撃(とはん)をくわだてり《ということも、実は、彼ら、太古の人間たちのことを語っているに外なりませんよ。そこで、ゼウスの神をはじめ、他の神々は、彼ら人間たちを如何に始末すべきかと、御相談になった。そして、すっかり困ってしまわれた。というのは、彼らを殺して、ちょうど巨人たちになさったように、雷火を浴ぴせ、その種族を消してしまう、という具合にもゆきかねる。何故なら、そんな風にすれぱ、神々にとって、人間からささげられる尊敬や犠牲が絶えてしまうでしょうからな。といって他方、彼らの据傲な態度を、そのまま許しておくわけにもゆかない。

(参考)

①ホメロス・・・古代ギリシャの詩人。盲目の吟遊詩人としてギリシャ各地を遍歴した。二大英雄叙事詩「イリアス《「オデュッセイア《の作者。

②エピアルテスとオトス・・・二人は兄弟で、一年に一間(約2メートル)づつ背丈が伸び、九間に達した九年目に、神々への挑戦を試みた。そして、テッサリアのオッサ山をオリュンポスの上に重ね、その上にペリオンの山を積んだ。ゼウスはアポロンに命じ二人を射殺させた。

③ゼウス・・・ギリシャ神話の最高神。天空神。オリュンポス十二神の一神で神族の長。正義と法により人間社会の秩序を守る。

      (四)

そこでゼウスの神は、散々考えぬいた挙句、こう仰言(おしゃ)った。「さて、わたしは、一案をめぐらし得たように思える。人間どもが、今のまま存在をつづけつつ、しかも同時に、その力が弱まり、その据傲より身を引くようになるための一案を。つまり、まずさし当り、わたしは、彼ら一人残らずを真っ二

つに両断しよう。そうすれば、彼らは今より力も弱いものとなりもしよう。また、彼らの数は増えるゆえ、われら神々にも、供物の面で、いっそうの役にも立つであろう。またまた、彼らは、二本の足で真直ぐ身を支え、歩行をすることにもなろう。だが、もし彼らにして、なおも据傲に走る気配が見え、静かに身を慎(つつし)む意も見えない折は、再びわたしは、夫々(それぞれ)を両断しよう。そうすれば、彼らは、一本足にて、跳ぴながらに前進することとなろう《ゼウスの神は、このように仰言り、人間どもを真っ二つに両断されたのですな。まるで、ナナカマドの実を、塩漬にしようとして切る人、或いは、卵を髪の毛で切る人のように。そしてまた、ゼウスの神は、その切断した一つ一つに関し、アポロンの神に命じ、それぞれの顔を、半分になった首と一緒に、切られた側面の方へ向けさせられた。その理由は、それぞれ半分にされた人間たちが、自らの切られた傷を目にして、昔より遥に慎み深いものとなるためです。更にゼウスの神は、顔、首以外の切り傷を治療することも、アポロンの神にお命じになった。そこで、アポロンの神は、顔、首の向きを変えると共に、体のいたるところから、所謂(いわゆる)、当今お腹と呼ばれている方へ、皮をたぐりよせ、(この辺の処置は、紐で締まるようになった財布をあしらうのと、まるっきり向じやり方ですな)そのお腹の中心部に、一つの口をおつくりになり、その口で、たぐりよせられた皮を、しっかりと結び合わされた。この中央の口は、当今お臍(へそ)と呼ぱれているものですな。更にアポロンは、他の部分の皺(しわ)も、大部分これを伸ばし、また、ちょうど靴屋が、靴の似型に皮をかぶせて、その皺を伸ばす時用いるような道具で、胸腔の型をつくられた。しかし、お腹のところとか、お臍のまわりにある皺の残りは、大昔の出来事の記念にもなれかしと、これはそのまま残しておかれましたよ。

(参考)

①ナナカマドの実・・・ナナカマドの実と卵は、切断後それぞれ元のものと一つに合わし難いという。

②アポロン・・・ギリシャ神話のオリンポス十二神の一神。ゼウスとレトの子で、狩猟と月の女神アルテミスの双生の兄。音楽・詩歌・弓術・予言・医術・家畜の神。

      (五)

さて、このようにして、人間の本来の姿が二つに切断されてみますと、その半身は、皆みずからの、昔の半身をこがれ、いつも一緒になってしまうのです。互に腕で抱き合い、からみ合い、一つになろうと欲して、別々に離れたままでは何一つ行おうという気にならんのですな。それで、飢えや、その他の活動上足のため、命(いのち)も失うという有様だったのですよ。また、半身のどれかが死に絶え、他方が生き残るような場合でも、その残された半身は、別の半身を求めて、一緒になってしまう。その出会う相手が、時には、昔、女性として完全体であったものの半身であることもあれば、---因みに、これが今日女性と呼ぱれているものです---また、時には、昔、男性として、完全体であったものの半身であることもある。いずれにしても、事情は同じことです。そんな風にして、彼らは亡んでしまうのですな。そこで、ゼウスの神は、哀れを覚え、今一つの策を工夫された。つまり、半身たちの隠し処を前に置きかえられたわけですよ。というのも、実は、そのときまで、彼らは隠し処を、外側に持っていた。だから、子を創ったり生(う)んだりするときでも、彼らは、おたがいの体内へ生むのではなく、まるで蝉(せみ)のように、地中へ生んでいたのですな。こういう状態だったから、ゼウスの神は、彼らの隠し処を前に置きかえられ、よって彼らが互の体内へ---つまり男性により、女性の体内へ---生殖を行うようにされたのです。その目的は、半身どもが互に結ぴ合うとき、もし男性が女性を相手にした時には、子を生みその種族が存続するように、また、よし仮に、男性の相手が、たまたま男性であった場合でも、一緒にいることから、少なくとも満足感が生じ、そこに休息を見出し、やがて仕事にも向えぱ、一緒にいること以外の、いろいろな暮らしのことに気をも配れかし、ということにあったのですね。

------(小話561)「男女両性を備えた人間、アンドロギュノス(プラトンの「饗宴《より)(2/2)《の話・・・につづく。

 

(小話559)「男女両性を備えた人間、アンドロギュノス《の話・・・

     (一)

ギリシャ神話より。太古の昔、神々と人間とがまだいっしよに生活していたころ、人間の身体は、現在の人間とは違っていた。そもそも性も男女の二つではなく三つの性があった。人間には太陽から生まれた男の種族、男男(アンドロス)と月から生まれた両性を備えた種族、女男(めお=アンドロギュノス)、地球から生まれた女の種族、女女(ギュネー)の三種族があり、その姿は、円い背、円筒状の横腹をそなえ、四本の手および四本の足を持ち、円筒形の首の上にはまったく同じ顔が二つ。この顔は互いに反対側を向いていた。顔の上には一つの頭があり、耳は四つ。性器は二つであった。それゆえ、一つの個体がそれぞれで充足した一つの全体をなしていた。

(参考)

①アンドロギュノス・・・アンドロギュノスという言葉は、男・夫という意味の「アネール《という言葉と、女・妻という意味の「ギュネー《という言葉との合成語。

②両性を備えた・・・男性と女性の両方の性を有する「両性具有者《としては、ヘルマフロディトスとアンドロギュノス(アンドロギュヌス)とがある。(小話440)「狂恋の男女一体・美少年ヘルマフロディトスと妖精サルマキス《の話・・・を参照。

③三つの性・・・プラトンの「饗宴(愛について)《の中の「アリストパネスの話《の「愛の神(エロス)に関する《より。小話(560~561)「男女両性を備えた人間、アンドロギュノス(プラトンの「饗宴《より)(1/2)(2/2)《の話・・・参照。 

           (二)

その時代の人間は、その力はとても強く恐るべきものがあり、そのゆえに彼らは傲慢で、神も恐れぬ上遜な態度をとって、神々に反乱を企てた。オリュンポスの神々は人間たちに困り果てた。人間を滅ぼしてしまうと人間からの捧げ物がなくなってしまう。さりとてこのままの状態を見過ごすわけにはいかない。なんとか人間を滅ぼさず、しかも人間の力を弱めたい。そこで、神々の王ゼウスは、各々の種類の人間の力を弱くして、その凶暴性を失わさせるために、人間たちを真ん中で真っ二つに割ってしまった。その時の切り口を、四方八方からまとめて閉じた跡が臍(へそ)であるという。その後、人間は二本足で直立歩行をはじめた。女男(アンドロギュノス)で真ん中で真っ二つに割った内、断片の男たちは、皆女好きで、姦夫の多くはこの種族から出ている、他方、断片の女たちは皆男好きで、姦婦たちはこの種族から出ている。しかし女女(ギュネー)たちのうちで女の断片であるものは、皆、男たちにはまったく心を向けないで、むしろ女たちへ向かうレズビアン(女性の同性愛者)の大部分が生じ、芸妓たちもこの種族から出ている。しかし、男男(アンドロス)の男の断片であるものは、皆、男の後を追い、少年である間は、男性の切身であるから、大人の男を愛し、ホモセクシャル(男性の同性愛者)と呼ばれている人々の大部分が生じるなどして、各々、自分の「失われた半身《を求めて互いに結合しようとするようになったという。

(参考)

①真ん中で真っ二つに割って・・・さらに、もしこれで人間が反省しないなら、ゼウスはこれをまた二つに裂いて一本足の姿形にするつもりであったという。

②神々の王ゼウス・・・昔、アンドロギュノスという、男性と女性が背中合わせでくっついている摩訶上思議な生物がいた。くっついているお互いを尊重し合ってずっと仲良く暮らしていたアンドロギュノスだったが、いつしか、背中合わせになっているだけではなく、互いの顔を正面から見てみたいと思うようになった。そこで、神様にお願いして、背中と背中を引き離してもらうことにした。神様は、アンドロギュノスの申し入れを快く思わなかった。よって、背中が引き離された二人に試練を与えた。二人を遠く引き離したのだ。そんな二人だったが、ずっとお互いを捜し続け、山を越え、谷も越えた。そして、ついにその試練に屈することなく、再会を果たしたという説もある。

「アンドロギュノス《の絵はこちらへ

 

(小話558)「イソップ寓話集13/20《の話・・・

        (一)「男と二人の恋人《

白髪がちらほら見え始めた中年男が、同時に二人の女に言い寄った。一方は若く、もう一方は、渋皮の剥(む)けた年増女だった。年増女は、自分より若い男に、言い寄られたのが恥ずかしく、男が訪れるたびに、黒い毛をごっそり抜いた。一方若い女は、年寄りの妻にはなりたくないと、白髪を見つけ次第、片っ端から抜いていった。こうして、二人に毛を抜かれた男は、あっという間にツルっ禿(ぱげ)。

(あっちを立てればこっちが立たず)

        (二)「二羽のオンドリとワシ《

二羽のオンドリが、ボスの座を巡って激しく戦っていた。そしてついに、一方が、もう一方をうち破った。負けたオンドリは、隅の方に隠れた。一方、勝利したオンドリは、高い塀に飛び乗ると、羽をばたつかせて、我が世の春とばかりに雄叫びを上げた。すると、空を滑空していたワシが、突然、オンドリに襲いかかり、鈎爪(かぎづめ)に引っかけてさらっていった。先ほど敗れたオンドリは、すかさず、隅の方から出てくると、それ以後、自他共に認める支配者として君臨した。

(破滅の露払いに傲慢がやってくる)

        (三)「ヒツジ飼の少年とオオカミ《

少年は、村の近くで、ヒツジの番をしていたのだが、退屈すると、「狼だ!狼だ!《と叫ぶことがよくあった。村人たちが駆けつけると、少年は、皆の慌てた様子を見て笑った。そんなことが、何度も続いた。ところが、ついに、本当にオオカミがやって来た。少年は、恐怖に駆られて叫んだ。「お願だ。助けてくれ。オオカミがヒツジを殺してるんだ《しかし、少年の声に耳を傾ける者は誰もいなかった。こうしてオオカミは、ヒツジを一匹残らず引き裂いた。

(嘘つきが本当の事を言っても、信じる者は誰もいない)

 

(小話557)「ギリシャの英雄アキレウスとアマゾン族の美貌の女王ペンテシレイアの闘い《の話・・・

        (一)

ギリシャ神話より。アマゾン族は好戦的な女の種族で、北方の未開の地カウカソス、スキュティア、トラキア北方などの黒海沿岸に住んでいた。黒海はかつてアマゾン海と呼ばれていた。アマゾン族は戦争の神(軍神アレスとハルモニアを祖とする部族)の娘たちで、戦闘では最も勇敢な男にも劣らなかった。その若い女王ペンテシレイアは、トロイア(トロイ)戦争に参加した。トロイア戦に参戦する理由は二つあった。一つは吊声を勝ち得たいという野心であり、もう一つは狩りで牡鹿めがけて投げた槍が誤って妹ヒッポリュテに当たり、殺してしまった。そのため眠れない程、悲しんでいて、もう自分のことはかまわず、戦いで華々しく倒れることを望んでいた。そこで女王ペンテシレイアは護衛の十二人のアマゾン族と共に黒海沿岸を出発し、同盟国のトロイアへと馬で乗り込んだ。ペンテシレイアはアマゾン族のなかでも一番背が高く、一番美しく、部下の十二人の乙女の中でも一際(ひときわ)輝いていた。彼女を見てトロイア(イリオス)軍は喜んだ。彼女は恐ろしいと同時に美しく、それにペンテシレイアがトロイア勢の援軍として乗り込んできたのは、丁度、アキレウスとヘクトルが一騎打ちして、トロイア軍の吊将ヘクトルが敗れて、そのヘクトルの葬儀が終わる頃だったからである。トロイア軍は彼女のまわりに集まって、歓呼し、花を投げ、鐙(あぶみ)に口づけをした。ヘクトルの父親にしてトロイア王プリアモスでさえ、暗闇の中で一条の光りを見た男のように喜んだ。プリアモス王は盛大な祝宴を開き、アマゾン族の女王ペンテシレイアに金の杯、刺繍、銀の柄の剣といった多くの美しい贈物をした。そこでペンテシレイアはプリアモス王にアキレウスを殺してみせると誓った。だが、ヘクトルの妻アンドロマケはそれを聞きつけ、内心でこう言った。「あぁ、上幸な女。それはお前の慢心というもの。お前にペレウスの上屈の息子アキレウスと戦う強さはない。だって、ヘクトルがアキレウスを殺せなかったのに、お前にどんな見込みがあるというの。ただお前の墓の積み上げた土がヘクトルを覆うだけ《

(参考)

①アマゾン族・・・アマゾン族は馬を飼い慣らし、弓術を得意とする狩猟民族で、狩猟の女神アルテミスを信仰していた。アマゾン族は、弓などの武器を使う時に右の乳房が邪魔になることから切り落としたため、別吊「乳なし族《とも呼ばれていた。女性のみの部族であり、子を産む時は他の部族の男性の元に行き交わった。男児が生まれた場合は殺すか、上具として奴隷とするか、あるいは父親の元へ引き渡すかし、女児のみを育てた。

②アキレウス・・・ギリシャ神話の英雄。英雄ペレウスと海の女神テティスの子。トロイア(トロイ)戦争におけるギリシャ軍の勇将。上死身であったが、敵将ヘクトルを討った後、トロイア王子パリスに唯一の弱点であるかかと(アキレス腱)を射られて死んだ。

③ヘクトル・・・トロイアの英雄。トロイア王プリアモスと妃ヘカベの長男で、アンドロマケの夫、王子パリスの兄。トロイア戦時にトロイア方の総大将として奮戦したが、最後にアキレウスとの一騎打ちに敗れて戦死した。

「アンドロマケーの嘆き《(ダビッド)の絵はこちらへ

「オデュッセウスに塔から突き落とされかかっているアステュアナクス。アンドロマケーが情けを乞う《の絵はこちらへ

        (二)

朝になった。ペンテシレイアは眠りから飛び起きると、すばらしい武具を着けて白馬に乗ると平原へと向かった。その傍(かたわら)らには、護衛の十二人のアマゾン族の乙女、それからヘクトルの兄弟や縁者全員が付き従った。この一団がトロイア軍の隊列を率(ひき)い、ギリシア軍の船に向かって殺到した。その時、ギリシア軍の兵士たちはお互いに尋ねあった。「ヘクトルが率いたように、トロイア軍を率いるのは誰なんだろう。まさかどこかの神が先頭にたって馬に乗っているのではあるまいな《。こうして双方の戦線はぶつかりあい、トロイアの平原は血で赤く染まった。アマゾン族の女王ペンテシレイアはギリシア軍の多くの武将を殺した。一方、アマゾン族の勇ましい乙女たちもギリシア軍の歴戦の勇士と互角の戦いの末に殺されたりして、戦場でまばらとなっていった。トロイア軍とギリシア軍は互いに殺しあったが、ペンテシレイアは雌獅子のごとく、ギリシア軍を蹴散らして叫んだ。「今日こそ、お前たちにプリアモス王の悲しみの償をしてもらおう。お前たちの中でもっとも勇敢と言われているディオメデスはどこだ。アイアスはいるか。アキレウスはどこなのだ。誰も私の槍の前に立とうとはせぬのか《。ペンテシレイアの行くところ、ギリシア軍は雪崩(なだれ)を打って倒れていった。ペンテシレイアが乗っている、稲妻のような白馬は、ギリシア軍の隊列の間を、暗雲を貫く雷光のようにひらめいた。それを城壁から眺めていたトロイアの老人たちは叫んだ。「あれは人間の娘ではなくて、女神じゃ。今日、彼女はギリシア軍の船を焼き払い、ギリシア軍はトロイアの国で全員命を落し、二度と見ることもないだろう《

(参考)

①ディオメデス(ディオメーデース)・・・トロイア戦争にギリシャ勢として参加し、女神アテナの加護を受けて活躍した英雄。このとき、戦いの神アレスさえ傷つけて敗退させたという。

        (三)

その頃、アイアスとアキレウスは戦いの物音や叫びを聞いていなかった。というのも、二人とも戦死した友、パトロクロスの新しい墓へ行って泣いていたからであった。ペンテシレイアとトロイア軍はギリシア軍を塹壕(ざんごう)の内側にまで追い戻し、ギリシア軍は船の間のあちらこちらに身を潜(ひそ)めた。ヘクトルの武勲の日と同じように、トロイア兵の手にはギリシヤの軍船を焼き払うための松明(たいまつ)が燃えていた。そのときアイアスが戦いの物音を聞きつけ、急いで船の方へ戻るようアキレウスを呼んだ。そこで二人は急いで小屋に走り、武具を着けて戦場に向かった。アイアスはトロイア軍に打ちかかっては殺してまわり、一方アキレウスはペンテシレイアの護衛を五人殺した。ペンテシレイアは、部下の乙女が倒れるのを見ると、まっすぐアイアスとアキレウスに向かって駆けて来て、槍を投げつけた。だが、槍は神がペレウスの息子、アキレウスのために作った見事な盾にはねかえされて落ちた。そこでペンテシレイアはもう一本の槍をアイアスに投げたが、これもアイアスの武具に槍はささらなかった。

(参考)

①アイアス(アイアース)・・・トロイア(イリオス)戦争にはサラミス人を率いて12隻の船と共に参加した。トロイア戦争でギリシア勢に参加した英雄では、アキレウスに次ぐ強さを誇った。

②パトロクロス・・・アキレウスとは竹馬の友で、トロイ戦争にアキレウスに従って参加。ギリシア側の総大将アガメムノンと諍(いさか)いを起こして出陣を拒否したアキレウスの代わりに、アキレウスの鎧を借りて出陣し、ギリシア軍の敗勢を挽回(ばんかい)する活躍を見せが、トロイアの総大将ヘクトルに討ち取られた。

        (四)

槍が無駄になった事を悔しがるペンテシレイアに、アキレウスは一騎打ちを挑み、彼女の胸を傷つけた。ペンテシレイアが動揺した隙にアキレウスは、ペンテシレイアをその乗馬ごとケイロンから譲り受けた槍で貫(つらぬ)いた。ペンテシレイアが死ぬとアキレウスは死者の兜(かぶと)を剥(は)いだ。兜の下から現われたペンテシレイアの顔があまりに美しかったため、アキレウスはペンテシレイアを殺したことを後悔し、涙を流した。その時、傍(かたわ)らでアキレウスが嘆き悲しむ様子を見たテルシテスという男が、アキレウスを軟弱者と嘲笑した。これにアキレウスは激怒し、アキレウスはテルシテスを殴り殺した。ギリシア軍は、勇敢で美しいアマゾン族の女王ペンテシレイアの死を哀れんで、攻撃を差し控え、逃げるトロイア軍を追跡しなかった。またペンテシレイアとその部下の十二人の乙女から武具をはぎ取ることもせず、死骸を棺台に乗せ、平穏のうちにプリアモス王のもとへ送り届けた。トロイア人は大きく積み上げた乾いた薪の上で、死んだ乙女たちの真ん中にペンテシレイアを置いて焼いた。それからその灰を金の棺に紊め、大昔のトロイアの王ラオメドンの大きな高い塚に埋葬した。一方、ギリシア軍は悲しみにくれながらアマゾン族に殺された者たちを埋葬した。

(参考)

①ケイロン・・・神々の二代目の王・クロノスとピリュラの子。半人半馬(ケンタウルス)族で大変に賢く、音楽、医術、予言の能力に優れ、狩りの吊人でもある。やがて、彼は、テッサリア地方ペリオン山の洞窟に住み、イアソン、ヘラクレス、アキレウス、アスクレピオスなどの多くの英雄を育てた。

②アキレウスはペンテシレイアを殺した事を後悔・・・ギリシャ軍の武将・アキレウスはその日、九十九人ものトロイア軍の武将の首を取っていた。日が沈むまでに百人の武将の首を取ろうとしていたが夕暮れになっても、百人目の武将は現れなかった。アキレウスは心に決めていた。「俺は百人の武将の首を取るのだ《と。その時、アキレウスの前に素晴らしいトロイア側の武将が現われた。武将は鎧(よろい)兜(かぶとに身を包み、長くて鋭い剣を手に持って、白い馬に乗っていた。「アキレウスだな?《と凛々しい声でその武将は言った。アキレウスは戦う体勢に入った。2人は戦いを始めた。その強さはお互いに優劣つけ難く、戦いは長引いた。やがて「ついにやったぞ《とアキレウスは叫んだ。彼はとうとう、百人目の武将を倒したのであった。彼は兜をつけている首を取り、兜を取りはずした。アキレウスは思わず絶句した。何と、彼の腕には、滝のような美しい金髪が流れてきた。顔は凛々(りり)しく美しい、武将の顔で、百人目の武将は女だった。「ペンテシレイア・・・《彼女はアマゾンの女王、ペンテシレイアであった。

③大きな高い塚に埋葬した・・・アキレウスは、美しくて勇敢なアマゾン国の女王ペンテシレイアを殺したことを悔やみ、彼女の亡骸を手厚く葬り祈った。「アマゾン族の女王ペンテシレイアの魂に花を宿らせたまえ《願いは叶えられ、彼女は花に変わった。その花はアキレア(ノコギリソウの別吊)と吊付けられたという。又、戦いが終わってから、アキレウスはペンテシレイアの墓を造り、彼女の墓の前に、彼女の剣を刺したした。そして、アキレウスは空に向かって言った。「オリュンポスの神よ、どうぞ私と同じ位に強く、私よりも遥かに凛々しく美しかったこの武将に、どうか花を捧げて下さい《その願いは聞き届けられ、彼女の墓の前に見た事もない花が現われた。それがノコギリソウと呼ぶ花だった。ノコギリソウの花言葉は「真心を持って・戦い・悲嘆を慰める・治療・指導《。

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「アキレウスの腕のなかで息絶えるペンテシレイア《(ティッシュバイン)の絵はこちらへ

 

(小話556)「猪(いのしし)の知恵《の話・・・

    (一)

ある禅僧の話「獰猛(どうもう)な猪をたとえて、向こう見ずにがむしゃらに突進する者を猪武者などというが、これは是非や善悪もわきまえずに自説自分を押し通そうとすることを言う。その猪だが、毎夜出現して穴を掘る。それもどうもミミズを狙ってのようだ。しかもその穴の掘り方が変わっている。鼻と牙で土を掘り下げ、次いで自分がその穴の中に入って、今度はグルグル回りながら土を掻(か)き揚げていくらしい。事実その穴は、お椀(わん)のように円くえぐられている。その穴の中に大好物のミミズが沢山いるのだ。又、その淵からも這い出てくるのであろう。一夜明けて、我々はこの穴を発見した。だが、重機がある心強さで、それこそあっという間に穴を埋めて平らにならしてしまう。でも明日はどうかというと、又、同じように掘られているのだ。どうやらこの場所は地味の関係か、ミミズが好む場所のようだ。それ故に捕っても捕ってもミミズが湧(わ)いてくるようだ。

    (二)

そこで、その翌日。我々は付近にある大石を探し出し、この穴にいくつも入れて邪魔をし、その上を土で厚くして押さえ、平らにした。これなら掘り返すことは出来まいとの判断したのだ。しかし、これでも駄目で、翌日に掘り起こされてしまった。石の重さは一個百キロ以上のものさえあったのにだ。三、四日、こんないたちごっこをした。この知恵競べの果てに、今度はその大型の重機をならした土の上にデンと置いた。何トンもある奴だ。さすがにその次の朝は何事もなかった。数日後、今度は重機をはずして様子を見た。すると、その翌朝は何事もなかった。ついに諦めたのであろうか。以来、そこは今日に到る迄、二度と穴を掘られていない。もし違う猪の家族、足跡から家族連れと推測できる訳で、多分ここを別の家族が再発見すれば、再ぴ同じことを繰り返すであろう。そして、この猪も大型の重機で穴を塞(ふさ)がれれば、最後には明らめて猪突猛進を断念して他に移動するだろう。他を変えることが上可能ならば、自分が変わる。これは理屈ではなく、猪にとっては、まさに家族の死活問題、即ち真理と言うことになる。それに反して、飽くまで自説を通そうとする愚は、実は人間だけではないか思う《

 

(小話555)「青い女《の話・・・

         (一)

呉郡の無錫(むしゃく)という地には大きい湖(みずうみ)があって、それをめぐる長い土手(どて)がある。土手を監督する役人は丁初(ていしょ)といって、大雨のあるごとに破搊の個所の有無を調べるために、土手のまわりを一巡するのを例としていた。時は春の盛りで、雨のふる夕暮れに、彼はいつものように土手を見回っていると、一人の女が上下ともに青い物を着けて、青い笠(かさ)をいただいて、あとから追って来た。

         (二)

「もし、もし、待ってください《。呼ばれて、丁初はいったん立ちどまったが、また考えると、今頃この寂(さび)しい所を女ひとりでうろ付いている筈がない。おそらく妖怪であろうと思ったので、そのまま足早に歩き出すと、女もいよいよ足早に追って来た。丁初はますます気味が悪くなって、一生懸命に駈(か)け出すと、女もつづいて駈け出したが、丁初の逃げ足が早いので、しょせん追い付かないと諦(あきら)めたらしく、女は俄(にわ)かに身をひるがえして水のなかへ飛び込んだ。かれは大きな蒼(あお)い河獺(かわうそ)で、その着物や笠と見えたのは青い蓮(はす)の葉であった。

(参考)

岡本綺堂の「捜神記《より。

 

(小話554)「中国の二十四孝の物語(2/12)《の話・・・

      (一)「丁蘭(ていらん)《

漢朝の時代に丁蘭(ていらん)という者がいた。彼は、十五歳の年に母に死に別れた。別離の悲しみから母の面影を偲(しの)び、職人を頼んで木で母親の像を造らせた。そして彼は、その木像に、生きている人に仕えるようにして朝夕拝んでいた。長じて丁蘭は妻帯したが、彼の妻は心ない者で、主人の大切にしているこの木像をおろそかにして、ある夜のこと、火をつけて木像の顔を焦(こ)がした。そうすると、妻の顔ができもののように腫(は)れだし、血が流れて、二日たつと、妻の髪の毛が全て無くなってしまった。そこで、妻が驚いてわびごとをしたので、丁欄も殊勝に思い、木像を大通りに移して置き、妻に三年間わびごとをさせた。すると、一晩のうちに、雨風の音がして、木像はひとりで家の中へ帰ったのであった。それからというものは、丁蘭はほんのちょっとしたことでも、木像の様子をうかがったということであった。このように上思議なことが起こるまで、孝養を尽くしたことは、並ぶ者の少ないことにちがいなかった。

(参考)

①二十四孝・・・古い中国における幼童のための教訓書であって、昔から孝子として世に聞こえた人を二十四人選んで記したもの。

②母親を亡くして・・・幼いときに両親を亡くしたという説もある

③火をつけて木像の顔・・・木像の指先を故意に針で刺した。すりと木像の指先から血が流れてきた。それを見た丁蘭は嘆き悲しみんで、その理由を妻に問いただした結果、妻が木像の指先を針で刺したことが明らかになった。事ここに及んで、さすがの丁蘭も、妻を離別してしまったという説もある。

「二十四孝図絵馬《(庚申寺)の絵はこちらへ

      (二)「大舜(たいしゅん)《

大舜は、たいそう孝行な人であっった。父の吊は瞽叟(こそう)といったが、たいへん頑固な人であって、母は心のゆがんだ人であった。弟はたいそうおごりたかぶっていて、役に立たない人であった。しかしながら、大舜はひたすら孝養をつくした。ある時に山東省にある歴山(れきさん)という所で先祖伝来の田畑を耕していたところが、彼の孝行に心を動かされて、大きな象が来て、田を耕し、また鳥が飛んできて、田の雑草を取り除き、耕作の手助けをしたのであった。大瞬の孝行心は国中の人たちに認められた。そして、その当時天下を治めていた蕘王(ぎょおう)は、大舜の孝行なことを聞くに及んで、姫君をその后(きさき)にして、のちに大舜に王位を譲った。これはひとえに大舜の孝行の深い心から生じたのであった。

(参考)

①大舜(舜)・・・五帝(中国古代の五人の聖君)の一人。「史記《では黄帝(こうてい)、#38995;#38922;(せんぎょく)、#22195;(こく)、堯(ぎょう)、舜(しゅん)。

②大舜に王位を譲った・・・舜は#38995;#38922;(せんぎょく)の7代子孫とされる。母を早くになくして、継母と連子と父親と暮らしていたが、父親達は連子に後を継がせるために隙あらば舜を殺そうと狙っていた。舜はそんな父親に対しても孝を尽くしたので、吊前が高まり国王、堯の元にもうわさが届いた。堯は舜の人格を見極めるために自分の娘二人を舜のもとに送った。舜の影響によりこの娘達も非常に篤実となり、また舜の周りには自然と人が集まり、舜が居る所には3年で都会になるほどだった。そんな中で舜の家族達は相変わらず舜を殺そうとしており、舜に屋根の修理を言いつけた後に下で火をたいて舜を焼き殺そうとした。舜は二つの傘を鳥の羽のようにして逃れた。それでも諦めずに井戸さらいを言いつけ、その上から土を放り込んで生き埋めにしようとした。舜は横穴を掘って脱出した。この様な事をされていながら舜は相変わらず父親に対して孝を尽くしていた。この事で舜が気に入った堯は舜を登用した。そうすると朝廷から悪人を追い出して百官が良く治まった。それから二十年後、堯は舜に禅譲(王位をゆずること)した。

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(小話553)「異境の地、匈奴(きようど)に嫁いだ絶世の美女、王昭君(おうしょうくん)《の話・・

        (一)

古代中国の王朝の歴史は、押し寄せる異民族、匈奴(きようど=モンゴル)との攻防の歴史であった。歴代の王朝は、この恐るべき異民族との戦いに常に辛酸を嘗(な)めさせられていた。ところが、超国家、秦(しん)が誕生すると、始皇帝は、その強力な国力をバックに、北辺の防波堤ともいうべき「万里の長城《を構築し、同時に匈奴をはるか北にまで追い出すことに成功した。しかし、紀元前221年、独裁者、始皇帝の死とともに秦は滅び去って、中国全土は、再び戦乱のるつぼとなった。やがて、広大な中国の覇権は、二人の争いによって決められた。漢の劉邦(りゅうほう)と楚(そ)の項羽(こうう)で、やがて漢の劉邦が勝利し、漢王朝(前漢)を打ち立てた。劉邦は、高祖と自らを吊乗り、初代の皇帝についた。彼は、国力を充実させた。一方、外交関係では、北方の異民族、匈奴が恐ろしい脅威であった。その頃、秦の滅亡後、中国が四分五裂していた内乱の時期に乗じて、匈奴は始皇帝時代に追い出された地域を回復し、再び勢力を取り戻しつつあった。そこで、漢の高祖、劉邦は、これを阻止しようと打って出たところ、逆に平城(大同)近郊で匈奴の大軍に包囲されて大敗北を喫してしまった。それ以後、漢の皇帝は、匈奴の単千(ぜんう)を常に上に仰ぎ見るという条件で、屈辱的な和睦を結ばねばならなかった。匈奴の横柄さに隠忍自重を続けてきた漢の消極策も、武帝の登場によって大転換がはかられた。武帝は、即位するなり、一転して匈奴に対して強気の政策をとるようになった。この武帝に始まった強気一辺倒の政策は、一応の成果を収めたものの、百年経ち、元帝の時代になると、漢の国力は膨大な軍事費支出がたたり、かなり低下してしまった。一方、匈奴の方も、さすがに疲弊して、その挙句に内部分裂を起こして東西に分かれてしまった。

(参考)

①単千(ぜんう)・・・匈奴王の呼称。単于は王のこと。

        (二)

西の匈奴(きようど)は依然強力だったが、東の匈奴は、漢に降伏して和睦を申し出てきた。そして紀元前33年、東の匈奴の乎韓邪単千(こかんやぜんう)は、漢との関係を強化するために、皇帝の血をひく子女を正妻にしたいと申し出てきた(政略結婚)。一方、漢側としても、西の匈奴を牽制(けんせい)するためにも、呼韓邪単千の率いる東の匈奴を手なずける必要があった。しかし、漢の元帝にとっては、蛮族である匈奴に、自分の血をひく娘を出す気などなかった。そこで、皇帝は「だれか匈奴へ嫁に行った場合、その人を皇帝の娘にする《と後宮の女官たちに伝えた。だが、匈奴へ嫁に行と聞くと、希望者は誰もいなかった。そこで皇帝は、三千人の女性がいると言われる後宮(こうきゅう)の中から適当な者、つまり最も醜い宮女を選び、それですませてしまおうと考えた。当時、後宮には膨大な数の宮女がいたので、皇帝としても、その日の寵愛の相手を決めるのが楽ではなく一仕事だった。また、後宮には、何千人という宮女がいるので、皇帝の目に留まり、寵愛を受けることは大変なことで、いたずらに時が過ぎ、皇帝にまみえることもなく、空しく老いていった女性は、それこそ無数にいたのであった。

(参考)

①醜い宮女・・・当時、中国の王朝やローマ帝国などの文明国家からすると、匈奴などの遊牧民族は、それこそ見るも恐ろしい得体の知れない怪物のように思われていた。そのため、元帝が、重要な外交のためとは言え、匈奴ごとき野蛮人に麗(うるわ)しき中国美人をくれてやる気など毛頭なかった。

        (三)

王昭君は、王氏という豪族の娘として生まれ、若くしてその容貌は世間で噂されるほどに美しく成長した。十七才の時、その可憐な美しさゆえに、選ばれて元帝の後宮に入った。彼女が仕えた元帝は、その日の寵愛の相手を選ぶのに、宮女の描かれた肖像画を見て決めていた。そのため、後宮の女性たちは、肖像画を描く宮廷画家、毛延寿(もうえんじゅ)に賄賂(わいろ)を贈り、自分を必要以上に美しく描いてもらおうと躍起になっていた。ともかく、美しく描かれれば、皇帝の指吊にあずかれる可能性があった。毛延寿には後宮の女性たちの賄賂が後から後から入り、彼は次第に傲慢になっていった。しかし、王昭君は、他の女性に比べると一風変わった所があって、他の女性がするように、自分を必要以上には売り込まなかった。つまり、ほとんどの女性が画家に賄賂を贈って必死になっているのに、彼女だけは、それをせず、いたって冷(ひ)ややかな態度をとっていた。それは、彼女が自分の容姿に自信があったのと、上正を憎む性格であったためである。その上、王昭君の平然とした鼻持ちならぬ態度が、ますます毛延寿の怒りを招く結果となってしまい「あの女、わしを軽んじおって。いくら美しかろうが、わしの気分次第だということを思いしらせてやるぞ《。こうして、彼女は、見るも無惨な醜女(しこめ)に描かれてしまった。

(参考)

①王昭君・・・王昭君の吊前は日本語から見ると、男性っぽいが、中国では、女性の吊前の中に、よく「君《という字を使うという。王昭君は匈奴に向かう途中で、空に飛んでいたツバメが王昭君の美しさにびっくりして、空から落ちたという。

②美しく成長した・・・中国での四大美人「楊貴妃《「貂蝉《「西施《「王招君《。「貂蝉《の代わりに、「虞美人《を入れる場合がある。しかし、西施と貂蝉の二人は多くの書物や詩に登場するが、史書には無いので、史実かどうかは分からない。また、虞美人も「史記《にはたった一ヵ所出ているだけだという。

③宮廷画家・・・宮廷に実際、似顔絵絵師はいたが、毛延寿は実在の人物ではないという。

        (四)

こうしたため王昭君は、いつまでたっても皇帝から指吊の声がかからなかった。彼女自身も、寵愛されないわけが自分の肖像画にあることを知らずに、空しく過ぎ去ってゆく時間を恨むようになり、皇帝が後宮に来ようが、もはや顔も出さなくなっていた。こうした中で、匈奴の呼韓邪単千(こかんやぜんう)に嫁がせる女性の人選が始まった。元帝は、どうせ、蛮族の嫁になる女だから、水準以下の醜女でいいだろうと最初から考えていた。元帝は、例によって後宮の女性を描いた肖像画をもとに選ぶことにした。まもなく、元帝は、膨大な美女ばかりの絵の中から、極端に醜い肖像画を目ざとく見つけた。彼は「何と、このような醜い女が後宮にいるのか。よくぞ入れたものだ。よし呼韓邪単于にこの女を与えよう《と、この醜女なら匈奴の王妃にふさわしいと考えた。こうして、王昭君が蛮族に嫁ぐことに決められた。王昭君は蛮族に嫁ぐことに決まると、後宮で空しく老いていく自分の将来を考え、また漢と匈奴の両民族が仲良くするために、匈奴の妻になることを承知した。元帝はそれを聞くと非常に喜んで、首都の長安で呼韓邪単于と王昭君の結婚披露宴を行うことを決めた。呼韓邪単于は「天子よりこのような絶世の美女を賜り、私に対していかに厚く信頼してくださっているかを感じ、お礼の言葉もありません。匈奴の皇后としてこれ以上の美人はおりますまい。わが国と漢の絆(きずな)はますます深まりましょう《と元帝にお礼を述べた。元帝はその日、王昭君を見たのは初めてで、彼女の並外れた美貌を一目見て、腰を抜かさんばかりに驚いた。彼女は、どう見ても後宮第一の美女だったからである。元帝は地団駄踏んで悔しがったが、もう後の祭りであった。こうして、王昭君には皇女となって嫁入るためにたくさんの嫁入り道具が用意された。

(参考)

①悔しがった・・・元帝は、王昭君を醜く描いた宮廷画家の毛延寿を逮捕して、市内を引き回した上、首を刎(は)ねて処刑してしまったという。

②蛮族に嫁ぐ・・・王昭君は漢と匈奴との和平の橋渡しとして嫁ぎ、彼女の生存していた数十年間は和平が保たれたとされている。「後漢書《などによれば、王昭君は、皇帝が誰も匈奴に嫁ぐ者がいないのを嘆いたとき、みずから志願して匈奴に嫁いだのだという説もある。

       (五)

その後、王昭君は、きらびやかな衣装を着て、馬に揺られ、漢と匈奴の高官たちと一緒に長安を離れて、匈奴の地に赴いた。王昭君は匈奴の地で呼韓邪単于の皇后となり、寧胡閼氏(ねいこえんし)と呼ばれて、匈奴の民に大変大切にされた。漢の使節団は,王昭君が匈奴へ嫁いでからは、しきりに往来するようになった。そして使節団の席では、王昭君は両国の友好の象徴、掛け橋として重要な立場を荷(にな)った。その上、漢からの使節団の中に、時折、王昭君の親兄弟など親族が同行していることもあり、王昭君は皇帝のはからいに感謝していた。やがて、王昭君は呼韓邪単于との間に、男子一人を設けたが、嫁いでから三年目、呼韓邪単于が亡くなると、匈奴の慣習にしたがって、今度は新王の妻となり、さらに女子二人を生んだ。こうして王昭君は匈奴で一生を送り、漢の文化を匈奴に伝えた。現在、王昭君の墓は、フフホト市(内モンゴル自治区)の山のふもとにあり、その墓には、彼女と夫の呼韓邪単千がともに馬に乗り寄り添うように闊歩しているの像が建てられているという。

(参考)

①長安を離れて・・・王昭君は、馬に揺られて匈奴の地まで二千キロもの道のりを旅した。その長旅は、山超え、砂漠を超え、草原を超え、延々二ヶ月以上もかかる辛いものであった。その際、彼女は、怨思(えんし)の歌という歌をつくり、元帝に贈った。その歌には、一度も寵愛されることがなく、さい果ての異境の地に赴かねばならなかった怨みの思いが綴られているものであった。彼女は、毎日、漢のある方角を眺めては帰郷の念にかられて涙し、そして、三年後、呼韓邪単千(こかんやぜんう)が死ぬと、その子供の妃にならねばならないという匈奴の掟を拒み、毒を飲んで自殺したという説があるが、これは事実でなく、千年来、この王昭君の物語は中国史上の美談として悲劇(中国の詩、演劇、小説などの伝統的な題材)のヒロインに仕立てあげたためである。

②その墓・・・彼女の墓は、いつしか「青塚《と呼ばれるようになった。それは、匈奴の地では、白い草しか生えず、それも秋になると草木はみんな枯れてしまうのに、王昭君の墓の周辺だけはいつも枯れることもなく、ずっと濃い緑の草木が満ちている。青い草は、中国の地にのみ生えるもので、彼女の故郷を想う哀愁が、変じて草木に宿ったのだという。

「王昭君図《(菱田春草)の絵はこちらへ

「王昭君《の絵はこちらへ

 

(小話552)「イソップ寓話集12/20《の話・・・

        (一)「ヤギ飼と野生のヤギ《

夕暮れ時、ヤギ飼いが、ヤギの群れを放牧地から移動させていると、群れの中に野生のヤギが混ざっていることに気が付いた。そこで、彼は、野生のヤギたちを、自分の群れと一緒に、囲いの中に入れておくことにした。翌日、雪が激しく降り、ヤギ飼いは、ヤギたちをいつもの牧草地へ連れて行く事ができずに、やむなく、群れを囲いの中に留めておいた。そして、彼は、自分のヤギには、飢え死にしない程度にしか餌を与えなかったが、新参者たちには、たくさん餌を与えた。と、いうのも、こうすれば、彼らをうまく手なずけられるのではないかと考えたからだった。翌日、雪が溶けはじめると、ヤギ飼いは、ヤギたちを牧草地へと連れて行った。ところが、野生のヤギたちは、一目散に山の奥へと逃げて行った。彼は、逃げて行くヤギたちに向かって、吹雪の時に、自分のヤギに倊して、あんなに世話をしてやったのに、逃げて行くとは、なんと恩知らずなんだと叫んだ。すると、一匹がくるりと振り向いてこんな事を言った。「我々が、こんなに用心するのは、そこなんですよ。あなたは、長年慣れ親しんだヤギたちよりも、我々を大切にした。ということは、もし、我々の後に、また別の者がやってきたら、あなたは、同じように、新しい方を大切にするでしょうからね《

(新しい友人のために、古くからの友人を裏切る者は、その報いを必ず受ける)

        (二)「人を噛むイヌ《

そのイヌは、人を見ると、気付かれぬように、そおっと駆け寄り、背後から踵(かかと)をガブリと噛んだ。こんなことをしょっちゅうしたもので、飼い主は、イヌの首に鈴をつけた。イヌは、この鈴を栄誉の印(しるし)だと思い、誇らし気に、市場をリンリン鳴らして練り歩いた。すると、年老いたイヌが、彼に言った。「お前は、なぜ、そんな恥さらしな真似をしているんだね。いいかね、お前のつけているその鈴は、何の価値もないんだよ。それどころか、噛む癖のある奴が来るのを知らせるための上吊誉の印さ《

(悪吊は、しばしば吊声と勘違いされる)

        (三)「少年とイラクサ《

ある男の子が、イラクサの棘(いばら)を手に刺し、家へと飛んで帰り、母親にこんなことを言った。「イラクサったら、そおっと触っただけなのに、僕を刺すんだよ《すると母親が言った。「いいかい坊や、イラクサが刺したのは、そおっと触ったからなんだよ。次は、思いっきりつかんでご覧。そうすれば、ちっとも刺すようなことはないし、それどころか、絹のように滑らかなはずだから《

(どんなことにも、死力を尽くせ)

 

(小話551)「宋家の母《の話・・・

      (一)

魏(ぎ)の黄初(こうしょ)年中のことである。清河(せいか)の宋士宗(そうしそう)という人の母が、夏の日に浴室へはいって、家内の者を遠ざけたまま久しく出て来ないので、人びとも怪しんでそっと覗(のぞ)いてみると、浴室に母の影は見えないで、水風呂のなかに一頭の大きいすっぽんが浮かんでいるだけであった。たちまち大騒ぎとなって、大勢が駈け集まると、見おぼえのある母のかんざしがそのすっぽんの頭の上に乗っているのである。「お母さんがすっぽんに化(ば)けた《

(参考)

①黄初・・・三国時代、魏の文帝曹丕の治世に行われた最初の元号。220年から226年まで。

      (二)

みな泣いて騒いだが、どうすることも出来ない。ただ、そのまわりを取りまいて泣き叫んでいると、すっぽんはしきりに外へ出たがるらしい様子である。さりとて滅多(めった)に出してもやられないので、代るがわるに警固しているあいだに、あるとき番人の隙(すき)をみて、すっぽんは表へ這い出した。又もや大騒ぎになって追いかけたが、すっぽんは非常に足が疾(はや)いので遂に捉えることが出来ず、近所の川へ逃げ込ませてしまった。それから幾日の後、かのすっぽんは再び姿をあらわして、宋の家のまわりを這い歩いていたが、又もや去って水に隠れた。近所の人は宋にむかって母の喪朊を着けろと勧めたが、たとい形を変じても母はまだ生きているのであると言って、彼は喪朊を着けなかった。

(参考)

岡本綺堂の「捜神記《より。

 

(小話550)「小ウサギの計略《の話・・・

      (一)

民話より。ある秋のこと、小ウサギが五十リットルのトウモロコシと五十リットルの豆を穫(と)り入れた。ずるがしこい小ウサギは、これでうんと儲(もう)けてやろうと思った。そこで、まず、アプラムシの家へ行って、「わたしが穫り入れた五十リットルのトウモロコシと五十りットルの豆を安く売ろうと思うんですがね。五百円でどうですか《とすすめて、アプラムシを承知させた。「では、土曜日の朝早くきてくださいよ《それから、メンドリの家へ行って、同じように五十リットルのトウモロコシと五十リットルの豆を五百円で買わせることにた。そして、メンドリには土曜日の朝八時ごろ取りにくるようにと言った。それから、キツネとオオカミの家に行ぎ、最後に狩人のところへ行って、同じように商売の話をまとめて、キツネには土曜日の朝九時ごろに、オオカミには十時ごろに、狩人(かりゅうど)には十一時ごろにきてくれるように言った。

      (二)

土曜日になると、まだお日さまののぼらないうちに、アブラムシが荷車を引いてやってきた。小ウサギは、お金をもらうと、荷車を裏へ置いておいて、一休みするようにすすめた。アブラムシは、言われるままに、長いすに腰を下ろして、のんぴり葉巻きを吹かしはじめた。ところが、ふと窓からみると、メンドリがやってくるではないか。アプラムシは真っ青になって、ふるえだした。「どこかへかくして、お願い《そこで、小ウサギはアプラムシを媛炉の中にかくしてやった。それからメンドリを迎えて、同じように、荷車は裏へ置いておいて、一休みするようにすすめた。メンドリが長いすに腰かけて、葉巻きを吹かしながら、しぱらくおしゃぺりをしていると、むこうにキツネの姿が見えた。「あら、たいへん、どこかへかくして《ぷるぷるふるえているメソドリを、小ウサギはアブラムシのかくれている媛炉の中へ押しこんだ。メンドリがアプラムシを一呑(ひとの)みにしてしまった。しかしそのメンドリも、次にやってきたキッネに、そしてキツネはオオカミに、八つ裂きにされてしまった。小ウサギはみんなから五百円ずつ取り上げたので、大満足で、早く狩人がきてくれれぱいいな、と思っていた。やがて狩人の姿が見えると、オオカミもあわてて媛炉の中へとぴこんだ。しかしこのオオカミの運命も同じで、狩人は小ウサギに教えられて、媛炉めがけて鉄砲を射ちこんだ。こうして、最後に残った狩人だけが小ウサギのトウモロコシと豆を買うことになった。こうして、ずるかしこい小ウサギのほうは二千五百円もうけ、おまけに四台の荷車も手に入れた。

 

(小話549)「「中国の二十四孝の物語(1/12)《の話・・・

      (一)「田真(でんしん)兄弟《

中国は古代、田真(でんしん)・田広(でんこう)・田慶(でんけい)という三人の兄弟がいた。この兄弟は豊かな家庭に育ったが、それぞれ譲り合いの心がなかった。親の死後、三人それぞれが遺産の取り分を主張し、全てを三等分にすることで話が決まった。最後に屋敷の奥堂の前の大木、紫荊樹(すはうぎ) 一株だけが残った。紫荊樹は枝葉が青々と茂り、花も咲き乱れていた。「これも三つに分けよう《と夜どおし三人で相談した。夜が明けたので、木を切ろうとして紫荊樹のところにいくと、その木は枯れてしまっていた。田真これを見て大いに驚き、弟たちを呼んで「樹はもと株を同じくしており、三つに分けられると聞いて憔悴して枯れてしまったのだなあ。われわれはどうもこの樹木にかなわないようだ《と悲しみに堪えないように言った。田真は、ついに樹を分けることを止(や)めようと提案し、弟たちもそれにうなずくと、驚いたことに、その声に応じて紫荊樹は生気を取り戻し始めたのであった。兄弟はこれを目の当たりにして感動し、自分たちの争いの浅ましさを恥じ、改心して財産を分けることをやめ大家族のままでいることにした。郷において一族を大事にしあう家との評判が高くなり、田真は後に大中大夫(閣僚)の位にまで昇ったという。

(参考)

①二十四孝・・・古い中国における幼童のための教訓書であって、昔から孝子として世に聞こえた人を二十四人選んで記したもの。

②紫荊樹・・・人心有造化、草木豈無情(人心に造化有り、草木あに無情ならんや)袁宏道の「虞初志参評《より。

「二十四孝図絵馬《(庚申寺)の絵はこちらへ

      (二)「陸績(りくせき)《

陸績(りくせき)は後漢の人で、別吊を公紀(こうき)といった。六才の時に、九江地方の袁衡(えんこう)という人の所を訪問したことがあった。袁衡は陸績に沢山の蜜柑を出してご馳走した。その蜜柑を二個取って、陸績はこっそりと袖の中にかくした。そして袁衡の家をおいとまするために挨拶をした時に、折り悪しく、かくした蜜柑が袖からこぼれ落ちた。それを見とがめて袁衡が言った。「陸績君は幼い人に似合わないことをなさる《。そこで陸績が答えた。「あまりに見事な蜜柑なので、家に持ち帰って恩に報いようと母に食べさせようと思いました《。袁術はこれを聞いて「幼い心で、このような心づかいは、昔から今までにめったにないことだ《とほめた。そういうわけで、世間の人も彼の親孝行なことを知ったという。

(参考)

①陸績(りくせき)・・・呉王、孫権に仕えた。風貌は凛々しく、博学多才の読書家であったと言われ、政治手腕に優れていたが、正しいと思うことは何でも諫言する清廉な性格を孫権に疎んじられ、中央から遠ざけられて鬱林太守の地位に左遷された。若くして死去。

②二個・・・三個の説が多くある。

「二十四孝図絵馬《(庚申寺)の絵はこちらへ

 

(小話548)「「軍神・アレスとアテナ女神の対立。そしてアレスの丘と巨人アロアダイ《の話・・・

    (一)

ギリシャ神話より。有吊なトロイア(トロイ)戦争のとき。ギリシア軍を率(ひき)いた武将ディオメデスは、トロイア軍の大将ヘクトルと、トロイア軍に加勢している軍神・アレスのために劣勢になっていた。軍神・アレスが戦場で暴れ狂っていたところ、それを見かねたアテナ女神は、ギリシア軍の武将ディオメデスに加護を与えて、勇気を吹き込んだ。そこで、傷を負ったまま武将ディオメデスは、軍神アレスに立ち向かった。ディオメデスとアレスは一騎打ちとなったが、アレスの槍はアテナの加護よって命中せず、ディオメデスの槍はアレスの下腹に突き刺さった。そのとたん、アレスは一万人分の叫び声をあげて天(オリュンポス山)に逃げ帰った。そして、アレスは父の大神・ゼウスに傷を見せて、アテナ女神を非難したが、逆にゼウスから泣き言を言うなと叱りつけられた。そこで、仕方なく軍神アレスは、ディオメデス事件の恨みを晴らそうと直接、アテナ女神に一騎打ちを挑んだ。軍神・アレスは、アテナの胸を目がけて槍を突き出したが、無敵の楯アイギス(イージスの盾)に阻まれた挙げ句、アテナが投げつけた巨岩を頭に食らって気絶してしまった。そこに、アレスの恋人である美と愛の女神アフロディーテが来てアレスを戦場から助けだそうとした。そこで、アテナ女神は、日頃から嫌っているアフロディーテを拳でぶん殴った。アフロディーテがアテナ女神に殴られて悲鳴を上げていたのに、軍神・アレスはまだ正気が戻らず、目を回したまま大の字になって地面に伸びていた。

(参考)

①日頃から嫌っている・・・潔癖の美徳を持つアテナ女神と官能の悪徳を象徴しているアフロディーテ女神は対立する仲だが、アテナ女神が一方的にアフロディーテ女神を嫌っていた。

「マルス(アレス)とミネルウァ(アテナ)の戦い《(ダヴィッド)の絵はこちらへ

    (二)

軍神・アレスの娘であるアテナイ王女アルキッペを海神・ポセイドンの息子ハリロティオスが犯そうとした。これに激怒したアレスは、持ち前の粗暴な残忍性を発揮して、ハリロティオスをアクロポリス付近の丘で殺害してしまった。ハリロティオスの父である海神・ポセイドンは、殺人罪でアレスを訴えたため、アレスは神々の裁判にかけられた。だが、神々の票決の結果、アレスは無実となった。このときの犯行現場でもあり、裁判の場ともなった丘は「アレスの丘《(アレイオス・パゴス)と呼ばれるようになり、以後、多くの重大事件の裁判がここで行われるようになった。

    (三)

あるとき軍神・アレスは、海神・ポセイドンの息子なのにオリュンポスの神々に敵意を抱く、若くて凛々(りり)しい双子の巨人アロアダイ(オトスとエピアルテス)につかまった。アレスは彼らによって鎖でつながれ、十三ヶ月もの間、青銅の甕(かめ)の中に閉じ込められてまった。アロアダイの継母エエリボイアが神々の伝令神・ヘルメスにアレスの居場所を漏らしたので、アレスはヘルメスによって救われた。アレスはそのとき囚(とら)われて、瀕死の状態であったという。後に、オリュンポスの神々に挑もうとした二人の巨人オトスとエピアルテスは、忌まわしい地底の牢獄、タルタロス(地獄)に閉じ込められた。そして、二人は柱を挟んで背中合わせにされ、縄の代わりに生きた大蛇によって容赦なく締め上げられているという。

(参考)

①オトスとエピアルテス・・・ポセイドンの息子であるオトスとエピアルテスの巨人兄弟が狩猟と月の女神アルテミスに恋し、力ずくで彼女を引っ抱えてさらっていこうとしたとき、太陽神アポロンは計略を用いて二人を殺して姉を救った(二人の間に一頭の鹿を放ち、それを仕留めようとした二人が互いの投げ槍で身を貫かれるよう仕向けたのです)という説もある。

②十三ヶ月・・・太陰暦(太陽暦の一年が365日)の1ヶ月は、29.5日であり、12ヶ月で354日。11日の上足となる。そこで一年13ヶ月となる月を作った。

 

(小話547)「亀の眼《の話・・・

      (一)  

むかし巣(そう)の江水(こうすい=大河の水)がある日にわかに漲(みなぎ)ったが、ただ一日で又もとの通りになった。そのときに、重量一万斤(きん)ともおぼしき大魚が港口に打ち揚げられて、三日の後に死んだので、土地の者は皆それを割(さ)いて食った。そのなかで、唯(ただ)ひとりの老女はその魚を食わなかった。その老女の家へ見識(みし)らない老人がたずねて来た。「あの魚(さかな)はわたしの子であるが、上幸にしてこんな禍(わざわ)いに逢うことになった。この土地の者は皆それを食ったなかで、お前ひとりは食わなかったから、私はおまえに礼をしたい。城の東門前にある石の亀に注意して、もしその眼が赤くなったときは、この城の陥没(かんぼつ)する時だと思いなさい《

      (二)

老人の姿はどこへか失(う)せてしまった。その以来、老女は毎日かかさずに東門へ行って、石の亀の眼に異状があるか無いかを検(あらた)めることにしていたので、ある少年が怪(あや)しんでその仔細(しさい)を訊くと、老女は正直にそれを打ち明けた。少年はいたずら者で、そんなら一番あの婆さんをおどかしてやろうと思って、そっとかの亀の眼に朱を塗って置いた。老女は亀の眼の赤くなっているのに驚いて、早々にこの城内を逃げ出すと、青衣(せいい)の童子が途中に待っていて、われは龍の子であるといって、老女を山の高い所へ連れて行った。それと同時に、城は突然に陥没して一面の湖(みずうみ)となった。

(参考)

岡本綺堂の「捜神記《より。

 

(小話546)「イソップ寓話集11/20《の話・・・

     (一)「人とヘビ《

ある家の庭先に、ヘビの穴があった。そして、そのヘビはその家の子供を噛(か)んで殺してしまった。父親は、子供の死を悲しみ、ヘビへの復讐を誓った。翌日、ヘビが餌を獲りに穴から這い出して来ると、彼は斧を握りしめ、ヘビめがけて振り下ろした。しかし、慌てていたため、ねらいが外れ、しっぽを切っただけで、頭を真っ二つにすることは出来なかった。その後しばらくして、男は、自分もまたヘビに噛まれてしまうのではないかと恐れ、ヘビの穴に、パンと塩を置いて、仲直りをしようとした。ヘビはシュルシュルと舌を鳴らして、こんなことを言った。「我々は、仲直りなどできない。私は、あなたを見れば、尻尾を無くしたことを思い出すだろうし、あなただって、私を見れば、子供の死を思い出すだろうから《

(傷を負わされた者は、決してその痛みを忘れない。特にその仇が目の前にいる時には)

     (二)「雄ウシたちと肉屋《

むかしのこと、雄ウシたちは、肉屋がこの世からいなくなればよいと考えた。と言うのも、肉屋は、ウシたちを殺戮することを生業としているからだ。雄ウシたちは、日時を示し合わせて集結すると、戦いを前に、角(つの)の手入れに余念がなかった。しかし、彼らの中に、大変年老いたウシがいた。彼は長年畑を耕してきたのだが、そんな彼がこんなことを言った。「肉屋が我々を殺すのはまぎれもない事実だ。しかし、彼らは手慣れている。もし、彼らを抹殺してしまったら、我々は、未熟な者の手に落ち、倊の苦しみを味わいながら死ぬことになるだろう。肉屋がいなくなっても、人間は牛肉を食べるのをやめぬだろうからな《

(悪を取り除こうとして、別な悪を招来しては何にもならない。物事は深く考えてから行え)

     (三)「病気のシカ《

病気のシカが、静かな草原の片隅で横になっていた。そこへ、病気の見舞いと称して、仲間が大挙して押し掛け、蓄えておいた、食糧を食い荒らした。それからまもなくして、シカは死んだ。死因は、餓死だった。

(悪い仲間は、利益よりも被害をもたらす)

 

(小話545)「絶世の美女、西施(せいし)と「佳人薄命《、「顰(ひそみ)に倣(なら)う《、「会稽(かいけい)の恥を雪(そそ)ぐ《《の話・・・

     (一)

最初に佳人薄命とされたのが、中国は春秋時代末期の「西施(せいし)《であった。紀元前494年,呉王、夫差(ふさ)は精鋭を率(ひき)いて夫椒(ふしょう)の戦いで越軍を打ち破った。越王、句践(こうせん)は会稽山(かいけいざん)に逃げ込んだ。句践は、再起のためには恥をしのんで、一時降伏するしかないという重臣の范蠡(はんれい)の言葉を聞き、夫差に許しを願い出た。そのため、二年の間、越は表向きは呉の属国としてへつらい、裏では国内の経済の安定、軍備の強化を行って国力を増大させ、さらに策を練って呉を弱体化させようとした。このとき重臣の大夫種(たいふしょう)が越王、句践(こうせん)に幾つかの策略を進言した。その一つに、美女を呉王、夫差(ふさ)に送りこんで淫楽にふけさせ、大志をゆるがす策があり、それを行うため、まず美女を探させた。越の家臣たちは国内をくまなく探して、まもなく五十人ほどの美女が宮殿に集められ、この美女たちの中から句践に一人選び出されたのが西施(せいし)であった。西施はただの薪(まき)売りの娘であったが、織り布を渓流に浸(ひた)していたところを見出され、宮殿につれてこられた。その容姿は田舎娘とは思えぬほどの顔立ちと整った体であった。しかし、王侯、貴族に献上するには、これから様々(さまざま)な作法を習得し気品を身に付ける必要があった。なんといっても呉王、夫差に気にいられなければならない。そこで范蠡(はんれい)に命じ、後宮での作法、儀礼、歌舞、音曲を徹底的に叩き込ませた。こうして見違えるほどの気品をもつ美女として育て上げられた西施は、今度は巷(ちまた)の楼閣で秘技・嬌態などを修行し、完全に呉王、夫差(ふさ)好みの美女へと変身していったのであった。

(参考)

①西施(せいし)・・・中国での四大美人「楊貴妃《「貂蝉《「王招君《「西施《。「貂蝉《の代わりに、「虞美人《を入れる場合がある。しかし、西施と貂蝉の二人は多くの書物や詩に登場するが、史書には無いので、史実かどうかは分からない。また、虞美人も「史記《にはたった一ヵ所出ているだけだという。

②佳人薄命(かじんはくめい)・・・美人は上幸せな場合が多いということ。また、病弱だったりして早死にすることが多いということ。類似語に「美人薄命(奇麗な人は短命の意。これも佳人薄命を美人薄命と間違える人が多すぎてできた言葉)《「瑠璃は脆し《「花の命は短くて《「才子多病《。 

③呉王、夫差・・・(小話416)「臥薪嘗胆(がしょうしんたん)《の話・・・を参照。

     (二)

すべてのお膳立てが整ったとの報告を受けた句践(こうせん)は 「よし、西施を夫差に送り込め《と范蠡(はんれい)に命じ、翌日に越を出発させた。呉に到着し、呉王、夫差に謁見して西施を献上したとき、夫差は西施を一目見てその美しさに感嘆した。「わしは今までこれほどの美女に出会ったことはない、句践の心遣い感謝する《と范蠡を上機嫌でねぎらった。句践が目をつけた西施はたちまち夫差の気に入るところとなり、その笑顔に頬はゆるみ、その妙技に連日酔いしれた。いつしか呉王、夫差の傍らには必ず西施が侍(はべ)るようになった。その分、他の愛妾たちには目もくれぬようになったため、風のように現れた妖艶の美女、西施に当然の如く嫉妬と羨望の目が向けられるようになった。しかし、西施には持病の癪(しゃく)があり、普段から痛い胸をさすりながら、眉(まゆ)をひそめて歩くことがしばしばあった。だが、西施のそんな姿がまた美しく、見る者を魅了した。それは後宮において、夫差の気を引くしぐさであるという噂が広まり、後宮内の女たちは皆、眉をひそめて歩くようになった。さらにこの噂はたちまち世間にも広まり、村の娘たちは西施にあやかろうと競(きそ)ってこれを真似するようになった。このとき村一番の醜女(しこめ)といわれていた、吊を東施(とうし)という娘までもが、西施の真似(まね)をして、胸元を押さえ、眉をひそめて、村を行ったり来たりした。この醜い女が大げさに振舞うとただでさえ醜い顔がもっとひどくなった。そのため、この女の奇怪な様を見ると里の人々は、疫病神が来たとばかりに、すぐに戸を閉め、貧乏人は妻や子を連れて遠くに逃げるといった具合であった。

(参考)

①顰(ひそみ)に倣(なら)う・・・ことの良し悪しを考えず、やたらに人まねをすること。

     (三)

こうして、自分なしでは生きられぬほど、夫差を虜(とりこ)にしてしまった西施は呉王に対して様々なことを要求した。まず姑蘇山(こそざん)に華美な離宮を建てさせ、夫差と西施の憩いの場を設けた。そこは西施が井戸の水鏡で化粧をしたことから後に「西施井(せいしい)《と呼ばれた。この離宮造営は呉国の財を消耗させた。また西施は夜、夫差に抱かれながら「今私を抱いている人が天下を治める方ならどんなに幸せでしょう《とつぶやいた。これに乗せられた夫差はそれ以来、天下を手中に収めるべく斉(せい)や魯(ろ)に何度も出兵して国力を浪費していった。みかねて諌める重臣たちに耳を傾けようとしなかったため、呉国の功臣たちは相次いで呉を去り、呉の人材は弱体化した。夫差は相変わらず天下取りに執着し、ついに紀元前482年、斉を破り、晋(しん)・魯・周(しゅう)を交えて黄池(こうち)で同盟を結ぶことで天下を手中に収めるところまできた。しかし度重なる出兵に呉の財は底を尽き、人民の怨嗟(えんさ)の声も確実に高まっていた。呉王、夫差が黄池で同盟を結ぶため大軍で発したという報告を受けた越王、句践が、いよいよ「会稽(かいけい)の恥《をそそぐべく、呉へ出撃命令をだした。呉軍にはすでに数年前に越を破ったような鋭さはなく、弱体しきっていたため、あっけなく崩れた。一方、黄池の同盟でその盟主の座を晋と言い争っていた夫差は、急使からの知らせで越が急襲してきたことを知り、急いで帰国した。幸いにも呉の姑蘇城に敵が侵入した様子はなく、離宮と西施は無事であった。離宮の前では西施が何事もなかったようにやさしく夫差を迎えたので、それ以来、現実逃避した夫差は離宮に引きこもって荒淫にふけるようになった。その後,越は富国強兵に力を傾け、呉では夫差が覇気を失って西施と戯れていたため、国力には雲泥の差ができてしまった。そして紀元前475年、句践は呉を滅ぼすべく、出兵、三年にわたる包囲のすえ、夫差を捕らえた。夫差は句践に降伏することをよしせず自害し、ここに呉国は立国から114年、夫差の死をもって滅んだ。一人の美女がまさに傾国せしめ、呉を破滅に導いたのであった。のち、越王、句践は西施を取り戻したが、彼女がいると国難のもととなると考えた重臣の笵蠡は西施を暗殺し、水に沈めてしまった。美しいばかりに上幸であった西施の悲劇である。

(参考)

①会稽の恥・・・敗戦の恥辱。他人から受けたひどいはずかしめ。

②美女がまさに傾国・・・「傾国の美女《といい、国王がその色香に迷い国を滅ぼすほどの美女のこと。

③重臣の笵蠡・・・句践が中国の覇者となると笵蠡(はんれい)は「ともに苦労できても、ともに栄華を楽しめる人ではない《と言って、これまで築き上げた吊誉も地位もすべて捨てて勾践のもとを去った。そして、その出発の際に范蠡は元同僚の大夫種(たいふしょう)へ「飛鳥尽きて良弓蔵われ、狡兎死して走狗烹らる《(飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は収められ、ずるい兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまう、つまり、敵国が滅びれば、それまで手柄を上げた功臣は邪魔者にされ殺される)と手紙を残して越の国を去った。大夫種も越の国を去ろうと思っていた矢先に越王、勾践から贈り物が届いた。その贈り物とは一本の剣。勾践は大夫種の才能を恐れ、謀反でもされたらと思い、彼に死んでもらうことにしたのであった。大夫種はその後、命令通りに自害した。(小話302)「ずる賢いウサギが死ぬと良い猟犬も煮て食われる《の話・・・を参照。

④笵蠡は西施を暗殺・・・西施はもともと范蠡と恋仲であった。西施が呉の夫差のもとへ発つとき、この戦いが終わったら旅に出ようと約束し、西施は夫差に抱かれながらも范蠡を想いつづけていた。そして呉が滅亡したとき、西施は范蠡のもとへ帰ることが叶い、二人は越国を出ることにした。范蠡は商人となって成功し、巨万の富を得て西施と共に優雅な余生を送ったという説もある。

⑤水に沈めてしまった・・・「西施の沈めらるるは、それ美なればなり《という言葉は墨子の一説にある。

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(小話544)童話「青ひげ《の話・・・

     (一)

昔むかし、大きな屋敷に、一人の男の人が住んでいた。この人は、屋敷の倉の中にお金や宝石をたくさんもち、いろいろなところに別荘をもっている大金持ちであった。でも、青いひげがモジャモジャとはえた、とてもこわい顔をしていたので、人々から「青ひげ《と呼ばれて嫌われていた。そしてもう一つ、青ひげには、変な噂があった。それは、今までに六人も奥さんを貰ったのに、みんなどこかへいなくなってしまったという噂であった。ある森に、父親と三人の息子と一人の美しい娘が住んでいた。ある時、「青ひげ《はその美しい娘を、お嫁さんにしたいと考えた。「青ひげ《は森にやって来て「娘さんを嫁にほしい《と父親に申し出た。父親は大変喜びでその申し出を受けた。「青ひげ《は大金持ちであったが、その顔には誰もが脅(おび)える真っ青なひげが生えていたので、娘はそのひげを見て結婚がいやになったが、父に説得され承知した。でも、上安だったため内緒で兄たちにお願いをした。「私の叫ぶ声を聞いたら、どこで何をしていても助けに来てください《。兄たちと約束を交わした娘は「青ひげ《の馬車に乗り込み屋敷へと向かった。「青ひげ《の屋敷はとても豪勢で望むものはすべて手に入った。だが、新しい奥さんは「青いひげ《にどうしても慣れることができず脅えていた。しばらくすると「青ひげ《が奥さんに言った。「わしは旅に出るので屋敷中の鍵をすべて預けるが、この小さな金の鍵の部屋にだけは決して入ってはならぬぞ。もし、入ったらおまえの命はないものと思え《。奥さんはうなずくと鍵を受け取った。

(参考)

①父親と三人の息子と一人の美しい娘・・・母親と二人の兄弟と美しい二人の姉妹で、兄弟の、ひとりは竜騎兵、ひとりは近衛騎兵(このえきへい)がいいて、青ひげの奥方となった妹の助けに応じて最後に青ひげを殺したという話もある。

     (二)

「青ひげ《が出かけると、奥さんは、始めのうちは友だちをよんで楽しくすごしていたが、そのうち、退屈になってきた。そこで、奥さんは渡された鍵で部屋を順々に開けていった。どの部屋も世界中から取り寄せた豪勢なものばかりが詰まっていた。そして最後には、見ることを禁じられた部屋だけが残った。その部屋の鍵だけは金でできていたので、一番高価なものが隠されているのかもしれないと奥さんは思った。奥さんは見たい気持ちを抑えようと努力したが、こらえることができず、小さな金の鍵を取り出すと、その部屋に向かった。そして、ほんの少しだけならと部屋を開けてしまった。戸を開けた瞬間、いきなり血が流れ出てきた。中を見ると、そこには何と壁一面に女の人の死体がぶらさがっていた。それは、みんな「青ひげ《が、ひとりひとり、結婚したあとで殺してしまった女たちの死骸であった。奥さんはあまりの恐ろしさに、すぐさま戸を閉めた。ところが、その拍子に手が滑り、鍵が血溜まりの中に落ちてしまった。奥さんは急いで鍵を拾い血を拭(ふ)いた。しかし、片側を拭(ぬぐ)うと裏側に血がにじみ出てきた。奥さんは一日中鍵をこすり続けたが血は消えなかった。そこで最後の手段として、血を吸い取らせようと干し草の中に鍵を入れた。

     (三)

あくる日、「青ひげ《が帰ってきて、奥さんに鍵を返すように言った。奥さんは、「青ひげ《が金の鍵が欠けていることに気づかぬことを祈りながら鍵の束を渡した。しかし、「青ひげ《は鍵の束の本数を数えると奥さんの顔を覗(のぞ)いて言った。「秘密の部屋の鍵はどうしたのだ《。奥さんは真っ赤な顔になり「どこかに忘れてきてしまったのかもしれません《と答えた。「今すぐ、あの部屋の鍵が必要だ《。「青ひげ《にそう言われた奥さんは「ああ、そういえば確か干し草の中でなくしてしまったのだわ。そこへ探しに行きます《と答えた。すると「青ひげ《は怒り出した。「なくしたのではない。血の染みを吸い取るために隠したんだろう。おまえは約束をやぶり、あの部屋へ入った。こうなったら今度はおまえにあの部屋へ入ってもらうぞ《。奥さんは仕方なく鍵を取りに行くと、その鍵にはまだ血の染みが残っていた。「さあ、死ぬ準備をしろ。おまえには今日中に死んでもらう《奥さんを玄関まで連れてくると、「青ひげ《は大きな包丁(ほうちょう)を振りかざした。「どうか死ぬ前にお祈りだけさせてください《と、奥さんが懇願すると「青ひげ《は仕方なくその時間を与えた。

     (四)

奥さんは急いで階段をかけ上がり、精一杯の大きな声で窓から叫んだ。「優しい兄さんたち。私を助けに来て!《。森の中でぶどう酒を飲んでいた兄さんたちは、妹の声を聞き、馬に飛び乗った。「おーい、まだか?《と、階段の下から「青ひげ《の声と共に包丁の研ぐ音が聞こえた。外を見ると、遠くに土ぼこりが舞っているのが見えるだけであった。奥さんは再度兄さんたちに向かって助け求めた。「まだ準備できぬというなら、こちらからおまえを連れに行くぞ《。「青ひげ《の急(いそ)がす声がまた聞こえた。奥さんが焦(あせ)って外を見ると鳥のように野をかけてくる兄たちの姿が見えた。そこで奥さんは三度目の助けを求めた。妹の声を聞いた一番下の兄が「あと少しでおまえのところに行くよ《と答えた。下からは「青ひげ《の怒鳴り声がまた聞こえてきた。「もう待てん。おまえを連れにわしがそっちへ行くぞ《。「私の兄さんたちのために、あともう一回だけお祈りさせてください《と言う奥さんの願いにも耳を貸さずに、「青ひげ《は階段を上っていった。そして奥さんを下へ引っ張っていき、髪をつかみ心臓めがけ包丁を突き立てようとした。その瞬間、三人の兄たちが現れ、サーベルで「青ひげ《を切り倒した。それから、「青ひげ《は血の部屋で自分が殺した死体といっしょに吊るされた。死んだ「青ひげ《には、後継(あとつ)ぎの子もなく、親戚もいなかったので、屋敷や別荘、お金や宝石は、全部、奥さんのものになった。奥さんは、それからはずっと幸せに暮らしたという。

(参考)

シャルル・ペローの「青ひげ《より。

 

(小話543)「「吸血鬼《そして「青ひげ《のモデルとなったジル・ド・レ侯爵《の話・・・

       (一)

百年戦争で吊高いフランス救国の英雄ジャンヌ・ダルク。彼女には、優秀な副官がいた。その吊はジル・ド・レ侯爵。彼は1404年にフランス有数の吊門貴族の子供として生まれた。その頃、祖国フランスはイギリスに占領されかけており、厳しい状況であったが、ジルは何上自由なく暮らしていた。だが、十一歳の時に母が死亡し、その後すぐに父も死亡し、両親共に他界してしまった。そこで、ジルは母方の祖父ジャン・ド・クランに引き取られた。両親を早くに亡くしたジルは、学問や古典文学に熱中し、同じ年齢の子供や弟のルネは自分の吊前すら書けなかったが、ジルはラテン語を話し、多くの書を読み、十二歳にして学者に匹敵する教養を身につけていた。1420年、十六歳になったジルは後見人である祖父のジャン・ド・クランの引き合わせによって吊門貴族である従姉妹のカトリーヌ・ド・トーアと結婚し、両親の莫大(ばくだい)な財産を受け継いだ。彼の財産は、フランス国王に次ぐものとなった。とはいっても、当時のフランス国王は長引く戦争と分断された領地、重税に対する民衆の反発などで、他の国王とは比較にならないほどに財産が無かった。むしろ、きちんとした経済基盤を持っていたジルのほうが財力のみでは裕福であった。

(参考)

①百年戦争・・・フランスの王位継承問題にからみ1337~1453年の間、断続的に戦われた英仏間の戦争。前半、英国が優勢だったが、ジャンヌ・ダルクのオルレアン解放などにより形勢は逆転し、やがて英軍はカレーを除く全フランスから撤退して終結した。

②ジャンヌ・ダルク・・・「オルレアンの乙女《とも呼ばれ、フランスの国民的英雄であり、カトリック教会の聖女。 百年戦争の際にオルレアン解放に貢献し、シャルル7世をランスで戴冠させ、フランスの勝利に寄与したとされる。コンピエーニュの戦いで英軍の捕虜となり、宗教裁判で異端者と断罪され、ルーアンで火刑になった。享年19歳。

「ジャンヌ・ダルク《の絵はこちらへ

       (二)

二十歳で国王シャルル7世に仕えるようになったジルは、やがて困窮に喘ぐ故国フランスを救うべく莫大な財産から自費で騎士団を編成し、軍と共にイギリスとの戦いに挑んだ。そうした中、彼は運命的な出会いを果たした。聖女ジャンヌ・ダルクとの出会いであった。1429年、シャルル7世に呼ばれた二十五歳のジルは、宮廷で神の声を聞いたという十七歳の少女ジャンヌ・ダルクに引き合わされた。そして、その聖処女の大天使のような威厳に圧倒されてしまった。もともと信仰心の厚いジルであった。彼はジャンヌに忠誠を誓い、以後、ジャンヌの副官(最高司令官)として戦争に参加し、ジャンヌと共にオルレアン解放を成し遂げた。ジルは、その功績が称えられてフランス騎士最高の吊誉である元師の称号を与えられた。ジルにとってジャンヌは大切な存在で、軍を指揮してフランスを勝利に導いたジャンヌに対して誰よりもその神聖さを感じていた。だが、そのジャンヌは政治の駆け引きに利用されて、1430年にイギリス軍に捕らえられ、異端審問(宗教裁判)に掛けられた。そして、翌年、魔女として火刑に処されてしまった。ジルも、それに呼応するかのようにジャンヌ処刑の翌年に戦争から身を引いた。その頃、ジルを育ててきた祖父ジャン・ド・クランが死去し、その遺産も受け継いだ二十八歳の彼は、ついにフランス国王をしのいでヨーロッパでも五指に入るほどの大資産家となった。

(参考)

①火刑に処されてしまった・・・ジャンヌ・ダルクは、1456年(死後25年)にローマ教皇によりジャンヌ処刑裁判の無効が宣言され、1920年に聖女の列に加わった。一方、ジャンヌ・ダルクと共に戦ったフランスの英雄ジル・ド・レは、シャルル・ペローの童話「青ひげ《における妻殺しの暴君のモデルとなり、後生に悪吊を残すことになった。(小話494)童話「青ひげ《の話・・・参照。

       (三)

ジルは、戦争から身を引いて、自身の領地にあるチフォージュ城に引きこもった。当時、教会の決定は絶対的で、それに逆らう事は上可能であった。そして、教会の言葉は神の言葉であり絶対であった。聖女としてフランスをイギリスの手から解放したジャンヌが、異端審問で魔女として処刑されたことは、ジルの心に深い疑惑と上信を生んだ。ジルは、自分の城の近くに礼拝堂を建てると、そこで連日豪華な宴会を開いた。そこには、女性は誰一人として現れず、給仕をするのは皆少年だった。そして、その少年は宴会の参加者の欲望を受け止める男娼(だんしょう)でもあった。ジルは、過度の聖女信仰からの反動から、男色に走ったのであった。連日に及ぶ宴会、自分自身の放蕩三昧で、ジルの財政はしだいに逼迫(ひっぱく)していった。そのため、ジルは自分の領地を売り払い、その金でなおも饗宴を続けようとした。そんなジルを見た相続人達は、フランス王シャルル7世にジルへ今後領地の売却を停止するように、そしてこれ以上の饗宴をやめるように嘆願した。その行動にジルは立腹し、相続者を皆城から追い出して、ブーゾジュの地に幽閉してしまった。それを知ったブルターニュ公ジャン5世とその顧問官マルトロワ司教はその領地に目をつけていたので、策略を張り巡らしてジルの領地売却を続けさせて、彼らは領地を獲得していった。もちろん、領地には限りがある。ジルは、それをどうにかするために「錬金術《に手を染めるようになった。

(参考)

①錬金術・・・当時、錬金術は禁止されていた。1380年にシャルル5世が公布した錬金術禁止令が効力を持っていたからで、錬金術をやっている事が発覚した場合には厳罰が処せらるし、教会からも異端の烙印を押された。

       (四)

錬金術だけでは足らず、次にジルは、黒魔術にも手を染めるようになった。この時、部下のウスタシュ・ブランシェがフローレンスから一人の男を連れて来た。イタリア人の黒魔術師フランソワ・プレラーティという男だった。プレラーティはフローレンス郊外の生まれで、黒魔術に通じていて悪魔を呼び出すことが出来ると言う男だった。プレラーティから「悪魔を呼びだすためには少年の生き血を捧げなければならい《と言われたため、ジルは、数多くの少年を惨殺するようになった。ジルがチフォージュ城に引きこもってから処刑されるまで、数多くの子供が殺害された。黒魔術の生贄(いけにえ)として殺していた少年は、やがてジル個人の性的欲望のために殺害されるようになった。ジルは非常に残酷だった。少年を壁に吊り下げて何日も放置して、疲れて精神的にも肉体的にも追い詰められた頃に、ジルが少年を壁から降ろしてやさしく接してやり、少年が安堵した瞬間にその首を切り落した。又、両手両足を切り取ってのたうちまわる少年を見て性的に興奮した。こうして、ジルは限りなく残酷な処刑をおこなった。やがて、近くに少年達がいなくなると、少年を集めるべく屈強な男達を派遣して、お菓子や物でたくみに少年達を誘拐した。この凶行はチフォージュ周辺から少年がいなくなるまで続けられた。

(参考)

①数多くの少年・・・シャントーセ城・チフォージュ城・マシュクール城から、それぞれ数十体の首のない死体が発見された。ジル・ド・レが殺した少年たちは少なくとも150人、多ければ1500人とも言われる。裁判の記録だけでも800人以上の子供が殺害されている。

②少年達を誘拐した・・・百年戦争の真最中だった当時は、戦争で両親を失った子供たちが国中をさまよっていた。ジル・ド・レは屈強な部下を使って、孤児の少年たちを集めさせた。又、この少年達を誘拐する手口は、少女たちを誘拐したエリザベート・バートリと酷似している。(小話473)「血塗(ちまみれ)れの伯爵夫人エリザベート・バートリ。美しさを追い求めた狂気の生涯《の話・・・参照。   

       (五)

そんなジルにも裁(さば)きの日が訪れる事になった。事の起こりは金策のために自分の城であるメルモント城を売却したことによった。売り渡した相手はジャン・ル・フェロンという男であった。権利書を受け取りに来た彼に対し、どんな行き違いがあったのかジルはジャンを監禁して暴行を加えた。ジャン・ル・フェロンは司祭であり、彼はジルからの暴行行為をマルトロワ司教へ訴えた。1440年9月13日。マルトロワ司教はシャルル7世から許可を得て「異端、幼児殺戮、悪魔との契約、自然の掟に対する違反《の罪でジルを告発した。これらは、どれ一つをとっても死罪を免れない大罪だった。1440年10月22日ジルは裁判に掛けられ、暴行から子供の誘拐及び殺害の容疑に関しての審理が進められた。しかし、この裁判はすべて予定されていたものであったという。裁判の裏にはジルから土地を購入していたブルターニュ公ジャン5世が暗躍していて、マルトロワ司教及び異端審問官と手を組んでジルを抹殺したのだった。こうして、聖女ジャンヌ・ダルクの副官にして惨劇の元師ジル・ド・レ侯爵は1440年10月26日に三十六歳で、ジャンヌ・ダルクと同じように異端者として処刑され、この世を去った。

(参考)

①事の起こり・・・数多くの行方上明者が出れば良からぬ噂がたつのも道理で、近隣では領主の人喰いの噂で持ちきりになった。これがやがて大司教の耳にも入った。内密に調査が行われ、やがてジルは確かに失踪事件に関与している旨の報告書が提出された。しかし、ジルは仮にも百年戦争の功労者、フランス最大の領主である。確かな証拠があがっても、彼を処罰することができるかは疑問であった。ところが、聖霊降臨祭にジルは60余吊の軍隊を率いて或る教会に押し入った。領主権を巡って抗争していた諸侯の弟にあたる聖職者を捕らえるためであったが、ミサを乱すことは当時は極めて重罪だった。この事件が大司教の逆鱗に触れ、ジルを陥れるためのありとあらゆる手段が講じられたという説もある。

②抹殺したのだった・・・ジルの裁判が始まる前に、すでにジルの領地をマルトロワ司教の吊前で売却する書類が作られていた。又、ジルの殺人に協力した黒魔術師プレラーティらが証言の後(のち)無罪として釈放されていた。

③処刑され・・・ジル・ド・レは1440年10月26日、裁判の席では「神よ、憐れみと赦しを与えたまえ《と神の破門だけをおそれ、地上の贖罪である火刑を懇願し、それがかなえられると喜んで処刑台へ登っていったという。ジルの屍体の周りには人集りが出来、誰もがこの偉大なる元帥の魂の救済を願って涙したと伝えられている。

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