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長森北の歴史の概要 | |||
♪「琴塚の歴史を活かし夢多き理想の星を仰ぎみるー」♪ 長森北小学校の校歌の一節にもうたわれている琴塚古墳は国の史跡にも指定されています。隣接する各務原地内を含むこのあたり一帯の古代遺跡群は、有力な豪族を中心とした集落が展開していたことを物語っています。日野から野一色山の山添いにかけて、比較的土地が高く、東北にあたるこの琴塚あたりは、長良川出水の度に日野からの大水が濁流となって、多くの土砂をもたらし、その繰り返しの中で形成された台地と言えましょう。したがって、この台地は畑地が多く、ところによっては山林原野でもあったことは、佐兵衛新田が、江戸時代の開発によって成立したことをもって知ることができます。南に向かうにつれ、低地となり前一色から南は木曽川流域となり、高い所、低い所が入り組んでいたと考えられます。 大和朝廷成立の頃から、現在の各務原市とともに有力な豪族の支配下にあって、中世を迎えます。東濃の土岐氏が美濃へ進出したときの最初の拠点がこのあたりで、今の切通に長森城が築かれました。 古代・中世から戦国の世も含めて、美濃が東国方面における政治的軍事的に重要な地域であり、特に長森城が所在したこのあたりは幾多の争乱の場となったことでしょう。(土岐氏は、のち居城を革手城、そして岐阜城へと移す。) 江戸幕府藩体制が整う中で、このあたり(厚見郡)は加納藩の領地となりました。(藩主転封により一部は磐城平藩領)長森の南部に東西の中山道がおかれて、北の山沿いには岐阜から郡上方面奥美濃と東部各務原方面へ通ずる道路があり、琴塚で分かれていました。この二つの幹線を琴塚から新田を経て手力と結ぶ道路があり、中山道経由で笠松につながっていました。古くから参詣街道であったと思われますが、近世、笠松への諸物資往還の道となっていて、特に田の少ない野一色では織物や交易などの諸職が盛んになったといわれています。 近代、岐阜市は行政都市としての発展目覚しく、わたしたちの長森はその東部にあって各務原や北部の関・美濃方面への出入り口として、北に美濃町線、南に各務原線、その真ん中に高山線が次々開通し、交通至便の地となってきました。明治40年、第六十八連隊も置かれることとなり、今までの道路交通や諸職の発展とあいまって、連隊前は「営門前」として、賑わうようになりました。 戦後、長森北は昭和49年に長森西が、昭和57年には長森東が分離して、3つの校区に分かれました。 六十八連隊の跡地は、長森中学や富田学園の学校に、そして市民の憩いの場としての野一色公園に整備されました。また、連隊に付属していた陸軍病院は県立病院へ、そして今岐阜県総合医療センターとして大きく変わろうとしています。 |
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![]() 野一色公園 |