*椎倉観音(弘誓寺)*
《 歴 史 》
今から570年程前の室町時代、この椎倉の地は大桑(おおが)郷の1部として、美濃の守護職土岐家の領地となり、時代の波の渦中にあった。当弘誓寺は文安2年(1445)8代目の守護土岐成頼によって、芦敷村(現岐阜市安食)より当地に移されたと伝えられる。成頼は、応仁1年(1467)兵8000騎をひきつれて、応仁の乱に参加しているが、その中にこの地出身の武将も多数いたに違いない。この観音堂には、今も成頼像が安置され参拝者が絶えない。しかし天文10年(1541)、11代目守護土岐頼芸の時代、大桑城攻防戦で斉藤道三の兵火により当寺も焼失した。現在のものは、江戸時代の慶安2年(1649)妙心寺沙門月庭和尚により再建されたものである。旧観音堂跡は現在地より北西の山腹にある。
《 文 化 財 》
承応2年(1653)の銘ある蛸形香炉・室町期のねはん図・観音菩薩像
* 牛 臥 神 社 *
《 歴 史 》
今から1100年程前のこと、平安時代のはじめ延喜年間(901〜921)位を譲り法皇となられた宇多天皇は、養老へ行幸された。その後法皇は、池田・本巣・方県をお通りになり、山県市はいられ鳥羽・深瀬・御鉾・手神[てがみ](現在の椎倉)を経て武儀郡の野村(現在の宇多院)へ向かわれたという。そのおり、近くの里人集まりて、今の宇多坂を開き奉る。しかし、この坂にて法皇の御車の牛が倒れ伏して立たず、里人がかわりの牛を貢ぎて、坂を越えさせ給うたという。後に里人、倒れ臥したる牛の鞍をご神体として、法皇とそのお后をお祭りし、牛臥神社として深く敬い今日に至っている。その後手神の地を人々は牛鞍の庄(うしくらのしょう)と呼んでいたが、いつの頃からか椎蔵(椎倉)と言うようになったという。また、現在この神社の近くに、神社の由緒にまつわる、貢ぎ・倒臥(こくご)・樫森(かしもり)などの地名が残っていたが土地改良で消滅したものもある。
《 文 化 財 》
弘安2年(1279)の棟札等・天明5年(1795)の銘のある石燈籠