JOOL2



一番新しいモノは、一番最後にあります。

○2007/7/29 ツールドフランスは、今年もドーピングで、忙しい。

途中まで、総合1位だったラスムッセンが、ドーピングで退場。
そのすこし前には、起死回生の逆転優勝をねらっていた、アスタナのヴィノクロフが、チームごと退場。 レースに対する興味が、かなり薄れてしまった感のある、ツール最終ステージ。
パリ郊外を走る集団とともに、画面に現れたのは、長さ500メートルのプールだった。郊外の、昔の貴族の城に、そのプールはあった。
降参。
死ぬまでに、できることなら、一度、そんなプールで泳いでみたいものだ。

最終的に、スペイン人の若手、コンタドールが優勝した。表彰式が始まる前に寝てしまった。

○8/2 生まれてはじめて書いた小説のこと

は、以前に少し触れた。
1976年7月5日発行の『LUV』3号に「デュアン・オールマン・ライフ・ストーリー 第1話」を掲載した。

この小説を書いた人と、掲載誌の編集者と、その雑誌の発行人とは全部いっしょなんだから、チェックは甘いに決まってる。最初から言い訳しているけど…
だけど人から、ここを直したら、って言われても、たぶん、「ケッ」って言ってたと思う。
カミサンにお願いして、その小説(らしきもの)をテキスト化してもらった。
だんだん、このサイトは個人的文章のアーカイブを兼ねるようになってきた。そのうち、アーカイブ部門のインデックスを作らなきゃ。
長いので、その小説は別ファイルに入れる。

さて、この小説がどこから来たのかと、問われれば、「Rolling stone」日本版だと答えることにしよう。
高平哲郎の「ぼくたちの70年代」(晶文社 2004年)に、その雑誌の創刊前夜が描かれている。権利の問題で、「Rolling stone」日本版を出すことができなくなったスタッフはそのまま、新しい雑誌「Wonder land」(その後「宝島」に改名)の創刊スタッフになった。
両方の雑誌が店頭に並んだのは、73年のこと。ぼくが高校2年の時だった。
「Rolling stone」も、「Wonder land」も、創刊からずっと買い続けていたと思う。残念ながら、どちらもいまは手元にない。(いぜんどこかに書いたように、名古屋のアパートが全焼して、レコードも、雑誌も全部燃えた)

「Rolling stone」日本版のメイン記事は、やっぱり向こうの本体の翻訳物が多かった。誰それのツアーにくっついて書いたルポや、ノンフィクション風に書かれたバンド誕生物語とかが、そういう記事だった。
当時高校2年生だったマサル少年は、そのての記事に、ノックアウトされていた。
むうう。
オレも、こんなツアーがしたいぞ。こんな記事が書きたいぞ。

ネットで「ローリングストーン 1973 日本版」を検索してみたが、桑原茂一が編集にかかわっていた、76年までおよそ3年間出ていたらしい、ぐらいしか出てこなかった。(73年は、ストーンズの日本公演が中止になったときで、その話題がたくさん出てくる。ストーンとストーンズは別物だけど、検索では文字列だけで扱うから、こうなる。検索の限界はこのあたりかも)
今年になって、「ローリングストーン」の日本版が出た。本屋で見つけて、ぱらぱらと中身を見て、たぶん30秒くらいで、元に戻した。これは違う。スイッチという雑誌に、見事に裏切られたあのときの気分だった。
そういう意味では、もう本家の方も、30年前とはぜんぜん違う雑誌(あっちではいまでもペーパーなんだろうか?)になっている可能性は充分にある。

そんなわけだ(どんなわけだ?)。17才のマサル少年は、小説家になりたかったわけではなかった。音楽評論家、というのも、なんとなく悪くはなかったが、ほんとは「Rolling stone」日本版の記者になりたかった。
それがかなわないのなら、バンドにくっついていつもいっしょにいるスタッフになりたかった。

そんなわけです(どんなわけ?… もういいか)。
センチメンタル・シティ・ロマンスには、みずから望み、コンサートをやった。
なんでもいいから、バンドのスタッフの仲間に入りたかった。
そういう行動をいままさに起こそうという、その瞬間に書かれたこの小説は、だいたいの予想通り、現実を描いたものではないし、小説として成り立たせようと作られたものでもない。
ポイントはそこかも知れないと思う。
最初から小説として、ひとり立ちさせる意志のなかった物語。そういうものを書こうとしていたのかもしれない。だけどそれをなんと呼べばいいのか、自分でもわからなかった。
これは小説じゃないよ、基本的なところで勘違いしているよ。そういわれれば、そうなのだ。それは、最初から小説をめざしていないから。

じゃあ、なんだと問われても、ぼくには答えられない。

稚拙であることはいうまでもない。稚拙ではあるが、すべての始まりの一歩目である。その後のいくつかの小説も、夏の楽園のTシャツも、全部ここから始まった。そういういい方は、なんだか大げさではあるが。だけど、ときとして、そういうことを確認したくなることもあるんだよ。
定年を迎えたオヤジが書く自分史みたいに見えるんだったら、ちょっと困るけど。
まあ、でも、そんなものかな。いまはただ、余生を過ごしているだけだし。

酔っぱらって、校正してみたけど、ホント、文体はいまとぜんぜん変わらない。ショックなのか、それとも…

○8/3 ポスティングふたたび

時を置かずして、前回と同じアパート、マンションを対象にしたポスティングの依頼が来て、ふたたび大垣の人となる。
大垣にはなんの思い入れもない。知っている場所も少ない。
むしろ、チラシを持ってうろうろするという行為は、夏の楽園時代を、思い起こさせた。
いま思うと名古屋は限りなく遠い。よくあんなところで、チラシを(楽園通信や、ポスターだ)まいてた。ホントに。
もちろん、アパートにポスティングなんていうことはほとんどやったことがない。喫茶店や飲み屋に出没して、たまにしかあらわれないのに、チラシを置いてもらったり、Tシャツを売ってもらったりのお願いするだけでは気がひけるので、ビールを1杯、酒を1本、食い物を一皿、とやっているうちに、酔っぱらって、どこにも行けなくなる、情けない日々が続いていたわけで…

「まち」にかかわることこそ、一番大事にしてきたはずの、ぼくの仕事はもうすでに終了している。
「まち」にかかわっていないぼくがここに書いていることは、みんなたわごとだ。過去を蒸し返して、拾い集めているに過ぎない。

○8/16 ここは地獄? いえいえ、ここは岐阜です。

午後2時10分に、岐阜の最高気温は40度を超えた(ウェザーニュースのサイトで確認した)。その日、わが家は畳の日光浴をしていた。うん。引っ越してはじめてやってみました。畳の中のい草の中に永住権を持っていたダニやら、なんやら、みんな永住権を剥奪です。
ついでに、床下に吸湿剤を入れたり、なんやかんやしていると、からだじゅうから汗が噴き出す。空気の方が体温より高いんだ、そりゃ仕方ないかも。
家の中にいても熱中症になる時代だ。安心してはいけない。作業には慎重を要する。

あれこれ全部の作業が終わったのはもう夕方で、そのあいだシャツを何枚も着替えた。
わが家の猫もさすがに、ぐったり。家の中で一番涼しいと思える場所で、敷物のようにべったりと伸びていた。息子たちは仕事でいない。
あまりの暑さに、頭の中ももうろうとしている。ここは地獄なのか、でも考えようによっては天国のようにも思える、そんな岐阜だ。
いいことはなんにもないように思えるけど、こんな日でも練習してたんかなあ、FCのみなさん? こんなところだけど、嫌いにならないでね。

○8/20 洗濯物のない街ロサンジェルスが、

新聞のコラムに載っていたのは少し前。今の時期のLAは、まったく雨が降らず、空気も乾燥しているのに、洗濯物を外に干している家はほとんどないそうな。
みんな、家の中で、乾燥機で乾かしているそうな。
おお、なんと愚かな北米の人々。
洗濯物を外に干すと、乾燥機を買えない貧乏人だと思われるんだそうな。
おお、なんとこころの貧しい北米人たち。

○8/28 葉緑素のじゅうたん

あいかわらず、ときどき、仕事で11階のマンションの屋上に登っている。あいかわらず、そこはとても暑いのだ。あいかわらず、雨漏りの原因が特定できない。だから、いつまでも終わらない。
だけどあいかわらず、景色はすばらしい。少しでも、休める時間ができると、周りを眺めている。マンションの周りは、まだ田んぼが多い。稲の花が咲く前のこの時期、穂はめいっぱい伸びて、美しい。風にたなびいて、風紋のような、稲模様が美しい。
クールビズだ、打ち水だ、風力発電だ、屋上緑化だ、などという前に、これ以上水田を減らさないという、約束をきちんとして欲しいものだ。
JAによる契約栽培でも、なんでもいいから、これ以上1枚も水田を減らさないと、約束して欲しい、「あ」のつく大臣様よ。

○9/3 現実感の濃度がどんどん薄まっているこの日々

現実とはどこに、どんなふうに転がっているものだろう?
毎日の、この、ふわふわとした生活の中では、どうもこのごろ、現実感が希薄だ。
仕事はちゃんとしているのに、まじめにこなしているのに、実感が希薄だ。きびきびと動いているはずなのに、リアルさは、遠のいていく。仕事の中身じゃない。要は、スタイルの問題だ。文体の問題だ。

これって、ほんとなんかな?
ここにいると思えるぼくの存在は、ほんとうの、自分?

そんなことをぼんやり感じながら、リアルのぼくは、リアルの仕事を終えて、リアルエステイトの上で、いつものように草を引き抜いたり、あちこちに放水したり、そこいらじゅうで巣を構えている、蜘蛛たちにあいさつしたり。
そこにこそ、自分のリアルが存在するとでもいうように…

○9/4 siempre con nosotoros (always with us)

セビージャの若きDFプエルタが、ゲーム中に心臓疾患でなくなって、リーガは、追悼一色である。
リーガの中継は、今シーズンもWOWOWだ。何も変わらない。スカパーは、WOWOWと提携したことで、リーガ中継を番組表に加えられるから、もうこれ以上、何もしないようだ。

レアル・マドリーは、ぼくたちの知らない選手が半分以上に… ラウールと、グティと、カシージャスがいれば、そのチームがレアルなんだよと、会長が新しいチームを提示。監督は、その与えられた選手を駆使して、リーグを戦う。そら、これでどうだ、と…

そんなこととは関係なく、ぼくのスペイン語の学習は続いている。突然、テレビの画面に現れる看板や、選手がまくり上げたユニフォームの下のアンダーウェアに、書かれたメッセージなどを、少しだけ読めるようになってきた。
スペイン語の学習のレベルは、英語の歌で単語を覚えていた、中学3年生くらいのものか。スペイン語の歌をもっとたくさん聴けば、単語の学習も、もう少し進むかもしれないなあ…

○9/9 作品4の5 「ときには泣くこともあるけれど」

という小説を書いてたのは、2000年の春から、翌年の春まで、ほぼ1年間。
400字詰めの原稿用紙に換算して、90枚くらいの、短編だ。
作品4は「Into the music」というタイトルがついて、6本の短編や中編が並ぶ予定だった。
最後のフリーコンサートの前に書いた、最後の小説だ。この先、フリーコンサートも、小説も、ぼくの身に何も起きなければ、01年の「Lost paradise」と「ときには泣くこともあるけれど」が、ぼくのラストもん、ということである。

ふと、この小説の書き出しはどうだったっけ? と考えたのである。

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ヴァン・モリソンは歌っている。聞きとりにくい英語だ。小倉は何度も歌詞カードを見る。それを見なければ、何を歌っているのかよくわからない。部屋には他にだれもいない。テーブルの上には、酒の入ったグラスと灰皿がのっている。夜はしばらく前にフェイド・アウトし、古びたカーテンのあいだからは刺すような光が入りこんでいる。
ヴァン・モリソンは歌いつづける。小倉がプレーヤーのストップ・ボタンを押さない限り、歌いつづける。年を経るごとに、アルバムを出すごとに、このシンガーは元気になっていく。年相応に枯れていくことにはまったく縁がないように、小倉には思える。8年前に出ていった妻は、ヴァン・モリソンが好きではなかった。理由をはっきりとは言わなかったが、ヴァン・モリソンの声が大きいからかもしれないし、たぶん、うるさかったのだろう。小倉がヴァン・モリソンを聞いていると、うっとうしい、とよく言われた。しかたないから、小倉は妻が寝ているときに、つまり酒を飲んでいるときにいつもヴァン・モリソンを聞いた。

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さて、こんな書き出しだ。このあと、1年に1回しかコンサートをやらないバンドが出てくる。
そのころ、そんなことばかり考えていた。
1年に1回、コンサートを続けていくことが、この先どんなことになるのか、どんなことにならないのか、そんなことばかり考えていたころの、作品だ。
「Sometimes we cry」は97年のヴァン・モリソンのアルバムに入っている曲である。

○9/10 作品4の2 「Into the music」

の書き出しは、こうである。
長い時間をかけて、あれこれ、書きなぐってみたけれど、どうもまとまりがつかず、落としどころにもめぐまれず、中途半端に立ったままの、存在みたいな…

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#1

 離婚届を出してから一年が過ぎた。あのときぼくは別れた妻に手紙を書いた。



容子へ

 離婚届を出してきたよ。住民票を移す手続きもしてきたし。
谷川俊太郎の詩に「離婚届」があるって、教えてくれたのは20年前のきみだった。婚姻届をもらってきたぼくに、それを教えてくれた。この前図書館でその詩を探して読んでみたら、あの詩では主人公は、離婚届を書くことは書くんだけど、結局それを紙飛行機にして飛ばし、丸めて便所に捨て、眠っていた奥さんの隣にもぐりこんで寝てしまうという、どちらかと言えばラブソングみたいに感じたけど、きみにはどうだったのだろう。
 ぼくらは21年間一緒に暮らしたことになる。正直なところぼくはうちひしがれている。ぼくの言い訳に対するきみの反論は充分予測がつくから、ここではもう何も書かかない。ぼくらは一緒に暮らし、子供が産まれ、20年が過ぎてぼくらは終わった。それだけのことだけど、それだけのことでは終わっていない、終わりたくない。

 ぼくはいまひどく哀しい。何かを考えれば、ぼくらのあいだにあったはずのたくさんのことを思い出してしまう時間が、あまりにも多いこのごろの生活にぼくはうんざりしてきた。思い出だけはいつも美しい。残酷なくらいに。
 きみを忘れるために、これっきりきみのことを思い出さなくてもすむように、きみと出会ってからの都合22年のあいだに聞きつづけてきたたくさんの曲の中から、とびきりきみとの思い出に結びついている曲ばかりを10曲選んでみた。押し入れの中を引っかきまわして、昔の雑誌やLP、CDを出して並べ、思い出すことの苦しみと呻吟しながら曲を選んでいく楽しみとを同時に味わいながら、一枚のコンセプト・アルバムとしての完成をめざした。
 きみも知っているとおり、レコード・プレーヤーは壊れたままだから、古いLPに入っている曲は近所のレンタル・ビデオ屋でCDを借りたり、再発売になっているCDを買ったりして、カセットに収めた。
 きみにはぼくのことをときどきは思い出して欲しい。一年に一回くらいはこのテープを聞いて欲しい。もちろんぼくはそうするから。

 元気で。冬月のためにもときどきはこっちに来てくれるとぼくはうれしい。

      飛行    1995.7.15



 そんなわけでぼくは手紙と一緒に送るために、カセットを作った。とりあえずひとつのコンセプトに基づいた曲集であると自ら定義するところから始めた。全体にバラードが多くなったが、いまはそんな気分なのだから仕方ない。無人島へ持っていくレコードを10枚選ぶのとは訳が違う。カセットケースの背中には「21 Years (1974-1995)」と書きこんだ。
 サイドA:ラブ・ハーツ/ジェニファー・ウォーンズ、ライイン・アイズ/イーグルス、祝婚歌/中川五郎、テンダー・イズ・ザ・ナイト/ジャクソン・ブラウン、ラブ・イズ・ストレンジ/エブリシング・バット・ザ・ガール。
 サイドB:ストリングマン/ニール・ヤング、ザ・ハートエイク/ウォーレン・ジヴォン、バッファロー・リバー・ホーム/ジョン・ハイアット、クライ・オン・マイ・ショルダー/ボニー・レイット、イッツ・ジャスト・ザット・シンプル/ウィルコ。

 世界が病んでいるのかどうか、ぼくにはよくわからない。世界を攻撃せず、世界を変えないで、ぼくは生活していくことを望んでいる。悪の存在を許し、沈黙をもって不正にくみすることはぼくの流儀ではない。しかしそもそも悪とは何なのかぼくにはよくわからない。
 あるいはまた、この世はすべて空っぽだという言い方もある。もともと何もなかったのだし、これからも何もない、それが世界なのだと。そこでは何をしてもいい、あるいは何もするな。どちらが正しいことなのかやっぱりぼくにはわからない。
 はっきりさせなよと言われるなら、ぼくならこう言うと思う。世界は病んでいるかもしれないけれど、でも捨てたものじゃない。たぶん夢も希望も残されている。もしきみがそれを必要としているのならば。
 人生に意味などないのだろう。自分がバカだということもわかっている。でもそれだけでは毎日を何事もなく淡々と過ごすことはできない。人生に意味などないということがどういうことなのか、考えながらうろうろしているうちに一年が過ぎていった。

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というような、イントロである。
主人公は売れない小説を、こりこり書き続けている、さえない男で、奥さんには逃げられ、プールで出会った若い男の子といっしょに暮らす羽目になり、そこにスプリングスティーンの亡霊が現れて… というような、中編である。
書いているうちに、書こうとしていることが、だんだん見えなくなってしまっていた。
最初には見えていたものが、書けば書くほど、遠ざかり、かすんでいった。
ブルース本人はまだ元気に生きているのに、勝手に亡霊を動かそうとしても、簡単には動いてくれない。飛び跳ねてくれない。

この小説の全編を公開することはまずないと思うけれど、そのことについての扉は、閉ざしていない。
いずれ、自分の作品の全部を、このサイトにアップするかもしれない。自分が死んでも、削除されない限り、作品は、ネット上に存在することになる。

いや、まあ、なんだかね、正直なところ、自分の書いた小説の、イントロだけ、ずらっと並べたら、おもしろいかもしれないな、とふと思ったんだよ。

○9/11 ごあいさつとしての「Into the Music」

ときどき、疲れてしまうと浮かんでくるのが「Into the Music」というテーマ。もとは、ヴァン・モリソンの1979年のアルバムのタイトルです。
以下は、1981年、日本縦断ライブハウスツアーを終えて、関係者のみなさまに、お送りした手紙のコピーです。

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SKY KIDS REVUE'81は、10月14日をもちまして無事終了しました。いろいろな形でかかわってくださった皆様に感謝します。
 いつもいつもまわりの人たちに迷惑をかけるばかりで、ツアーを終えて残るのは、安堵感と疲労ばかりです。昨年 '80を終えた時にも言っていたような気がしますが、「結果」と呼べるものが出てきたとはまだまだ思えません。でも、ぼくの中に少しずつ「たくわえ」ができてぼくのまわりは、少しずつ動いています。
 疲れて、もうやめようと思い続けていた時、ふと頭に浮かんだのは 'Into the Music' 前後の脈略も何もなく、 'Into the Music' でした。それは「郷愁」にも似て、思わずカラダの中が熱くなるほどの思いです。ずっとMusic、いつもMusic。

 そして最後に出てきたのは、これはあくまでも、ぼくの中での単なる決意でしかないのですが、「現場に残りたい」という、ただそれだけでした。あとは何もない。だからこれからもツアーに出るだろうと思っています。楽観でもなく、悲観でもなく、「落ちこみ」でもなく、「のってる」訳でもなく、ただぼくの中に残ったのは、それだけでした。
 今のぼくには、「ライブハウスの現状」をうんぬんするほどの元気はなく、日本の音楽状況について、あれこれ考えるだけの頭ももありません。自分の中に残った「現場に残りたい」という希望だけがあかりのようにポッと灯っています。そのあかりが来年まで、幸運にも灯ったままであれば、1982年、 'SKY KIDS REVUE'82’ は元気にスタートします。テーマは「ひたむきに、 おおらかに」。その時にはまた改めて、よろしくお願いします。お元気で。

どうもありがとう

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夏の楽園時代の、楽園通信とほとんど変わらない文体で、まったく意味の変わらない文章で、恐縮です。
ずっと、こんなぼくだったわけです。
「現場に残りたい」という気持ちは、いまもたぶんあまり変わらず、だから、ホールの管理、みたいな仕事をやめて、便利屋の仕事をしている、ということかもしれません。
現場で汗をかく、のが好きなんですね、きっと。

○9/16 原色の街

きのうは、寝ころんで本を読んでいた。腰が痛くて、動けなかった。
吉行淳之介の長編と短編を読む。全集なので、作品の背景がよくわからない。解題がない。解説はあるけれど。
いくつかの短編と、ひとつ長めの作品を読む。なるほど、こういう作家だったのか。長編「原色の街」は娼婦の話。出版は1956年。風景はいつもたそがれている。あるいは、夜だ。
時代の流れに乗れない、世の中の流れになんとなくついていけない、センターからはずれたアウトサイダーたちの、ゆるゆるとした物語だ。
ぜんたいに、ぬるぬるした感じも捨てがたい。
なるほど、こんな作風だったのかな。

同じ日に、「生物と無生物のあいだ」という本も終了。
化学者の書く文章だから、わかりにくいだろうという予見は見事にはずれ、本論よりも、ニューヨークやボストンの街の描写が、簡潔で美しかった。
それで、生物の定義は? ちょっと、はぐらかされた感じ。要するに、定義はまだ確定していないのだ。

○9/30 ロック母

図書館で借りた、吉行淳之介の作品集と、角田光代の短編集を読んだ。
吉行の「闇のなかの祝祭」は、文庫にもなっていない、いわく付きの自伝小説だ。
だけど、自伝小説という分野にはいまひとつ気持ちが入らない。

角田さんの「ロック母」という短編集の、タイトル編を読んだ。
最後の方で、涙がでそうに。そんな話ではないのに。文章にものすごく力強さを感じた。ニルヴァーナを聴く母が、でてくるわけだけど、そのパワフルな感じは、川上弘美の世界とは全く違う。
涙がでそうにはなったけれど、たぶん、ぼくは川上さんの小説のほうが好きだと思う。
角田さんが若いころに書いたという短編「ゆうべの神様」も読んだけれど、言葉の扱いが、自分とはずいぶん違うように思った。文体の問題、以前の。

きのうは、少し飲みすぎた。でも、今朝は5時には起きてた。
夕方まで、一歩も外にでなかった。一日中雨だった。
カミサンと晩ご飯を食べながら、たまたまつけたチャンネルで「東京物語」をやっていて、最後まで見た。小津の映画であんなに笑ったのは、はじめてかもしれない。そういう映画なのだということがよくわかった。画面にこめられた様式美も、少しは理解できたような気がした。

○10/1 腰が痛くなった

今日の仕事は電気屋。脚立の上り下りで、へばへば。配線がうまくいかず。親方に言われたとおりにやっているのに、これ違うんじゃないか、っていわれて、ちょっとかちんとくる。舞台音響や、照明とは全然違うようだ、この、家庭屋内配線というのは。

とある一軒家の、部屋のリフォームにかかっているんだけど… 
コンクリートにリノリウムが張ってあるような、10畳くらいのスペースを、フローリングの部屋に改造するのだ。それに付属するもろもろがあって、結構時間がかかっている。
大工(壁やドアも作らなきゃ)、内装屋(壁紙張り)、ペンキ屋(天井はペンキで)、電気工事屋、その他もろもろを、全部やってしまおうってんで…

その部屋の配線は、一応完成したのだが、隣の部屋の、ダウンライトが突然つかなくなるのはなぜ?
もともとついていたスイッチ類をはずしてその配線を確かめるのだが、さっぱり意味がわからない。ここになんで3線が必要なんだ? ここと、あれを入れ替えただけなのに、なんで隣の部屋の電気がつかないんだ? 全部球切れか? …おいおい…
そんなわけで、わからないことが山のように立ちはだかっているのに、親方は、まだ、ホンモノの電気屋を呼ぼうとしない…

○10/3 It was thirty years ago

秋になるとウォレン・ジーヴォンのファースト・アルバムが聴きたくなる。1976年の作品だ。(ジェニファー・ウォーンズの「Love hurts」が入っているアルバムも、同じように聴きたくなる。だけど、こっちはCDを持ってないので、聴くタイミングが難しい)
ひさしぶりに、彼のレコードを聴いた。
いきなり、30年前のシーンが浮かんできた。

1977年8月の終わり。名古屋市の昭和区に、ぼくは住んでいた。6畳一間の学生アパートだ。1階に4部屋、2階も4部屋。そのアパートをぼくは、燃やしてしまった。
ぼくの失火が原因で、アパートは全焼だった。
そのころ、大学に籍はあったが、全く行っていなかった。朝6時からの、名古屋市のゴミ収集のアルバイトをして、昼間はセンチメンタル・シティ・ロマンスというバンドの事務所で働いて、夕方部屋に帰っていた。

8月の終わりの、ある日の夕方。暑い日だった。近所の酒屋で、ビールを買って、とりあえず一杯飲んだ。
部屋にガスはなかったので、電熱器でやれるだけの料理を作っていた。そのときは、スパゲティを作ろうとしていた。窓際の畳の上に電熱器を置いてスイッチを入れ、フライパンを乗せてから、廊下にある流しに、タマネギを洗いに行っていた。窓際の壁に油が飛ぶと困るので、壁に新聞紙を立てかけてあった。窓は、当然開いていて、夏の夕暮れの微風が、新聞紙を倒した。
その新聞紙は、フライパンの上にかぶさった。

タマネギを切り終わって、部屋に戻ると、壁が一面燃えていた。
部屋にあったオーディオシステム(昔は「ステレオ」と呼んでいたようなセット)は、アメリカン・フライヤーというバンドのセカンド・アルバムを再生していた。

あわてて大家さんの勝手口をたたき、消防車を呼んでもらった。
だけど、全焼だった。
2階には、名古屋大学の4年生が住んでいて、卒業論文の下書きが灰になった。
ぼくの、レコードや本も、全部灰になった。焼け跡から、ぐにゃぐにゃになったレコードが見えていた。

損害賠償をどうするのかという話し合いのなかで(当然、大家さんは火災保険に入っていたから)、当初は、ぼくには過失はなかった、あれはどうしようもなかった、というような線で落ち着きそうだった。賠償金もいらない、というような感じだった。
だけど、当時、息子の大学行ってない状態にかちんときていた、オヤジは、大家との折衝のなかで、何か決定的な一言を言ったらしく、以後大家さんの態度は一変。
結局裁判になって、損害賠償がうん百万円という、判決になった。

法廷に立ったけれど、弁護士や裁判官、それぞれが何を言っているのかよくわからなかった。
うん百万は、分割払いにしてもらった。それでも、自分ではほとんど払えなかったので、おふくろがしばしば立て替えてくれた。

それが30年前の、夏のことだ。
知り合ったばかりのカミサンが、いつもずっとそばにいてくれた。うれしかった。

○10/9 ふたたび吉行淳之介

きのうは、角田光代の短編集を最後まで読んで寝た。
だんだん、その力強い文体がうっとおしくなる。人間の感覚なんていいかげんなもの。最初は、ぐいぐい飛ばす飛翔感に酔ったが、すぐに冷めてしまって、今度は、その強引さが徐々に、鼻につく。読者というものは、残酷だな。
比べちゃいけないと思う。だけど、もういっぺん手に取った吉行淳之介の短編を読み出したら、なんだかほっとした。自分が生まれたころ、50年くらい前に書かれた短編だが、その文体が持つやわらかさは特別なものだ。なるほど、すぐれた短編とは、こういう作品のことをいうのだな。

○10/13 軽トラが死んだ。

9月の終わり、土曜日の朝、古い洗濯機をリサイクル引き取りの場所まで運ぶ途中で、わが愛すべきスズキキャリーが、昇天した。 Vaya con dios.
走っている最中に突然のエンジン停止。まあ、何が起きても不思議ではない年齢だったので、そこは冷静に対処。久しぶりにJAFのカードを使う。
わがold Yonkie(古いけど、ちゃんと4駆だったのね)を、ずっと面倒見てくれていたオヤジさんは、少し前に、病気と高齢で引退してしまったので、主治医がいない。仕方ないので、ディーラーまで運んでもらった。

ところが、よわい24年のmy old Yonkieを見て、大病院のスズキさんは、診察を拒否したのであった。修理に責任を取れない、というのである。それは、「廃車」の宣告であるか? とぼくは聞く。ウイとは言わない。言わないが、責任を取れないので、お引き取り願いたいとの一点張り。

エンジンのタイミング・ベルトが切れたのであろうと。もう、エンジンには手を付けたくないと、大先生のスズキは言うのである。この年齢では、手術に耐えられないだろうと。

診察もしないで、それはないだろうと、怒りはふつふつとわいたが、そこは冷静に対処。
親方を電話で呼んで、牽引してもらって、うちの近所の、(店の前はしょっちゅう通るけれど)いままで一度も行ったことがない修理工場に、Yonkieを運んだ。
はたしてその町医者は、いきなり宣告はしなかった。エンジンがいかれている可能性が高いので、一度開けてとりあえず見てみましょうと言ってくれた。
その日の夕方電話があって、やっぱりご臨終だった。ピストンの頭がつぶれていたそうだ。「廃車」の宣告を受け入れることができた。合掌。

1週間後、その工場の世話で、new Yonkieが、わが家にやってきた。今度は、スバルのサンバーだ。誕生後11年の、ぼくにとっては新車のような、軽トラックである。
快適である。ボディーはほとんどさびていない。ワイパーもちゃんと動く。うん、新車だ。エアコンはないけど、ラジオはついてる。時計も動いてるよー。
old Yonkieには、5年も乗っていた。今年の1月に、車検を受けたばかりだったので、心残りはもちろんあった。春にバッテリーを替えたばかりだった。ガソリンもまだ半分くらい残っていた…
2年前、愛なき薪屋につとめていたころ、old Yonkieは毎日通勤に使うマイカーだった。エアコンはなく、暖房は効かず、デフも心許なく、ワイパーはときどき動かなくなった。ラジオも壊れていた。荷台は穴だらけで、ドアにも、大きな穴がいくつも開いていた。
だけど、エンジンはすこぶる快調だった。

大病院スズキは、門前払いのおかげで顧客をひとり失ったことになる。もう、あの大病院のお世話になることはないだろう。

○11/4 薪屋と便利屋のおかげ

○ やっとストーブシーズンだ。早く寒くなれ。
いつでも焚けるように、ストーブのメンテナンスをする。煙突掃除はしてあるので、サビ落とし、塗装、その他の掃除、油差し、など。炉室を囲んでいる耐火煉瓦のモルタルが割れていたので、耐火モルタルを補充。道具と材料をそろえて、自分なりにてきぱき。
こんなところに、薪屋と便利屋の経験が生きるわけだ。
材料と道具にある程度精通し、コツもそれなりにわからないと、仕事は進まない。
それを覚えることができただけでも、薪屋と便利屋の仕事は、役に立っているのだった。

○タトゥーロの名前が出てこない

ムービープラスというチャンネルは、ちょっと前の、10年くらい前の、映画をよくやっている。視聴料も安い、はずだ。わが家は払っていないけれど、見れるのだ。これは内緒。
この前のこと。「バックマン家の人々」という映画をやっていた。ロン・ハワードの作品だ。群像劇に近いので、いろんな人がでてくる。いまや大スターだけど、10年前はまだちょい役、だっていうキャラも多い。キアヌ・リーブスがそうだし、この人もそうだ。

だが、この人の名前が出てこない。「バートン・フィンク」で主役をやっていた、あいつだよと、カミサンとふたりで、記憶の回路を探るのだが、ふたりとも、名前を思い出すことができない。
あれにも出てた、と言ってみるのだが、「あれ」の名前も出てこない。
困った。あまりにも困って、険悪な雰囲気に。

それが、ジョン・タトゥーロだってことが、わかったのは、もう映画が終わってから。
情けない。くやしい。我らの脳細胞は、もうほとんど死滅している(いっしょにしないでくれと、カミサンは言うかもしれないが)
50を過ぎれば、こんなものなのかしらん?

○11/25 2年前の薪はよく燃える

今年の薪のメインは、なぜだかわが家の薪棚に並んでいる高級ナラと、いったいどこで手に入れたのか覚えていない楠だ。
どちらもよく乾いているので、よく燃える。なおかつ火持ちする、というところがポイント高い。やっぱり柿はかなわない。
2年前にたくさん薪を作ったおかげで、今年の冬は、暖かく過ごせる。ありがたいことだ。

2年後への贈り物を、そろそろ準備しないといけない。

○12/5 目に木っ端が入って、さあ大変

ある日のことだ。樫の木の枝を切っていた。木屑が目に入った。
目薬を差したり、洗浄液で洗っても、木屑は取れなかった。まぶたの裏にまわりこんだらしい。夕方になっても、取れず、少し心配になって、病院を探した。だけど、その日は土曜日で、救急医療はどこも受け付けてくれなかった。
翌日、日曜日にやっている眼科を見つけて行く。大きなショッピングセンターのなかの医者で、朝から満員だった。
眼科にかかるのは生まれてはじめて。まぶたを裏返して、ゴミを取ってくれたが、何故だか取りきれなかったみたい。
若い先生で、いらいらしているように見えた。日曜日の朝から、あんなに患者がいたんじゃ、同情の余地はあるな。だけど、おいらの目はどうしてくれるんだ?
大学病院へ行ってくれと、若い先生は言うのだった。
え???

月曜日、大学病院へ。雨だった。少し遅めに出かけた。市内の中心部から移転して、田舎の方に広大な敷地を確保した病院だ。駐車場も広い。だけど、ほんとうに診療が必要な人たちにとっては、アクセスがむずかしい病院のようだ。
ずいぶん待たされて、眼科で見てもらう。
ゴミなんて何もないようだけど… 紹介状がないから何ともいえないな、どうして書いてもらわなかったの?
忙しいから紹介状は書けないと医者に言われたおいらは、その不満をどこにぶつけたらいい??

ゴミは入ってなかった。もう取れていた、らしい。
大学病院では、目薬もくれなかった。初診扱いで、たくさんお金を取られた。
一体何だったのか、いまでもよくわからないが、何もなかったことを喜ぶしかないのだ。

○2008/1/3 時代を感じさせるものとは

正月、実家に顔を出してから、帰って小池真理子の「恋」を読む。
かなり古い本だ。95年出版。実は小池の本を読むのははじめてだ。最近彼女が出した本が、70年代にこだわったテーマで、それは過去の作品でも、同じようなテーマを扱っているということがわかって、先に古い方を読もうと思った。
かなりエキセントリックな話だ。まあ、それはなんとなくわかっていたんだけど。

「恋」というタイトルと、本の表紙が気に入らなかった。
自分がもし書いたとしたら、もう少し風俗っぽいつっこみを入れたか。
というか、音楽へのアプローチがもう少し欲しかった。70年代初頭の、その時代を感じさせる音が欲しかった。
時代を描く背景に色がついていないような感じかな。

小説を少し書いてみたが、いまとなってみると、自分には物語(story telling)は、いらないかなと… 
自分の目指そうとしていたのは、それはたぶん写真みたいなものではないかと… 
ある時代のある一瞬を切り取った写真にはキャプションがつくだけで、解説はいらない。あとは、それを見る人がそれぞれ解釈すればいい… そんなことをずっと考えていたはず。
ある音楽、ある曲が流れてくる一瞬の光景を切り取って文字にできれば… そんなショートストーリーがあればと、書ければと思っていたのかもしれない。
いまは中断。仕方ない。

○1/17 ジンとワイン、それにグレープフルーツジュース

ジンはポーランドから、ワインはポルトガル、ジュースは南アフリカ共和国から。
近所の酒の量販店で世界の酒をゲット。
ポーランドのジンは、少しクセがあるが、それも慣れると味のうち。
そこの量販店はワインが安い。最近のお気に入りはスペインの箱ワインだったのだが、このところ品切れで、目先を変える。ポルトガルのワインが並んでいた。1本500円台、600円台だ。これがとてもうまかった。しあわせ。
最近は、ジンをグレープフルーツジュースで割って飲むことが多いので、南アフリカのジュースを買ってみる。
岐阜の田舎にいて、世界中の酒が手に入る。ありがたいことだ。

○2/22 ツーキニストふたたび

仕事先の事務所が引っ越した。引っ越し作業はけっこう大変だった。1トントラックで何回往復したかわからない。もう何年も使っていない道具が捨てられない。わかる、その気持ちは。だけど、いま捨てなければ、これからも捨てられないよ、と、何げなく言うのだが、親方はやっぱり捨てなかった。
新しい事務所は、家から片道3.5キロくらいかな。わからないけど。
自転車通勤は心地よい。久しぶりでわくわく。ちょうどいい距離なのかも。いまはあれこれルート探しをしているところ。通過する信号はふたつにした。
イヤホンを左耳にさしこんで、ラジオのスペイン語講座を聞きながら走るのにも、何とか慣れてきた。

○3/1 往復10キロ

軽トラで事務所まで行った折りにメーターをチェック。家から事務所までの往復でだいたい10キロくらいだということがわかった。いい感じだね。片道20分。長すぎず、短すぎず。ほどよい運動になる。

○3/9 人気のなかったダイアン

オリヴァーさんのレフュージは、とてもいい場所にあった。若いボランティアの子たちがたくさんいて、忙しそうにしていた。
引き取り手のない動物を預かり、里親に渡すという仕事をしているレフュージが大阪の山の方にあって、わが家も里親になることにした。

お金にならないことに全力を傾ける、ということでは、動物たちのレフュージも、フリーコンサートも、同じだなと、ふと考える。レフュージにはわかりやすい大義名分があるけれど、フリーコンサートには、大義名分はなかった。作ろうとすればできたかもしれないが、ぼくたちはそうしなかった。ただ、自分たちが楽しみたいだけ、と考えていたかもしれない。

わが家にやってきたダイアン。ミシンの隣の小さなスペースにうずくまったまま、動かない。5才になったばかりの、若きおばさんのダイアンは、水を飲み、ご飯は少し食べるけれど、まだ、オシッコもウンコもしていない。
わが家に君臨している猫のルルおばさんは、ときどきダイアンの様子を見に行く。決して近づくことはないけれど、気になるようだ。
ルルおばさんがもし家を出ていくようなことになれば、今回のプロジェクトは失敗になる。どちらも、適当な距離を保ちながら、なんとなく認めあうような関係を保ってくれたらと思う。

ずっと里親が決まらなかったダイアン。だけどうちのカミサンは、ネットで写真を見て、ずっとダイアンと決めていたようだった。他にも、たくさんの犬がいたにもかかわらず。
人に振り向かれない、人気のないものこそ、わが家の家風に合うと思っている。ぼくたちは。

(前回の前書きをここに追加)

我が家にダイアナがやってきた。5歳の♀犬。mix。(JOOL 3/9 参照。レフュージではそう呼ばれていた)
ダイアナを辞書で調べてみると、ローマ神話では樹木の女神、ということになっている。ぼくには、「Candle in the wind」のダイアナしか、思い浮かばないので、何となく、ちょっとなあ、ダイアンでいいじゃん、などと考えていた。ダイアン・キートンのダイアンだ。
ダイちゃん、てのもいいよね。ぼくらにとっては、それは、昨シーズンまでFCにいた、あのスペシャルなダイちゃんのことだ。新天地でも、元気にボール回しをやっていて欲しいものだ。

さてそのダイアナも、我が家に来て1週間。少しずつ、poco a poco 表情がおだやかになってきた。ご飯はよく食べる。だけど、ウンコやオシッコの回数が極端に少ないので、まだ気持ちを許していないんだなあと、思う。
ダイアナが立ち上がって歩いている姿もほとんどみたことがない。いつも寝ている。
ダイアナのために、柵つきのウッドデッキを作ったのに、これじゃあ、なんだかさびしいぞ。
デッキは完成しました。立派です。自画自賛。

○3/16 ポスティング、おおポスティング

次々とオーダーが入ってくるポスティング(便利屋の話です)。
1月の終わりころから、同じルートを何度まわったか。年度末に向けて最後の攻勢をかけるべく、紙爆弾は炸裂している!
あまりの大量投擲に、受け取る側の苦情も殺到しているようだ。
何度もまわって、ルートが確定してくると(それまでは、古い住宅地図と、リストを片手に、試行錯誤)、運転手とナビゲータは、ひとりでこなすことになり、大きな団地のポスティングも(500世帯とか)、ひとりでやってます。

○3/24 春の準備

毎年恒例の味噌の仕込みが終わると、もう春です。少しずつ余裕がでてきて、去年作った味噌はまだ2瓶そのまま残っているので、都合4瓶の味噌があることに。といっても瓶は小さなものなので、たいしたことではないけれど。まあ、自家消費分には充分です。
同じころ、家でなっていた柚もなくなり、薪の棚にもあちこち空白ができて、いよいよ春が、もうそこまでというところです。

○4/10 オヤジは猫に嫌われる

ダイアナがやってきて一月たった。だいぶなじんできているけれど、まだほとんど外に出ることはない。カミサンの仕事部屋で一日の大部分を過ごし、トイレも家の中だ。
猫のルルとは、なんとなく棲み分けができて、あまり干渉しあわないようにしているみたい。ありがたいことだ。
もともとルルに甘いオヤジとしては、ルルがいなくなってしまうようなことがあったら、とてもつらい。だから、いままでにも増して、ルルには甘くなる。抱かれたりするのは、ほんとうに嫌いな猫なのに、つい抱きしめたりして、オヤジは猫に嫌われている。

○4/10 Just like you

確か、3月31日だったと思う。ひとりでポスティングをしていて、10時の休憩でマックに入って、コーヒーを飲んでいた。
村上春樹の本を読んでいた。「走ることについて語るときに僕の語ること」。
彼が小説を書こうと思い立ったのは、1978年4月1日の午後1時半ころだ。それは、この本にはっきり書いてあるし、以前にどこかでそのことは読んでいた。

そこから30年前にタイムスリップしていく。
そのころの自分を思い出していた。
確かミニコミは作っていたな。21才だった。
その年の5月に、「ハーダー・ゼイ・カム」の上映会をしたはず。
ライブの企画のようなこともしていたし、その店の運営も手伝っていた、ような気がする。

そのころに作っていたミニコミを探してみた。
78年3月に出した4号と、8月に出した6号のことはなんとなく覚えているのに、そのあいだの5号のことはすっかり記憶から抜け落ちていた。

押入やら、廊下やら、あちこちに積み上げられている段ボールのなかをひっくり返していたら、でてきました。
「LUV」第2期5号、78年5月発行、というやつが。発行日が5月17日で、映画の上映会は5月27日になっている。ということはつまり、会場でこれを配ろうという算段だったのだろう、ということが推測できる。

余計なことは言わず、まず、その文章を転載することにする。かなり恥ずかしい部分もあるのだが、カットはしないことにした。茶化しのような注が入っているのは、まあ、勘弁してくれ。こうでもしないと、とても読めないのよ。

○『全力疾走に向けて』(1978/5)

*ぼくたちは生きるためには闘いつづけなければならない

 これは東由多加【原注:東京キッドブラザーズ主宰者】の『地球よとまれ、ぼくは話したいんだ』という本の中の一節である。
 ぼくは「ハーダー・ゼイ・カム」の上映会(注:映画については説明を省く。岐阜市内の徹明公民館で上映。フィルムの提供先は、名古屋のセンチメンタル・ファミリー。急きょ決まった話で、チラシ製作も、会場押さえもバタバタとやっていた。岐阜で自主制作の映画を作っていた人たちとコンタクトが取れて、宣伝を手伝ってもらえることになった)を「たたかい」のひとつだと自分なりに規定することから始めた。「まず自分のため」にこの上映会をやりたかった(注:とても利己的で個人主義にしか思えないけれど、それが常に自分の出発点だったかもしれない。一歩間違えば、ドイツW杯の日本代表の中田ヒデになってしまうのだけれど)。「自分のため」という言い方があいまいなら、「岐阜に今住んでいるボクという人間のため」だ。

 岐阜の若者の文化のために、とか、岐阜をおもしろい街にするため、とか、そんな慈善事業みたいな発想はコレッポッチも持っていない。とにかく今のボクは自分のコトを考えるだけで精一杯だ。
 この上映会のための準備とか、LUVを出していく上で、いろんなヒトが手伝おうか、と言ってくれる。それはそれで非常にうれしい。涙が出そうなくらいうれしい。
 だけど今のぼくは「共同作業<60年代的意味での>」というものをほとんど信じていない。単なる幻想であればまだ素直に信じられたかもしれないが、「共同作業」はいつも引き裂かれた現実としてぼくの前にある。

 「今は個人主義の時代だから…」と以前ぼくはヒジョウに嘆いたことがった。「だから何もできないし、何も起こらない」と。でも今ぼくが生きていくためにはその個人主義を逆手にとるしかない。
 ぼくが以前関係していたセンチメンタル・ファミリーというところは「70年代という時代を60年代的思考で生き抜いてきたごくまれな集団」だという気がする(注:いま思えば、当時はまだ、そういう集団はあちこちに残っていたと言うべきだろう)。この集団は今までずっと「無償による共同作業」で維持されてきた(注:80年代以降にそれを忠実に実践していたのが、「夏の楽園」ではなかったか…)。これからもおそらくそうであろう(注:そのとおり、予言は当たったよ)。60年代の当事者でなかったことがくやしくてたまらなかったぼくが、自然にそういう集団にひかれていったことは前にも書いた。

   センチメンタル・ファミリー名古屋(注:センチメンタル・シティ・ロマンスというバンドの事務所でもあった)、センチメンタル・ファミリー大阪(注:そのころには、「春一番」の主催事務所であった)の、それぞれのリーダーである竹内氏、福岡氏は、60年代の純粋なる生き残りとしてぼくは尊敬せざるをえない。できればぼくも彼らのようになりたかったとさえ思う。(注:このふたりの30年後の現在については、残念ながらぼくは多くを知らない。それぞれ、60年代の生き残りとしての思想を、実践しているはずに違いないと思うだけだ)

   ところが東由多加に言わせると、ぼくは「戦後の三世【原注:1980年に向かって青春を燃焼させている世代】」であり、竹内氏たちは「戦後の二世【原注:70年代前半までに青春を過ごした世代】」ということになる。
 世代が異なれば「たたかい」を進めていく上での方法論が異なるのは、ある意味で当然であり、従って今のところ、ぼくはぼくなりのやり方でいくしかないと思っている。

   これをもう少し身近なコトで言えば「ふんにゃら洞(注:徹明小学校の向かいにあった、ライブもやる飲み屋)」というスペースが「戦後二世」の方法論で展開しているということだ。【原注:戦後二世、三世というのはズイブンあやふやな定義だが、フンイキとして納得してもらえると思うのでしばらく使わせてもらう】(注:こういう定義が好きだったんだと思う。言い換えればレッテルを貼ることが…)
 もちろんぼくはその二世たちのしてきたことを否定するつもりはないし、できる限りの部分を引き継いでいきたいと思う。ただ方法論まで引き継いでいくことはやはり無理だと思う。

*ぼくたちの世代

 今回の映画の上映にあたっては「ふんにゃら洞」と「Joker(注:名鉄新岐阜駅と国鉄岐阜駅のあいだぐらいにあった、当時岐阜で唯一のロック喫茶。サントリーホワイトの取っ手つきのデカボトルが、いつもマイボトルで置いてあった)」に協力してもらっている。それは打算的な考えによるものではなく、ごくごく個人的にこの二つの店が好きだという理由に他ならない。
 両方に行ったことのあるヒトはよくわかると思うけど、この二つの店はまるっきり違った発想の上になりたっている。つまり「ふんにゃら洞」は「戦後二世」の発想で展開し、「Joker」は「三世」の発想によっている。二世になりたかったけど、どうしようもなく三世であり続けるぼくのような中途半端な人間は(注:うん、よくわかっているじゃないか)、割とどちらも行き来できる。

   でも本質として(注:おお、本質論だ)、ぼくは三世なのだ、という自覚からつい先日「ふんにゃら洞」のヒトと仲たがいをしてしまった(注:もうあんたたちとは、いっしょになんかやれないと、啖呵を切ったのだと思う)。でもおそらくこれは言ってみれば、世代の違いとかそんな大げさな話ではなく、個人的なケンカの域を出ない種類のものなので、詳しいことは避けるけど、とにかくぼく個人として岐阜で何かを期待できるとしたら、この二つのスペースしかない(注:ちょっと気を使ってる。このミニコミは、当然その店の人たちも読んでいたわけだし)。

   60年代的なものがどんどん失われ、すでに「80年代をどう生きるか」という選択が始まって、さらに次の新しい世代が次第に台頭し、ヘタをすればぼくらの世代は時代の空白のなかに埋没しかねない状況にあって(注:今となっては、別に埋没してても、ぜんぜん問題ないんだけど、やっぱり、このころは洟垂れ小僧だったし…)、とりあえずぼくにできることと言えば、ぼくの生きざまを(注:この言葉は恥ずかしいぜ、いまは絶対に使わないよ)確かめ、貫き通すことしかない。

   「革命」という二つの文字にもられた様々な現象はすべて活字の世界の絵空事でしかなくなり(注:そうかなあ、ほんとかなあ)、「ロック」もいつしか歌謡曲と変わらない商品になってしまった(注:そうだったかなあ、受け売りだよなあ、これは…)。
 ひたすら自分を信じ、自分をさらけ出し、誰に何と言われようと意地を通し、流れに逆らうことでしか生きていけない世の中だ(注:ほんとうの世の中はそうじゃなかったかも… 自分があえて、ほんとうの世界に背を向けて、そうしたがっていただけで…)。これからは毎日が、ひとつひとつの行動がたたかいなのだ。(注:おお、素晴らしいぞ)

   「戦後二世」たちは60年代を総括できないまま、いつしか「大人」の仲間入りをしてしまった。その責任を彼らだけに押しつけるのは酷かもしれないが、『僕って何』(注:三田誠広の小説)のようにひたすら自分たちの「反抗」を風俗のなかに溶かしこんでしまうような総括は許せない。彼らのおかげでぼくらの世代はマンガとテレビのロボットになりさがり(注:ちょっと、新聞の社説みたいやね)、次の世代に押し上げられて、毒にも薬にもならない存在として「大人」になっていくような気がする(注:今となってみれば、そういう存在は、それはそれで貴重な存在だという気もするけれど… まわりを見てみれば、毒なやつらや薬なやつらばかりで… などと茶化しちゃいけませんね)。

   もちろんぼくらの世代にも責任は大いにある。60年代のイメージの崩壊のなかで育ったぼくらは、状況を、動かすことのできない壁として意識し、本を読むことをやめ、思考を停止し、ひたすら「大人」になることを願っている。こんな70年代に「青春」をすごさざるをえなかったぼくはもう、「80年代」つまり「戦後の四世たち」に期待するしかないのである。そのためにはぼくはいつまでも「青春」であり続けなければならない。「たたかい」であり続けなければならない。(注:ここでなんだったら、Bob Dylan の「Forever young」でも流しましょうかね)

  *あらためて「ミニコミ」ということ

   詩人である鈴木志郎康が「思想の科学 78年3月号」(注:もちろん、当時は読んでいたわけだ、そういう雑誌を。思想の科学はまず鶴見俊輔のものだったと思ってくれたまえ、大ざっぱにいえば)で、こんなことを書いている。
「文章を書き続けるためには、ある種の切実さがなければならない。(中略)書き続けていなければ、私は自分の存在が失われてしまうように思い、この世に自分を存在させ続けるためには、何がなんでも書き続けていなければならないと思いこんできたし、今は一層そう思うようになっている。」【原注:「『文章読本』は表現を遮るにせの通路だと思えた」より】
 ぼくがミニコミにこだわり、書くということにこだわり続ける理由は、この人の考えにかなり近い。とにかく「何で書くのか」「何でミニコミを出すのか」というテーマはいつもいつもぼくの頭をおおい、一時として離れないでいる。

 ぼくたちのコトバ、ぼくたちの文章なんて、今のところないと考えていいだろう。二世たちには左翼風のカタイ文章が説得力を持ちえたとしても、ぼくらにはピンとこない。一時「宝島」がヒンパンに使っていた、断定がやたら多くて、自己満足的な文章が流行したけれど、あれもぼくらの文章じゃない。
 最近はどうしているのか知らないけれど、「宝島」の編集長であった北山耕平の文章は、一時かなりもてはやされて、若者向けジャーナリズムはあんな感じの文体ばかりになったけれど、ぼくはあの文章を信ずる気になれなかった(注:でも、じつはぼくも愛読者だったよ、うん、否定はできない)。あまりに楽天的すぎるというか、いつしか問題の焦点がぼけてしまっている。あんなコトバで、文章で、ぼくたちの世代を語られたらたまらないな、という感じがあった。さりとて、ぼくにはこれだという決めてかかれるものが何もない。
 だからこそ書く。それしかないのだ。(注:うう、ちょっとこれは突然の結論だわね)

○4/18 ウェブサイトは究極のミニコミ

ページ設定による字数制限がない。テキストだけならほぼ無限と思えるスペースだ。
印刷の手間がいらない。
配布の手段を考えなくていい。
プロバイダーがつぶれるか、自分の意志で削除しない限り、永遠に存在し続ける。

30年前の文章を読んでいると、ミニコミというメディアに、けっこうこだわった人生だったのかな? と思える。だけど、こだわるだけのものが、そこにあったのだろうか?

最初にそういうメディアをぼくの前に、提起してくれた大学時代の仲間H君に、あらためて感謝したい。
それまで自分が、どうやら文章を書くことが嫌いではないらしい、あるいはひょっとして好きなのかも、などとは、思ったこともなかった。

「ミニコミ」はもうずっと前から、死語かもしれないけどね…

○4/28 いまから30年前に、「共同作業」はすでに死語であった。

自分自身がそういうものに幻想を抱いていただけに、目の前の現実には手厳しい。
安易にはこころを許していない。だけどホントは、本音のところは、そういうものをこころの底から求めていたんだと思う。
そのことは30年たったいまも、たぶん変わっていない。
「共同体」などという幻想に、安易に寄りかかりたい自分を、いつも牽制していた。だけど、あるとき、ある場所で、その幻想は現実としてふいに目の前に姿を現すことがあった。おもに、フリーコンサートの準備などをしているときに…

期待があっただけに、その共同幻想に対する自分なりのスタンスはとても厳しいものだったと思う。まやかしの共同作業なら、やらない方がましだと、そのときのぼくは考えていただろうし、30年近くたったときにも、やっぱりそう思っていたと思う。
甘いだけなら、口にしたくはない。ほんとうの「共同作業」なんて、絶対に嘘だと思っていたと思う、そのころ。21才か、22才のころ。

○5/26 「だからこそ書く。それしかないのだ。」

ううむ。重いことばだ。30年前の宣言。
自分で書いた手書きのミニコミを読むと、そのころの思いは30年後の自分にも伝わる。
恥ずかしいほど、まじめで、まっすぐで、教条主義的で、マスコミのことばに踊らされているけれど、何かを書き続けていかなければならない、という思いはストレートに伝わってくる。

それから30年。
あいかわらずいつもスタート地点に立ったままなのかもしれない。
何も成し遂げていないし、何も残していないから。

過去1年分のものは、こっちに移動しました。

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