鏡島弘法 
日本三躰除厄弘法大師
瑞    甲    山

寺伝によると、乙津寺の開創は、奈良時代の行基菩薩である。赤坂から各務野までが海であったころ、乙津島に着船された菩薩は、ここを仏法縁由の地と定め、草庵を結び、自ら十一面千手観音像を刻んで安置された。
813年、弘法大師(空海上人)は、嵯峨天皇の勅命を受け、当地で
37日間秘法を祈祷、宝鏡を龍神に手向けると、海原の潮がひいて一帯が陸地になった。そこで、ここを
「鏡島」と呼び、伽藍を築いて乙津寺と名づけられた。この折、弘法大師は、梅の杖を堂前の大地にさし、「この杖に枝葉が繁るなら、仏法も栄えるであろう」と呪せられた。すると不思議にも、逆枝が生じて花をつけた。乙津寺を「梅寺」と称するのは、この霊木の縁起によるものである。
古くは真言宗で、鎌倉・室町のころは、京都御室御所院室(仁和寺)が、
乙津寺住職を兼務していた。当時は七堂伽藍の大寺院で、
関白一条兼良や連歌師宗祇など、著名人が参詣祈願している。

天文の大洪水と重なる政情不安で、寺門衰微の時、鏡島城主石河駿河守光清は伽藍を再建し、1545年京都妙心寺の弧岫禅師を招いて
禅密兼学の道場とした。二世蘭叔禅師は「酒茶論」を著した高僧である。

織田信長、豊臣秀吉、江戸時代には徳川将軍家の信仰厚く、
寺領
55石の朱印状を拝領している。また、雪舟を含む多くの書画文書を保持していた。
1945年、第二次大戦中の岐阜空襲で堂塔は焼失したが、重要文化財の仏像だけは、奇跡的に難をまぬがれた。
今も毎月21日の命日には、多くの参詣者で賑わっている。
乙津寺西の長良川には「小紅の渡し」があり、手こぎ舟による風情を楽しむことができる。
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