鏡島弘法
日本三躰除厄弘法大師
瑞 甲 山
![]() ![]() 37日間秘法を祈祷、宝鏡を龍神に手向けると、海原の潮がひいて一帯が陸地になった。そこで、ここを「鏡島」と呼び、伽藍を築いて乙津寺と名づけられた。この折、弘法大師は、梅の杖を堂前の大地にさし、「この杖に枝葉が繁るなら、仏法も栄えるであろう」と呪せられた。すると不思議にも、逆枝が生じて花をつけた。乙津寺を「梅寺」と称するのは、この霊木の縁起によるものである。 ![]() 乙津寺住職を兼務していた。当時は七堂伽藍の大寺院で、 関白一条兼良や連歌師宗祇など、著名人が参詣祈願している。 天文の大洪水と重なる政情不安で、寺門衰微の時、鏡島城主石河駿河守光清は伽藍を再建し、1545年京都妙心寺の弧岫禅師を招いて 禅密兼学の道場とした。二世蘭叔禅師は「酒茶論」を著した高僧である。 ![]() 寺領55石の朱印状を拝領している。また、雪舟を含む多くの書画文書を保持していた。 1945年、第二次大戦中の岐阜空襲で堂塔は焼失したが、重要文化財の仏像だけは、奇跡的に難をまぬがれた。 今も毎月21日の命日には、多くの参詣者で賑わっている。 乙津寺西の長良川には「小紅の渡し」があり、手こぎ舟による風情を楽しむことができる。 |