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 曽我屋の西北乾(戌亥)の地に式内社津神社があります。この社は今から千百年前、平安時代の中期に建立された古い社で、祭神は四道将軍のひとり「武額川分尊」〈タケヌカカワワケノミコト〉が祀られ、美濃国方縣郡の中では有数の格式(現在郷社)高い由緒ある神社であります。
 
 広大な境内(今でも八千五百平方米あり)の中に七堂伽藍の構え、当時参道は今の合渡小学校の西あたりまであり、戦国の世織田信長美濃平定の砌り、曽我屋城の砦と見誤まり焼打ちしたと言われている。
 
 この神社は、夕ヶ池と深く関わりがあります。その昔祭礼には夕ヶ池に紅とお白粉を供え、祭礼に使用するお椀を池に頼むと池の真中に頼んだ数だけのお椀が浮き上がって来て、祭礼が終わると必ず池に返していたのを或る年ひとりの良からぬ者が一個持ち去り返さなかったので以後借りられなくなった。
 
 祭り本楽には早朝「鳥の子」(おこわ)を参詣の氏子に布れ太鼓の音と共に配られる。(鳥の子は通常もち米で拵〈コシラ〉えるが津神社は神格により全部うるち米で堅いおこわである)当日夜明け前使命された祭り元が夕ヶ池で身を清め、池水で鳥の子の米をかしておく。(米を洗って水に浸けておくこと、昭和四十年頃中止となる)
 
 お供えには夕ヶ池の鮒と水際に群生する芹をはじめ海、山、里の幸を十数種奉じ、鮒は生きたまま頭と尾を糸で結えて(船底型に反り)供え,式后池に返します。
 
 夕ヶ池(夕べが池、通称ゆうべんけ)
 
 曽我部村邑西にある夕ヶ池は昔田植えの時、妊娠中の農婦がこんな股まで埋まる沼で、ひとりで田植えをするのはいや、いっそ池にでもなってしまえと言って田に翌日分の苗束をうって帰り、翌朝いってみると大きな池になっていた(今でも翌日植える苗はうつなと言われる)
 
 一夜のうちに夕ヶ池ができた翌朝、池の数里南、州股川に大きな中州ができる(長良川に注ぐ地点秀吉が築いた一夜城のあたり)この中州は埋没した夕ヶ池の土が浮き上がったものという。一朝にしてできたこの中州を「今朝ヶ島」という(美濃国古墳考の一節には「曽我部島」と記されている)夕ヶ池と今朝ヶ島は地下で深く繋がっている。
 
 夕ヶ池は北方のの円鏡寺と深い関わりがある。後堀河院寛喜二年に紺色の水牛が一頭夕ヶ池にあらわれる。背に大般若経六百巻と宝珠をのせて円鏡寺方面に向かって走り出す、村人はその後を追ったところ円鏡寺南でその姿を見失う、村人は牛に引かれて円鏡寺詣りをして帰る、牛が背負っていた経文と宝珠は円鏡寺へ運ばれたと。(円鏡寺縁起の一節にも記されている)
 
 牛が姿を消したところは円鏡寺南二百米(今の北方清水町)の地点で、以前は立派な角堂が建てられていた(現在馬頭観世音と大きなお堂が再建されている)そのお堂から円鏡寺境内にいたる間、ガマ水(湧水)の川がつづきそこには夕ヶ池の鯉がたくさん泳いでおり「清水の鯉」として有名でした。(戦后なくなる)いま円鏡寺公園の一角に、一服茶屋「ゆうべんけい」があり縁日には大へん賑わい昔の面影を留めている。
 
 因みに、円鏡寺の山号は「池鏡山」といい、池、鏡の字句があることからも、夕ヶ池とのかかわりも宜〈ムベ〉なるかなの感じがします.
 
 以上は今から七十年前私が小学校五年生の頃、合渡小学校に赴任して来られたM・W先生から自習時間に「郷土の伝説」として聞いたものです.
 
 当時の授業時間割は、読み・書き・算盤が主体ですが、当先生は時折り土曜日の午後一〜二時間程の自由自習時間を設けられその折に、いろいろと国史的な話し等よくされました。ラジオ・テレビもない時代に前文のような話しは、誠に興味津々、心耳に聞きとめたものかまだ昨日のごとくに記憶にも新たにしております。
 
 ここで、当時の小学児童の様子を少し・・昭和初期の世は、金融大恐慌が起きた矢先満州事変など勃発、経済の大不況時代でした。貧しく子沢山の家庭が多い農家のくらしもたいへんにきびしいものでした。


 児童の服装は、紐付き四つ身の着物に草履・下駄履きで通学、お昼のお弁当を持参する者は少なく家まで(一〜二K)走って食べに行ったものです。農繁期になると家の農作業(養蚕・米麦の穫入れ・田植等)を手伝うため長期休学する者も可也りいました。

 書き方の時間習字の習ひ紙は四ツ切りの古新聞でした。
 
 今を想うに、すべて隔世の感一入です。
                                   (曽我屋に住む八十歳代の男性が書いてくださいました。)

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 大正最後の年に寺田で生まれ昭和、平成と生かされて居る私の学校時代は恵まれて居りませんでした。小さい頃は兄弟が多くて上から順番にお下がりの服を着せられ、膝に継ぎを当てた衣服に足袋、下駄ばきで学校に行きました。冬は上着の代わりに綿入れの羽織もんぺ姿です。母は私達姉妹六人の為に機織をして反物を作り、衣服を作って着せて貰いました。
 
 終戦からはもっとひどいもので妹たちは校舎が全焼してしまい神社の境内で木陰の下で勉強したり、藁細工をしたりして居ました。修学旅行はなしでした。教科書は隣近所の上級生のを貰って使いましたがそれが普通の事でした。学級は五六人一組で先生は何時でもスーツを着て居られ威厳があり尊敬して居りました。登校拒否等聞いたことがありません。考え方も手伝い優先で取り入れ時には手伝いの為母が学校まで呼びに来た位です。でも不平は言いませんでした。父母が少しでも楽になる様にそれぞれ姉妹分に応じて手助けをしたものです。

学校での遊びは鞠つき、お手玉、ドッチボール、陣取り、編み物、靴下等編んだものです。

 行事では心に残るのは小学校、中学位の子が歳晩から元日にかけて自分で作った名刺をお目出度うの大声と共に各家々の玄関に貼って廻り元日の朝早くそれを拾って読むのが楽しみでした。一月六日は報恩講、母に連れられお寺にお参りをしました。門前でお菓子を買うのが楽しみの一つ。十四日は左義長、習字が上達する様に自分で書いたのや父に書いて貰ったのぼりを持って燃やしに行きました。

 節分は豆撒き、私が何時も鬼のお面をかむりました。

 桜が咲けば友達と穂積迄桜見に親は何時も忙しく友達と遊びました。

 五月の末は蚕が家中一杯になって私達人間は土間か外で寝た事もあります。その頃蛍がいっぱい飛び交い家の中迄飛んで来る位でした。妹等を背負って蛍狩りに行ったものです。堤防には茨の白い花が真白に匂い咲き乱れ、月見草が黄色の花を咲かせていました。楽園の様でした。散歩して居ても悪者が現れた話しは聞いたことがありません。
 
 夏休みには泳げないのに川に行って目高すくい等して遊びましたが、プールがないのに溺れた話しは聞きませんでした。

 九月には観音様祭り、お参りして提灯を貰って帰りました。男の子はお墓まで肝だめし会をしたり、お寺の藪の中でお化け屋敷など作って友達と遊びました。

 堤防に草が生えれば箱車をめいめいに引いて牛の草刈、箱一杯になるとそれからは遊びの時間、みんな楽しそうでした。そして一番心に残るのは日曜学校、お寺でお話を聞きお経を読んでからゲームの時間の後でお菓子を貰うのが楽しみの一つ。今でも続けていただいて居ますが子供の頃知らず知らずのうちに人としての在り方を感じ取った様な気がします。
 
 私の青春時代は空襲敗戦で丸焼け裸足で焼跡に立って居た事を思い出しますが気持ちはそんなに落込んで居ませんでした。若かったからか家中力を合わせ復興に励みました。希望を持って生きた気がします。とにかく貧しくもみんな生き々として一生懸命でした。今とは心の持ち方が違う様な気がします。倖せは物質ではないと思います。恵まれ過ぎて生きる喜びが見出せないのかも。

 あの頃は上手に言えませんがほのぼのとした何かが情緒が人間同志の間に漂って居た様な気がしてなりません。
                                   (寺田に住む七十歳代の女性が書いてくださいました。)

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 河渡は、昔中山道の宿場町として、繁栄したところでありその宿場も、東に長良川という大川をひかえて土地であって、この付近の人々の職業は宿場町であるので旅館、それに付随して旅人の川を渡るための手助け仕事、旅人あるいは品物を運ぶ仕事、川端という立地条件から漁業とそれに農家が大体の職業であった。

 その中で川に関係するものが最も印象深い。それは長良川という清流があり、その川の恵みを受けて生活をしていた先祖がこの地域における祭り事の一つとして長く子孫に伝え行われているのが川祭りであり、夏季に川端の一角に水神様が鎮座しますお社に毎年旧暦の六月十六日に神事が行われる。(近年は7月下旬の日曜日)
 
 この祭りは、愛知県津島市にある津島神社に各組代表が代参して新しい御神体をお受けしてお祀りし住民合集まり川に対する恵みに感謝すると共に水の災難からのがれるようにと水神様の御加護あらんことをお祈りする祭礼である。

 昔は、河渡の者は勿論のこと近隣の村からも大勢の人々が集まり付近には夜店も出て盛況な祭りであった。祭りも近年は堤防上の水神様(お社)から川まで提灯をさげ連ねて川まで参道と照らす、また一方お社の付近には小学生が行灯を一帯に並べて祭りを盛り上げるという催しを行っている。しかし参拝者は以前のことを思うと年々少なくなっているのが寂しい。
 
 長良川も昔は交通の手段として利用され、当時ポンポン舟と言って長良川を下流の墨俣、桑名方面へ又上流へは長良川方面へと行き来して、荷物を運ぶ船であって当時の船は焼き玉エンジンを使用していたのでポンポンと大きな音をだすのでポンポン船と呼んでいた。又その船で桑名まで潮干狩りにも行ったものである。川の両岸を眺めながら船旅を楽しみながらの潮干狩りは一種独特の味わいであった。
 
 真夏になると花火大会が開催されるその見物に川を利用して、穂積、墨俣方面から船で出掛ける人達もいた。
 
 又夏には、昼間下風(南風)の吹く日には船に帆を張った帆掛け舟が下流からのぼって来るのをよく見かけた。それらの船着き場も民家近くにあってほどよく繁栄していたのである。東向かいに今も港という町名が残っているし、長良にも湊町がある。木田の尻毛にも船着き場としての面影を残しごく最近まで船着き場としての保管倉庫などもあったのを記憶している。

 しかし川は何と言っても夏がメーンで特に目を引くのは現在の水神様のあるとことから約百五十メートルぐらい下流の位置が水泳(水あび)の場所であった。大昔は宿場町のすぐ東側であり川の渡り場所であったといわれている。学校の夏休みともなると水泳(水あび)の子供達で大繁盛小学校三、四年生ぐらいになると川の東岸まで泳いで横断したものである。
 

しかし川は何と言っても夏がメーンで特に目を引くのは現在の水神様のあるとことから約百五十メートルぐらい下流の位置が水泳(水あび)の場所であった。大昔は宿場町のすぐ東側であり川の渡り場所であったといわれている。学校の夏休みともなると水泳(水あび)の子供達で大繁盛小学校三、四年生ぐらいになると川の東岸まで泳いで横断したものである。
 
 東側の河原ではアユを大網で捕る網引きの場所があり、そこの猟師は殆どが河渡の人で十人ぐらいのグループで引いていた。その網引きを手伝ったもので大きな鮎がピチピチ跳び撥ねるのを見て喜んだのを思い出す。
 
 このような清き流れの美しい川も一旦豪雨ともなれば濁流渦巻く悪魔の川と化し田畑は勿論のこと、時には住民の生命財産をも奪い取られるような悲惨な事態が過去何回となく繰り返されたことはこの地域の歴史が物語っている。

 しかしながら最近は、長良川河口堰ができて川の流れが早く危険水位を超す場合も少なくなり、それも時間的に短い時間に水位が下がるといった状況に加えて堤防も改良工事が進められ過去の水害による苦い経験から解放された感のする今日ではあるが、これも気象条件によって例外的に起こる豪雨等もあることを十分考慮して常日頃からその対策を考えておくことが重要であると思う。
 
 何れにしても河渡という地名がついているところ以が昔から川との因縁は強く川を渡るところということから此処の地名としたと思われる。そのようにこの河渡に住む人達にとっては川との馴染み深い関係は極めて密接なものであったし、また今後も未来永却この関係は続くものと考えられる。

 かつての清流長良川の渡り場、水の守り神を祀る川祭り、そして中山道の宿場町として繁栄した過去の貴重な歴史文化は後世に伝えたいものである。
                                    (河渡に住む七十歳代の男性が書いてくださいました。)

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 天保年間長良川右岸(河渡川)に河渡宿の渡し場があり、最初自然提から川の方へ大きく膨らんだ丘の上(大猿尾)には六間四面のお堂が建立されて、旅人がこのお堂で川止めともなると何百人もの人であふれ、重要な交通の拠点で渡しの舟の出るのを待っていたが、天保十三年(一八四二)当時中山道五四番河渡宿のご伝馬役が中心となり銭百文づつを寄進して堂内に馬頭観音さんをまつり、旅人の道中安全を祈った。
 
 この観音堂は天保一四年の洪水で大破し又明治二四年濃尾大震災で倒潰し、又二九年の大洪水で流れ提外中断渡舟場右岸の高い所に再建されたと聞く。  

 この頃子供の私は夏は川遊び冬は提の芝すべりに明け暮れて観音堂付近が子供等の遊び場でもあった。
 お堂は西向きで地蔵さんも並んで建っていた。春は提一面タンポポ、つくしが咲き乱れ、夏は大きな木の赤百日紅がとてもきれいに咲き乱れ遠くからの眺めはとても美しかった。

 この頃の思い出の一つ、まだ小学校の妹が水泳中に溺れて、浮いたり沈んだり流れて行き、もう駄目だと思っていると又浮かんで来た。妹は真青な顔でもう駄目と思って浮かび上がったとき、観音さんが見えて、「ここだ!」と呼んで下さる・・夢中で岸に着いたと、今でも観音さんのお陰と喜んで河渡に来ると必ずお礼参りをして行きます。

 私も大東亜戦争に行くとき(海軍入隊)兵隊送りといった一七年九月一日、洪水で長良川も川止め、渡し舟は出ず鏡島駅には行けず、氏神神社と観音堂に参り武運長久を祈って穂積駅まで歩いていったが途中一般の人は今のお墓の提の上で万歳、万歳お国の為に頑張ってきます、胸をたゝいて生きては帰らずと多数の人に送って頂いたのも昨日のようです。見送りの中には墓場に送ったからもう二度と帰ってこないだろうと言った人もいたと・・・でもいく度かの戦闘に参加し、最後にフィリッピンレイテ沖の海戦に全軍突撃せよとの命で決死隊となりしも、幸か不幸か九死に一生を得て焼け野原のなつかしいふる里河渡に復員した。

 ・・・どうしようか?変わり果てたふる里、泣くにも泣けない・・・どうしようも手のつけようも無かった、でも何とか復興せねばとみんなで努力して今日となる。
 
 九月一七日、観音さんのお祭りには出店が多く並び賑やかでちょうちん、あんどん、大あんどん(絵をよく書いたもの)のぼりもたくさんたてられて、祭りの終わるころ、ちょうちんの奪い合いがありみんなで楽しんだもの。

 河渡「おんど」おどりや素人芝居も盛んで何の慰安もない戦後の楽しみでもあった。芝居で私も「やぶ医者」となり重病人の喰う気がなくなった人を自転車の空気入れを持って走り患者に空気を入れて笑わせたことを思い出しています。
 
 又中山道の美江寺から鏡島の弘法様まで乗合バスが一日二、三回通っていた。穂積本田の美人の娘さんが運転士でホーロ(屋根)のついた普通車で洋裁で首には狐か狸の襟巻きをして粋なものでした。
 
 河渡観音堂の北に豊坂屋という菓子屋があり、そこが乗り場で客のあるときは赤旗を上げてあった。弘法様の二十一日の命日は満員で若衆が楽しんで乗っていかれたことを覚えている。
 
 又それと同じ頃自動車が通るのは日通のダイハツオート三輪(角ハンドル)位で、もちろん屋根はなく、一日に一回〜二回位で荷物を運んで合渡橋の坂道を登るときはポンポンとエンジンを吹かしても走らず、私たち子供は車が珍しく、ガソリンの臭いがとてもよかったので、走って押すつもりが車につかまり怒られたものです。
 
 合渡橋は木橋で(昭和五五年、新しい橋になってからは河渡橋)蒸し暑い夏の夜、橋の上にゴザを敷いて涼み、遠くからかがり火をたいて下ってくる鵜飼を楽しんだものです。鵜飼は「上」は長良橋「中」は忠節橋「下」は合渡橋の下を通り河原でアユを「はかせ」竹籠に鵜を入れて終わりです。あの光景は天下一品で近所の人で賑わいを見せていました。

  河渡の歌
     一、花が咲く 春は一面 レンゲの花が
               種は日本で一のよさ
     一、水はある いかな日照りも 心配するな
               秋にや黄金の波が打つ
     一、下鵜飼 名古屋けさ出た モーター舟も
               日暮れにゃ河渡の岸に着く
     一、下鵜飼 橋の手すりに もたれて見れば
               あの子と私のほほがする

 馬頭観音堂は昭和五六年から始まった、新堤防築造に併せ国の援助で河渡広報会(自治会)が現在の所に五九年に新しく建設されました。

 観音堂は約三メートル四方と前に二メートルのか庇が出ている。高さは五メートル余りで寄せ棟で造りである。前にあったお堂が交通の要所にあり、不慣れな観光バスやダンプがぶつかったためほとんどの柱が利用できない程傷んだり老朽化していたものの、正面軒下の彫り物の「けた」(木板)だけはそのまま使われ名残をとどめています。古くから河渡に伝わる地蔵堂も観音さんの隣へ移転(明和七年の首のない地蔵さんもある)、正面右側には「馬頭観音菩薩」と彫られた石柱、縁起を刻んだ石碑も建てられている。西には二メートル〜四メートルの物置が作られている。一番問題だった資金は国も出資金に加え地元の住民や河渡出身の人達が遠くから故郷に心を寄せて寄進してくだされ、計画通り念願の観音堂を完成することができました。

  「馬親観音さん」としまれていたこのお堂には昔から九月一七日の例祭になると周囲の町村から多くの人達が集まり家内安全や豊作を願って賑わいました。今回の新築を機に老朽化とともに途絶えた昔ながらの賑やかな例祭を復興する意気込みで当時のように三百個の「ホオズキ」ちょうちんを飾ってムードを盛り上げました。
 
 馬頭観音堂落慶祝賀行事を昭和五九年九月一六日(日)、例祭が一七日(月)二日間にわたり盛り上がりました。

昭和59年9月16日 落慶祝賀行事
午前   9:00 祝賀号砲花火
9:00〜11:00    落慶祝賀式典
11:00〜12:00    鵜飼太鼓
鵜飼おどり
午後    1:00〜3:00 子供相撲
自転車安全運動
ゲーム
3:00〜3:30    餅まき
6:00〜6:30    打ち上げ花火
7:00〜9:00    カラオケ大会

 
 お堂の廻りには各戸一人の名前を記入した玉垣も完成しこれからも地域の住民の皆さんが観音さんの周りで幸福に暮らしていけることを大変うれしく思っています。

 平成一四年十一月三日には中山道開宿四百年記念の「いこまい中山道河渡宿まつり」が盛大に繰りひろげられました。時代行列、みこしが観音さんから杵築神社までパフォーマンスをしながら行列し、杵築神社の舞台では芸能発表があり、食べ物店が建ち並び、お抹茶席、フリーマーケット、子ども広場なども設けられ大変な賑わいでした。
 
 昔から観音さんのお祭りの前日には小麦粉の皮でソラマメの餡をくるみ、ミョウガの葉で包んだ「ミョウガぼち」を食べるのがならわしで、戦前まで頃はソラマメの皮をむくため、長良川の水際にお母さん達が並んでザルに入れたソラマメを洗っていました。とてもおいしい「ミョウガぼち」と並んで河渡には池がたくさんあり「ふな」が捕れたので少し焼いて昆布巻きの芯にしてゆっくり煮付けた昆布巻きは河渡の名物の一つでもありました。祭りには親戚の人は楽しんで来られたものです。
                                     (河渡に住む八十歳代の男性が書いてくださいました。)

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