諸行無常、盛者必衰。
 驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如く。
 とはいえ生きている限り、今この時、向かい合うべき問題は引きも切らない。

山伏やまぶし殿。少々、お隣よろしいでしょうか」

 投げかけられた言葉に、山伏はすっと瞑想から浮上した。
 政府施設、廊下。殺伐と血腥い――つい十数分前まで、後ろの部屋で何度目かの乱闘騒ぎが起きていた――場にあって、その立ち姿は朝露に輝く蓮のように、凛と清く、すがすがしい。
 天下五剣が一振り、数珠丸恒次じゅずまるつねつぐ。山伏と同じく守護者計画の幕引き、その立会人として、政府に参じたネームドの刀剣男士である。
 山伏の足元でたむろしていたカラス達が、まあいいか、とでも言うように数珠丸から視線を外す。

「無論である。数珠丸殿と落ち着いて言葉を交す機会を得られ、拙僧としても嬉しく思うぞ!」
「……ありがとうございます」

 立会人としてこの場に集まったのは、何も彼らのような刀剣男士だけでは無い。
 種族も思想も異なる者達に共通するのは、ネームドの関係者であるいう点。そして、此度の所業に対して腹を立てているという点である。
 怒りが抑えきれない者は実行犯達の首を上げる側に回っているが、今後の説明と補填の話を詰めるべく、こちらに残った側もそれはそれで大荒れだった。
 人としてあり得ざる所業であると激しく糾弾する政治家、対応の手緩い部分をここぞとばかりにあげつらっていく役人、少しでも有利な言質を取るべく火に油を注ぐ妖、事態の悪質さを事細かに補足説明しながら、責任を逃れた関係者の情報を引き出そうとする術者……。
 言葉での殴り合いは可愛い方で、椅子が舞い、つかみ合いが起き、机がひっくり返され、拳が行き交い、呪詛が飛ぶ。時の政府も荒れる事は予想して人手を揃えていたようだったが、それを踏まえてすら常軌を逸した荒れようだった。
 見かねた山伏や数珠丸を始めとする何人かが仲裁に回ってはいるものの、それで簡単に落ち着くようなら苦労は無い。
 乱闘騒ぎで議論が中断されては再開し、を幾度となく繰り返しているのが現状である。

「三毒の煩悩、断ち切り難し。欲界とはかの如く――己の修行不足を痛感します」
「うむ。日々、これ修行……とはいえ此度の件は、堪える」

 守護者計画は、時の政府に所属する一部の者達の独断によって行われた。
 それを知らなかった者達がこうして憤り、苛烈なまでの抗議と共に、ネームド達に少しでも多くの補填がされるよう立ち働いてくれているのは有難く、心強い事だ。ネームドを主とする刀剣男士としても、陣営を同じくする仲間としても。
 間違っている事を間違っていると指摘し、正そうとしてくれている。
 その行為自体は正しい。やるべき事でもある。

 しかし、だからといって行き過ぎてよいという道理は無い。

 山伏とて憤りは感じている。己の主で、好ましく感じている人間なのだ。
 そんな主が政府に都合良く歪められ、消滅するまで酷使されるかも知れなかった事に腹が立たないはずもない。
 主による思考汚染の呪い。それに付随する根拠のない安堵が冷静さを保つのに一役買っているのは何とも皮肉な話であった。

「拙僧もまだまだ未熟である。己の心ひとつすらも侭ならぬ」

 怒りに任せ、関係者全員の首を刎ねて回るのは簡単だ。
 実行犯にあたる術者達は熨斗紙付きで差し出された。好きに嬲り殺してくれて構わない、と。
 なるほど、確かにそうすれば気は晴れるだろう。
 けれど、必要なのは保証なのだ。二度と同じ真似を繰り返さないという確約。
 身の安全を考慮して招聘を見送られたネームド達当人への謝罪は勿論、破却された転生術式、その後遺症の確認・対処も欠く事はできない。
 計画が破棄されればそれで万事円満解決、とはいかないのである。

「道具のままであれば良かったと、思う事はありますか」
「あるがままの無我であるか。あるいは、それこそが涅槃寂静の境地なのやも知れぬなぁ」

 そうして、とびきり甘い誘惑でもある。
 感情に振り回され、物事は遅々として進まず、何もかもが嫌になるこの現状にあっては尚更だ。

「だが、ただ無きものに果たして何が成せようか。衆生済度のために力を尽くす。それでこそ、この形を得た甲斐もあろう」

 付随する感情も執着も欲も、己という個我それ自体、さながら夢幻の如き錯覚であるのかも知れない。
 有ると認識する何もかもは、ともすれば今この時、瞬きひとつで消え去る泡沫であるのかも知れない。

 けれど。事実そうであるのだとしても――目の前にあるすべてが、己にとっての"現実"だ。
 迷いは多く、惑うばかりで悟りには未だ程遠い。
 逃げるは易く、目を瞑る事も、否定する事もまた容易い。
 諦める事はいつでもできる。真摯に問題と向き合い、懸命に生きてこそ、辿り着ける境地もあると山伏は信じている。

「我が主より、あなたへ託宣を預かっております」
「託宣……であるか。それを、拙僧に?」

 初対面のはずだ。数珠丸もそうだが、顔も知らない彼の主も。
 は顔が広い。山伏の把握していない知己がいても不思議ではないが、主の交友関係は彼等にとっても話の種だ。
 ネームドは全員が、傑出した功績を認められて政府に名を賜っているめをつけられた。以前からの知己であったなら、浦島辺りから噂くらいは聞いているに違いないのである。
 困惑する山伏に、数珠丸がツと顔を寄せ。

「“開眼供養”」

 密やかな耳打ちは端的だった。
 意味は分かる。しかし、意図が掴めない。
 視界の端。足元にたむろしていたカラス達が、いつの間にか、山伏と数珠丸を見上げている。
 揃って騒ぎも、身じろぎもせず。ただ、じぃ、と。
 身を引いて、数珠丸が微笑む。

「善根功徳ありて良縁なるべし。あなたの主に、かつて友人を救って頂いた恩義に報いる、との事です」
――

 伝言の意味は分からない。その意図するところも。
 だが、数珠丸は伝言をわざわざ"託宣"であると前置きした。
 ならばきっと、覚えておく事に意義がある。
 けれどそれ以上に、数珠丸の主の義理堅さと、示してくれた好意が嬉しかった。

(……主殿に、聞かせてやりたい言葉であるな)

 感謝を欲していない事は知っている。
 それでも彼女は善を愛し、善に焦がれる人であったから。
 威儀を正し、山伏は深々と一礼した。

「心遣い、痛み入る」


 ■  ■  ■


 ――ギャアァ、ギャアア
 ――ガァ、ガァアアア

 カラス達の喚く声は、壁を隔てていてもよく届く。
 それは怒りで、苛立ちだ。まるで足りぬ、手ぬるすぎるという不平不満。
 最初から分かっていた事である。彼等が満足するだけの呵責など、地獄以外では行えまい。
 何百、何千、何万年。痛苦に悶えて死に続けるあの世の刑罰に比べれてみれば、現世の何と物足りぬ事か。

「こ……の、親不こぅ、もの、が――……!」

 吐き出す罵声は呪詛のように。
 絨毯を掻いてもがく老婆が、悪鬼の形相で吼え立てる。
 飯綱使いは狐精、管狐を使役する術者だ。畏敬を込めて“御前”と呼ばれる稀代の天才であろうとも、使う狐を欠いてしまえばただの無力な人間に過ぎない。

「あら。あらあらあらあら……まぁあ」

 たっぷりと血を吸った絨毯が、粘着質な水音を室内へ響かせる。
 管狐は化生の類だ。部屋をしとどに濡らす血も撒き散らされた臓物も、そこかしこに転がる遺骸ですら、物質的な実体を伴ってはいない。
 見えざるモノの姿を見て、聞こえぬはずの音を聞く。
 例えそれが、傍目には狂人の妄想に過ぎないとしても。見え、聞こえる者等にとって、それらは確かに実在するのだ。
 手足を折られて床に這いつくばる老婆を見下ろし、かずらは微笑み両手を合わせた。

「光栄ですわぁお祖母様、身内とお認め下さって。みな、草葉の陰でさぞ羨んでいるでしょうねぇ。親不孝、だなんて! ほほほほほほ」
「ぎッ――

 鋭いピンヒールの踵が、どす黒く膨れた老婆の手を踏み躙る。
 くふくふ、きゃらきゃら。かずらの身に絡み付くファーのロングマフラーが、幼子のような声で嗤う。それは狐だ。頭から尾にかけて黒い一本筋の入った、白くて細長い、こんのすけ達とは似ても似つかない管狐。
 室内の惨状をただ一匹で作り出した狐が、誇らしげに尾を揺らす。

「まあぁ、不満たっぷりのお顔。どうぞ寛大にお許しになって? お祖母様のなさりように比べれば、可愛い仕打ちじゃありませんの」
「復讐、の。つもり、かぇ」
「まさか! こうしてあたくし達が公然と政府に職を得ているのは、全てお祖母様の努力の賜物。恨んでなんていませんわぁ」

 遡行軍との大戦が始まったばかりの黎明期。
 手段を選んでいるゆとりなど、政府にありはしなかった。戦に勝つ。生き延びる。
 その為だけにあらゆる試行錯誤が行われ、人権は有名無実化した。淫祠邪教を用いる事も、鬼畜外道の行いも、勝つためであれば黙認された。

 黙認・・だ。公認されていた訳ではない。

「時の政府の決定でしてよぉ。対遡行軍戦の土台も固まった以上、今後は手段を選ぶ必要があると」

 人は変わる。価値観は歪む。楽に流れる。
 けれど群として動く以上、守らなければ立ち行かないルールというのは存在する。

 守護者計画は雛鴉ひながらすが現世から城下町へ移るのと同時期、何故か・・・術式の一部が壊れ、隠蔽が綻んだ事によって一部の者達――具体的にはネームド達の霊剣御神刀や懇意にしている力ある妖、聡い術者など――の知るところとなった。
 この一件が表沙汰になったとして。何の罪も無い審神者達を無断で人とは呼べぬ存在へと作り変え、戦いが終わるか消滅するまで使い潰す計画があったと、多くの審神者の知るところになったとして、だ。
 それが時の政府に属する一部の者達の企みでしかなかったとしても、そんな組織でこれまで通り、戦っていこうという気になるだろうか?
 情報ネットワークも整備されていなかった黎明期とはもう違う。審神者達の団結は易く、事態の中核にあるネームド達は、揃いも揃って周囲への影響力が強い。うち何人かは政府内部にすら、強烈なシンパを抱えている始末。
 対応を誤れば、ようやく固まった土台から瓦解しかねない。
 付随する諸々の問題を教訓と飲み込んで、時の政府は最悪の事態を回避する為なら関係者の命など安いものだと結論したのだ。これまで消費されてきた、審神者の命と同等に。

――な……、は?」
「至尊の御方のご意向でもありますわぁ。悪鬼羅刹の横行が過ぎるのは、斎王さいおう様の教育に悪いんですって。脇が甘かったのではなくて? こぉんな手抜かりをするなんて、お祖母様もお年ねぇ」

 追い詰められていたから。それしか方法が無かったから。
 言い訳が使えなくなったなら、手のひら返しはままある事だ。
 守護者計画に参加していた術者達は、性根はどうあれ図抜けた腕利き揃いである。故に準備は水面下で進められ、本日めでたく、盛大なお祭り騒ぎと相成ったのだ。生死不問の熨斗紙付きで。
 こうした有事に切り捨てられるはずだったのは本来、かずらの側であったのだが――

「だからお祖母様の為に、立派なお墓を用意しましたのよぉ。ご存知でしょう? 老いず、衰えず、墓守も務まる鋼の墓標」
「ッ――きさ……きさまァ゛ッ! 技、をぉっ、われらの、わざをっ! ぅりおったなァ゛……っ!?」
「ええお祖母様。売りましたわぁ」

 暴力としての管狐の使役などほんの余技。
 情報戦こそ飯綱使いの本領だ。

「なんと……ぃ、……こと゛、お゛ぉ゛っ゛」
「嫌だわぁお祖母様、耄碌なさったのかしらぁ」

 色香が毒と滴る麗貌が、ピンヒールの踵に代わって這いつくばった老婆へと寄せられる。
 幼子に道理を教え諭すように。あるいは小馬鹿にするように。
 ゴロリとそのままもげ落ちてしまいそうなほど首を傾け、告げる。

「あたくし達の技に、秘匿するだけの価値などあって?」

 軽い口ぶりだった。
 穏やかな声音だった。
 朗らかな表情だった。
 ガラス玉のような目だった。

 ヒトの情など解さぬ化生のような。

「長らくお疲れ様でした。用済みですわぁ、お祖母様――あら」


 びしゃ、


 鮮血が撒き散らされた。
 かずらの管狐が金切り声を上げて身をよじり、老婆の口腔から飛び出した人面の狐が、噛み切った尾を吐き捨てて咆哮する。
 床をのたうったまま、老婆がぎょろりと目を剥いて吼えた。

「な゛め゛るなァ゛っ、こむ゛すめェ゛――ッ!!」

 主に命じられるまま、人面狐がかずらの頭を喰い千切らんと襲い掛かる。
 影が走る。白い外套が翻る。朗らかに薄く微笑を湛えていた唇から、ふ、と笑みが掻き消えて。

 血飛沫が、雨の如くに降り注ぐ。

 黒白の狐に噛み千切られて、人面狐の首がごとりと床へ転がった。
 首を失った胴体が、前のめりに倒れ伏す。
 つい先程までの悲痛な様は何処へやら。即座に甲高く抗議の声を上げる狐を指先で嗜め、かずらは忌々しげに嘆息した。
 視線の先にあるのは、太刀を突き立てられて絶命した老婆の死体。そして――

「怪我は」
「……あるように見えて? 待ても満足にできないのかしらぁ、お前」

 後が無いほど追い込んで、切り札まで出し尽くさせて。
 ここからがお楽しみであったというのに、まったくもって無粋な真似をしてくれる。
 侮蔑も露わな嫌味にも、乱入してきた男は平然たるものだ。狐を模した半面越しですら整っていると知れるその顔には、申し訳なさも反発も、欠片とて浮かんではいない。
 激しい抗議に素知らぬ顔を決め込んで、黒白の狐がしゅるりと男へ巻き付いた。

「失礼。だが飯綱の御前亡き後に、貴女を欠く訳にはいかない」
「通り一遍くれてやったのよぉ? 技も、史実も、物語も。甘ったれないで頂戴な」

 獲物を奪われご立腹な狐を管へと押し込んで、かずらは足を返す。
 部屋の外から届くカラス達の喧騒は、収まる予兆どころかヒートアップしているようだった。
 億劫ではあるが、適当なところで強引にでも帰還を促さねばなるまい。雛鴉の癒着がそろそろ終わる頃合いだ。

「しかし、全てではない」
「当たり前よぉ。狐憑きの全てだなんて、後付けのお前如きが担えるものでは無いわぁ」

 八咫烏やたがらすは御霊信仰を根源とする御先神。
 長を選定するのは主神である素戔嗚尊すさのおのみことだが、力の源となるのは長を支持し、従う群れの死霊達だ。
 魂は一夜にして千里を駆ける。彼等の本質は群体だ、本来であれば、長との物理的距離が遠かろうと問題にはならない。
 しかし、この現世と審神者達のいる異界は位相が異なっており、更に悪い事にかの雛鳥は、神霊としては未だ孵らぬ未熟児だ。
 それもあの変異体の所為で、最早群れの支え無しでは器の機能すら保てないだろう有様の。
 だからこそ、群れには傍へ控えていてもらう必要がある。運命は既にカードを混ぜた。勝負の時は近い――器の機能不全が原因で敗北するなど、笑い話にもなるまい。

「与えられたものだけで満足していらっしゃい、クダ屋ちゃん」

 立地の良さとこの半年の猶予が、良い方に働いてくれれば良いのだが。
 何にせよ、老婆と同じく用済みとなった守護者計画の後始末にいつまでもかかずらってはいられない。
 かどわかされたこんのすけも、ついでに返して貰っておくとしよう。

 先の算段を立てるかずらに、榊原さかきばらの抱く危機感が共有される事は無い。
 冥府の意向に沿うのであれば、今を生きる者等の犠牲、ことごとくが些末事。
 関心など、あるはずも無かった。


 ■  ■  ■


 とぷとぷ、ごうごう。

 流れ込む呪いを辿って沈みゆく。
 深く、深く、深く、深く、深く、深く、深く、深く――

 繰り返す悪夢の只中へ。

「主……っ!」

 羽織の裾が、ひらりと眼前で翻る。
 くるりと背を向け遠ざかっていく小柄な後ろ姿を、山姥切国広やまんばぎりくにひろは慌てて追いかけ、走り出した。
 グズグズここに留まってしまえば、あっと言う間に見失う。薄暗く荒れ果てた座敷を飛び出せば、その先に続いているのは落ちる影も曖昧な、暗さを増した狭苦しくて長い廊下。

 ――無駄無駄。どうせお前じゃ追い付けない。

 廊下の両側から圧し掛かる襖絵が、ゲラゲラと嘲笑を投げかけてくる。
 幾度となく再演を繰り返す、記憶に残る地獄絵図。

 ――なぁ、今まで何度呼び掛けた? 一度だって反応があったか? 振り返ったか? 足を止めたか? 無いだろう?

 襖絵の男が嗤っている。
 首の無い男が、致命の傷跡もそのままに、赤黒く染まったままで。

 ――だから、待ってくれの一言だって言えやしない。怖いよなぁ、自分じゃ駄目だって突き付けられるのは。

 耳を傾けてはいけない。あれらは否定するばかりだから。
 目を向けてもいけない。とっくに終わった過去なのだから。

 前を見る。前を走る主を見る。風を切って飛ぶような後ろ姿を、決して振り返ってはくれない背中を。

 ――どうしてだろうなぁ。ほんの少しだけでいい、振り向いてくれればそれでいいのに。ひとこと名前を呼んでくれれば、それだけで充分なのに。

 廊下は何処までも続いていく。
 先にあるのは闇ばかりで、足元の輪郭すらも覚束ない。
 そのくせ行く手を狭めて圧し掛かる襖絵達は、前を走っていく背と同じくらいに明瞭だ。

 ――あんなにも優しくしてくれるのに。丁寧に使ってくれるのに。大事にしてくれているのに。

 飛沫が跳ねる。
 足元のモノを蹴り飛ばす。
 腕を、足を、臓物を、鋼の欠片を、顔の無い首を。
 脚を動かすそのたびに、走る己を追いかけて、啜り泣きの悲鳴が上がる。折れていった仲間の声で、守れなかった仲間の声で、救えなかった仲間の声で。忘れる事のできない耳慣れた声が、後ろから裾を引くようにして恨みつらみを訴える。

 ――それが彼女にとっての当たり前だ。誰であろうと変わらない。お前でなくとも構わない。

 前を走る背に、追い付かなければならなかった。
 前を走っていく主を、連れ戻さなければならなかった。
 ずっと走り続けてはいられない。走れば走るほどに裾を引く力は強くなって、足は重く泥濘へと沈み込む。

「主!」

 廊下は何処までも続いている。
 道は何処までも続いていく。

 死穢に充ち満ちた地の底まで、深く、深く、深く、深く。

 ――ほら、刀を抜けよ。駆ける脚を斬ってしまえ。誰かに差し伸べる腕も要らないな。前ばかり見詰め続ける目は潰して、呼んでくれない舌は引きちぎって、喉も潰してしまえばいい。


 襖絵の中で嗤う男は、いつの間にか消えていた。


 ――そうすればお前を置いていけない。他の男を呼ぶ事も無い。次郎太刀に縋ったりしない。何をしても拒絶できない。


 だというのに、嫌な囁きが鼓膜にぬとりとへばりつく。
 かつての主の真似事のような、胸の悪くなる提案を嬉々として口にする、その声音は。


 ――触れて、抱き締めて、組み敷いて、口を吸って、肌を暴いて、胎を犯しても、



「黙れ!!!!」

 目の前が真っ赤に染まる。
 浅ましい薄ら笑いを浮かべたまま、ぐらり、と男が傾いで、ゆっくりと倒れていく。
 一刀の下に斬り捨てられて、同じ顔をした男が、“山姥切国広”が、かつての主そっくりの、胸糞悪くなる表情をした己自身が――

「必ず守ると誓ったはずだが」

 襖絵の向こう側。自分とよく似た、けれどもいたたまれなくなるほど美しい銀色が、嫌悪を隠さず吐き捨てた。
(見られた)頭が真っ白になって喉が引き攣る。どっと全身から冷や汗が噴き出た。手が震えて、カチャカチャと握り締めた刀が振動する。バクバクと耳元で鳴る心臓が煩い。(主、にも?)血の気が引く。手足の感覚が無い。自然と落ちた視線の先には、つい先程、耐え兼ねて斬り殺した自分自身が横たわっている。
 頭上から、舌打ちが降った。

「もう来るなよ、半端者」



 ――キンッ



 首が落ちると同時に、国広の姿が泡になって掻き消える。
 夢から覚めたのだ。襖絵からどぷりと押し寄せ溢れた波が、わずかに残った痕跡を飲み干して流れていく。
 苦しむ割に、一向に心の折れる気配が無い。まったくもってしぶとい男だ。呆れと感心をないまぜにして嘆息し、骨喰ほねばみは主を写した顔を己のそれへと撫で戻した。
 完全に消え去ったのを見届け、鯰尾なまずおが納刀して唇を尖らせる。

「あーもう、時間無駄にしたぁー。ほんっと何度やっても学ばないな」
「そうでもない。足掻く時間がまた伸びた」
「だから余計ムカつくんだって。こっちは群れ失格の新参斬って回るので忙しいってのに」

 明けとも暮れともつかぬ、やわらかな朱い光が差し込んでくる。
 狭苦しい廊下は襖と共に解けて消え失せ、代わりに現れたのは障子戸の開け放たれた、こじんまりとした和室だ。
 の私室。骨喰と鯰尾にとって、現状、もっともイメージしやすい共同幻想である。
 この場にあって、夢はパッチワークのようなものだ。手繰り寄せて広げた夢は、持ち主が去れば共に消える。群れの仲間でも無いとなれば、内容の誘導も、干渉も容易い。
 軽い足取りで縁側から庭先へと降りていく鯰尾の愚痴に、骨喰は淡泊に「そうか」と頷く。

小夜さよに会ったら伝えておく」
「んや、いーよ。言ってどうなる話でもないだろ。思ってた以上に質が悪くて辟易してるだけ」

 八咫烏は御霊信仰を根源とする御先神だ。
 群体こそがその本質。故にその力の程度も、群れの大きさに比例する。
 小夜左文字さよさもんじが、相模遊郭を主の逗留先として選んだのはこの為だ。風通しが良く、性行為という本能に根差した生の営みが金銭で以てやりとりされていて、犯罪者や社会的弱者が行き着く果ての吹き溜まりでもある。
 神は往々にして複数の側面を持つモノであるが、は戦場に在って群を導く御先鳥――冥府に連なる神としての性質が強い。
 性と暴力は戦にあってワンセットだ。そういう意味で相模遊郭は、彼女の保養地としてうってつけだった。一人でも多く、亡者を駆り集めるのにも。

「安心していい。縋れるなら何でもいい連中を集める必要もそろそろ無くなる」
「あれ、もうそんな経つ?」

 答える代わりに、骨喰は上を指差す。
 そこに広がるのは空ではなく、ボロボロになった木の板だ。赤黒く染まった棺の天蓋。
 あちこち割れ、亀裂の入った板はところどころに大穴が空いており、激しく流れ込む暗い血肉の濁流が、軋む裂け目を押し広げている。

「壊れるのは時間の問題だ」
「みたいだな。ま、あの無駄にしつこい隊長サマはもう一回くらいは来そうだけど」
「かも知れない。ご苦労な事だ」

 ここへ潜ってくるのは、おそらく和泉守の時の事を参考にしての試みだ。
 着眼点は悪くない。けれど、ここは棺の中の世界。今はまだ人間であるの、副葬品の収集箱。
 ここにいるのは骨喰や鯰尾のような、彼女に下った群れだけだ。世界ゆめの所有者であるに会いたいのなら、更に深層まで潜っていく必要がある。
 呪いに苛まれる身でありながら、幾度となくここまでやってくる粘り強さは評価している。しかし、骨喰達に追い払われ続けているあの調子では望み薄だ。己の悪夢ひとつ踏み越えられないようでは、ここより深層へ行ったところで甘露の どくに酔い潰されて、それで終わる。

「そういや、次郎のやつは全然見ないな。骨喰知ってる?」
「俺も見ていない。だが、あいつは御神刀だ。ここより深層にいても不思議じゃない」
「だよなー」

 浅く揺らめく赤黒の庭で、鯰尾が片足立ちでくるりと回る。
 現実の本丸であれば歌仙の手掛けた、繚乱たる花の庭。こちらにあっては陽炎の山稜と、段状になった傾斜が曖昧に揺らぐ地平線を埋めている。
 ちゃぷり、ぱしゃん。地を渦巻き、傾斜を滑って流れる血色にとろけた死肉は、地獄の業火を連想させた。

「の、割にはらしい変化ナシってのがなんとも。ひょっとしたら門前払いの方だったりして」
「そうだな。女心は複雑なものだ」

 うひひと意地悪く笑う鯰尾に、骨喰はしたり顔で同意した。
 跳ねた水滴が次から次へ、濡れ羽色の鯰に変じる。
 朱い光に体表の遊色を踊らせながら、なまめかしくその身をくねらせ、鯰が空を泳いでいく。
 かぷり、かぷりと零れる気泡は花開き、花弁を散らせて燃え朽ちる。

「主、薬研やげんの方も叩き出してくれるといいんだけどなー」
「しないだろう。今のところ、必要性に欠けている」

 どれだけ圧迫して留めようと、どれだけ注ぎ入れようと、生きようとする意志が無ければどうにもならない。
 だから放置されている。薬研も、群れの者達も。
 無駄と思いながらも止めないのは、まず間違いなく、手間を割くのが面倒だからだ。

「必要性。必要性なぁ……」

 嫌そうに呻いて、鯰尾がとびきり渋い顔をした。
 時間が無いから質より量。その方針で動いている群れにとっても、薬研は必要な存在だった。――今のところは。

「はぁーあ。結局、向こうの出方に望みをかけるしかないかー……。どうせ大人しく道連れになるタマでも無いし」
「そうだな。願わくば、主の心を踏み躙るものであって欲しいが」
「お前わりとえげつないよな。そこは未練になってくれればー、とかじゃないんだ?」
「なら聞くが、今更未練がひとつふたつ増えたところで主の生きる意味に足りると思うか」
「はぁい、俺が悪かったでぇす。鯰尾くんの負け」

 死地を踏み越え生きてきた。
 生きて帰る事を最優先にその身を危険に晒してきたが、生きて帰るより遡行軍だった旧友を選んだ時点で優先順位は明白である。
 それでも、本来であればどうにかなった。
 どれだけ軽い未練だろうと、生きてさえいれば重ねていける。いつかは帰れぬ故郷以上に重くなる。

 だというのに、余計な手出しの所為で均衡が崩れた。

 八咫烏と成るべく与えられた試練に魂は錬磨され、霊は業に相応しく歪む。
 選定を受けるだけでは足りず、群れをどれだけ増やしたとしても不十分。が八咫烏として孵る為には、長として、改めて己の群れを下さねばならない――逆に言えばそれまでは、人間の枠に留まっていられるはずだったのだ。薬研の凶行さえ無ければ。

「怒りは瞬発性のある原動力だ。復讐を生きる意味にはできなくとも、激情が生まれてくれれば俺達にも勝ち目はある」

 無理に延命している今の器は、完全に心が戻れば一刻と保つまい。
 消滅か、八咫烏としての新たな生か。どちらに転ぶかはの心ひとつで決まる。
 彼等の為に死んではくれても、生きてはくれないあの人の。
 骨喰はずっと、主のそういうところがどうしようもなく嫌いだった。

「ははっ。史上最悪の貧乏籤だな! 問題は、時間切れまでに主の尾羽を踏んでくれるかどうかか」
「踏む。きっとな」
「自信満々じゃん骨喰」
「主は甘いと思われている」
「つまり?」
「自分に都合のいい思い違いをするという事だ」

 誰かに必要として欲しくて、だからと約束した。
 きっと、彼女は見透かしていた。必要としてくれるのなら誰でも良くて、必要としてくれるのなら何だって良かった骨喰のあさましさを。

『この戦争が終わる前に私が死んだら、出来得る限り迅速に、遺体を政府に引き渡して下さい』

 前任の一件が片付いて間も無い頃の事だった。
 誰が何を言おうと、誰が何をしようとも、必ず果たして欲しいのだと。
 嬉々として了承したのを覚えている。前任の末路と遺されていた呪いを思えば、何とも重要な役目を与えられたものだと浮き立つ心持ちですらあった。約束によって与えられた、骨喰だけの大事な御役目。
 好きになるほど思い知る。何だって良いのならと与えられた“必要”の、無情なまでの冷淡さ。

 骨喰藤四郎ほねばみとうしろうは、誰より主を理解していると自負している。

 理解しているから鯰尾と共に群れへ下った。必要とされ続ける為に何もかもを差し出した。
 交わした約束を守れるほど、己が非情になりきれない事は自覚していたので。

「せいぜい思い知ればいい。何でも許してくれるほど、主は優しくないのだと」

 そうして、主も思い知ってしまえばいいのだ。
 が育てた情も、執着も。彼女が自分で思うより、遥かに面倒なものなのだから。




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