すぐさま忘れてしまう出来事もあれば、何年経っても覚えているような出来事もある。

「死にきれなかった奴の手伝いは、嫌だったな」

 身近なお年寄りに、戦争体験を聞いてみましょう。
 小学生の頃に出された夏休みの宿題に、おじいちゃんが語ってくれた昔話は覚えている出来事の中でも鮮明な方だ。戦争の悲惨な体験談を通して、反戦への気持ちを育てていく事が目的だったのだろう。大きくなってから考えてみれば、一回目におじいちゃんの語ってくれた戦争体験は宿題の趣旨からは大外れに外れていた。

 曰く。三食飯が出て風呂にも入れたのが嬉しかった。
 曰く。甘い菓子は軍隊に入って食べたのが初めてだった。
 曰く。戦友達と煙草を分け合って喫するのは楽しかった。
 曰く。上官からくすねた酒を賭けて博打してたのがバレて折檻喰らった。

 幼い孫娘への配慮もあったのかも知れない。陽気なばかりの戦争体験を書き連ね、当然のように再提出を食らった宿題を前に困り顔でうなっていたおじいちゃんが語ってくれた"らしい"戦争体験は、それひとつきりだった。

「人間ってのは存外しぶとくてな。死んで当然って怪我しても、すぐくたばるとは限らねんだ。運が悪いと、何時間も呻いて、苦しみながら死んでく事になる。……だから、手伝ってやった事が、あった」

 どんな顔をして、どんな態度でその話を、その吐露を聞いていたか。
 昔話は今でもはっきり思い出せるのに、そういう事はもう、少しも記憶には残っていないのだ。
 語るおじいちゃんの表情が、記憶に残っていないのと同じように。

「できた奴だった。あんなところで、あんな風に死んでいいような奴じゃあなかった」

 なのに。

「……ダチだったんだよ」

 一回目の饒舌さが嘘のように、重たい口ぶりだった。
 一回目の楽しそうな、懐かしむような語りとは打って変わった空虚さだった。

「なあんで、おれが生き残ってんだろな……」

 静かに吐き出される自問の寂寞が、おそろしかった事を覚えている。


「バイタルチェックの結果は良好でしたが、腕の状態を加味して、しばらくは経過観察が必要、との事でした。おおよそ一ヶ月程度はこちらに入院していて頂く事になるかと」

 上体を起こしたリクライニングベッドに背を預けたまま、ベッド脇に座って喋るこんさんの話を流し聞く。
 鎮痛剤の影響だろうか。身体中の色んな感覚が鈍くて、起きていてるのに現実感はまるでない。こんさんの話す内容も、半分くらいは脳を上滑りしているような有様だった。
 ちゃんと聞いておいた方がいいのは分かっている。でも、やる気はまるで起きなかった。
 目が覚めれば知らない天井で、キリちゃん先輩も信濃しなのさんもいなくて、寛永ではなくて、ここは未来で。どう言い繕っても審神者失格の行いをしたはずなのに、未だに首は胴と繋がっているままで。生きていて。

 おじいちゃんの言っていた通り。
 本当に、人間というのは嫌になるほどしぶとくできている。

 いっそ頭がイカレてしまっていてくれれば、どれほど面倒が無かった事か。
 視界に嫌でも入ってくる両腕は、生きていた時代より随分と薄いギプスで指先まで固められている。酷い状態だった、と伝えられても、処置される前の状態を覚えていないのだから、果たしてその"酷い"というのがどの程度のものだったのかはピンとこない。そうなのか、という他人事のような感想が浮かぶばかりだ。
 不思議だった。心が、ひどく凪いでいる。穏やかとすら言っていい。
 苦しかったはずだった。痛かったはずだった。悲しかったはずだった。辛かったはずだった。
 だというのに、胸に残っているのはぽっかりとした空白で。その跡地を、あの日の祖父を思い起こさせる温度の寂寞がひゅうひゅう通り抜けていくばかりなのだ。

「後は……そうですね。今回の件についての聴取の申し入れがございますが、いつに致しましょうか。概要は次郎太刀様より報告が済んでおりますが、殿からもお話を伺いたいそうで――
「そっか。ありがとね」

 居残った単語を繋いで返した相槌に、つらつらと流れていたこんさんの声がぷつんと途切れる。
 何か間違えたらしいとその反応に察するも、上滑りして通り過ぎた会話をやり直す気にもなれず。曖昧に笑って「さくっと終わらせちゃお」と、当てずっぽうに言葉を重ねた。

「……宜しいので?」
「うん」
「…………殿が宜しいのでしたら、そのように致しますが……」

 歯切れ悪く言葉を濁し、こんさんがベッドの横に立つ人影の方を伺い見る。
 そこにいるのは知っていた。知っていて、起きてからずっと声をかけなかったし、目を向けようともしなかった。あれだけの裏切りをしておきながら、合わせる顔があるはずもない。
 初期刀よりも歴史修正主義者の肩を持つような間抜け。斬り殺してくれて、別に構わなかったのに。
 ……違うか。それを望むのは、私が逃げたいからってだけだ。選んで。背負った全部を投げ出して。そうして終わらせたはずの今日が、のうのうと続いている現実から。
 何を言われても仕方ないと分かっている。本当なら、こんさんにだって庇ってもらう資格が無い。自分で選んで決めた事だ。結果がどうあれ、私にはその選択の裁定を受ける義務がある。
 分かっている。これは問題の先延ばしだ。ただの逃げだ。次郎じろうさんが何も言おうとしないから、待っていてくれているからこそできているだけの、無駄な足掻きでしかない。分かっている。分かっていて、身体が言う事を聞いてくれないのだから最早笑うしかなかった。今までさんざん修羅場潜ってきた癖にね。
 じんわりと、重苦しい沈黙が室内を圧迫する。私とベッド横との間で視線を往復させたこんさんが、ぱたり、と尻尾でシーツを叩いて人影へと向き直った。

「次郎太刀様。殿も目覚めたのですから、いい加減手入れをお受けになってきては? よもや、殿が完治するまでそのままでいるおつもりですか」

 右から左へ耳を滑っていった音に引きずられ、重かった首が横を向く。
 予想通りと言うべきか。ベッドの横。こんさんの言葉に返事をしようとするそぶりも見せず、そこに黙然と、次郎さんが立っていた。
 あちこちに赤黒いまだら模様のできた装束はボロボロ。いつも綺麗に結い上げられている髪もざんばらで、まるでつい先程、手強い戦場から引き揚げてきたような有様だ。

「、――

 手入れを。
 咄嗟に動かそうとした身体が、鋭い黄玉の双眸に圧されて硬直する。
 能面のような真顔で瞬きもせずこちらを見下ろす大太刀に、胃から違和感が込み上げてきた。ひく、と喉が痙攣する。感覚が薬で鈍らされていなければ、さぞかしひどい吐き気に苛まれていた事だろう。何でもいいから吐いてしまえば解消されるのだろうが、どうやら目覚めるまで点滴生活をしていたらしい身には、吐ける胃液すら無いようだ。半開きになった唇から、益体も無く呼気だけが落ちる。
耳慣れた声音が、いつになく低い温度で「主」と呼ぶ。

「アタシに、刀剣破壊の許可を」

 耳鳴りがする。
 こんさんが、「それは」と何かを言い澱むのに合わせて、ぎいぎい黒板を引っ掻く音が頭の内側に反響する。
 呆然と、瞬きすらも許されず見返す黄玉の眼差しで、冴え冴えとした金色が底光りしている。それが落ちてくる寸前の刃のようで、刀剣男士は人間じゃないんだなあ、という今更認識するまでもない感想が、耳鳴りの合間に浮かんで弾けた。

「…………一応お伺いしますが、どなたの破壊許可でしょうか」
「薬研藤四郎」

 不穏な凪を孕ませた宣告は、本性そのままに怖気がするほど迷いない。
 臓腑が軋む。耳鳴りにも掻き消える事のない次郎さんの言葉は、どうしてか聞き違えようもないくらい鮮明だ。呼吸がつっかえる。視界の端で、こんさんの尻尾がぼわりと膨らむ。

「どうして」

 掠れた女の声が無機質に響く。
 ややあって、それが自分の口から出たものだと気付いた。
 どうして。どうして? ああそうだ。どうして次郎さんは――薬研さんに、そこまで怒っているんだろう。

「アンタをそんなにした。それ以上、何の理由がいる」

 ……。

 …………?

 おかしなことを言う。
 薬研さんの選択は、私と違って正しかった。
 歴史を守る、という使命を第一義とすべき刀剣男士として、為すべき事を成しただけだ。正しく歴史を守った者が責めを負うのは、筋違いというものだろう。いくら常日頃私に甘いにしろ、次郎さんも刀剣男士だ。その辺り、言うまでもなく心得て――……そっか。あの場であった出来事の全容を知ってるの、私以外だと薬研さんだけだからか。

「私は」

 薬研さんは顕現したがらない。
 私以外の誰かに触られるのも好まない。
 他の審神者は勿論、他のどの刀剣男士に話しかけられようと、事態の経緯について説明を求められようと。汚名を被ろうとも沈黙を貫いて、どんな誤解も諾として受け入れるのは分かり切っている。
 成程。黙っていれば今まで通り。口をつぐんでさえいれば、薬研さんが泥を被るだけでこの件は丸く収まるのだろう。

「遡行軍のために自死を選んだ。一緒に殺さなかった事の方が、間違いだよ」

 分かっている。今更、我が身可愛さに沈黙を選ぶような真似はしない。
 私が今の主だからなんだろうけど、最期まで審神者でいさせようとしてくれるなんて薬研さんは随分とまあ義理堅い。遺言状は適時書き直してるから、その後の身の振り方心配する必要ないのは知ってるはずだし。

「……殿。それは――
「あ゛?」

 こんさんの言葉を遮って、深く、低く。
 黒雲を伴って轟く、嵐の気配が肌を掠めて唸りを上げる。
 耳鳴りがする。ぎいぎい鼓膜を貫通して神経を引っ掻く隙間を埋めて、心臓が狂ったように早鐘を鳴らす。
 音が響く。音が鳴る。うるさくてたまらない。耳を塞いでしまいたいのに腕はぴくりとも動かなくて棒きれみたいで目を逸らしたいのに身じろぎもできなくてどうしようもないままで時間は止まってもくれないので次郎さんがみたことのないほどこわいかおをしていて

「正しいとか間違いだとか、そんな理屈で庇えるって? そんな綺麗なお題目で仕方なく、薬研があんな真似したと本気で思ってるのかい! 寝ぼけんのも大概にしな!!」

 おとがうるさい。
 やめて。やめて。やめて。やめて。
 かんがえたくない。かんがえさせないで。やめて。

『駄目だぜ? 主。それは駄目だ』

 鼻先の触れ合う距離で。
 媚びるような、吐き気がするほど甘ったるい声音が囁く。
 やめて。それはいや。それだけはだめ。どうしてひどいことするの。どうしてこんなひどいことするの。
 わたしがわるかったから。わたしがだめだったから。うまくできなかったから。
 ちゃんとするから。ちゃんと死ぬから。死ねるから。そしたらせんぱいだってきっと死んでくれるから――

『そんな人間風情の為に』
「ソイツはね――

 肉を伴った薬研藤四郎の声が、怖気の走るような怒りを孕んで耳を犯す。
 雑音を裂いて轟く次郎太刀の怒鳴り声が、何もかも薙ぎ払う苛烈さでもって鼓膜を殴る。
 無表情だった白皙の美貌が狂相に歪む。足元が爆ぜる。百足が、室内を、私の腕、離れない、信濃さん、笑い声、笑い声、笑い声、笑い声、『そうだ、そうだ! やっぱり、あんたはこうでなきゃ――』笑って笑って笑って笑って笑って笑って嫌だ笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑ってわたしは、笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑ってやめて笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って笑って

 先輩が、私に刺されて、





 死んで




「アンタの手で、あの人間を殺させたかっただけだ!」
「やめて!!」

 死にどころを選ぶ自由すらないなんて。
 そんな現実、知らなくて良かった。

「もうやめて」

「わかってるから」

「ちゃんとわかってるから!」

 女がヒステリックに叫ぶ。
 瀕死の鶏でも、もうちょっとマシな声を出すだろう。叫んだ結果として無様に咳き込み、ベッドの上で身をよじる様は、たぶんぶつ切りにされてのたうつ瀕死のミミズに似ている。乖離して浮遊する思考が、自分のものとは思いたくない醜態に顔を顰めていた。
 こんさんが何かを言っている。身体から生えた何本ものチューブがぐねぐねぐねぐね身を捩る。パチパチ黒白明暗と反復横跳びしながら、赤いミラーボールをトッピングして世界がぐるぐる回っている。

「でてって。きめるから。じぶんできめられるからほっといて」

 耳鳴りがする。笑い声がする。
 耳鳴りがする。金属音がする。
 耳鳴りがする。笑い声がする。
 耳鳴りがする。悲鳴がする。

「ちゃんときめる。きめるから」

 小学生以下なその場しのぎを並べ立てて、女が愚かしく哀願する。
 どれだけ辛くても、苦しくても。自分で選んだ結果の"今"なのだから、背筋を伸ばして一人、立って然るべきだった。選択して、審神者として積み上げてきた全てを投げ出したのだとしても、これまでの出来事が無かった事になりはしない。
 だからせめて、殺してきた命に値する人間であるべきなのに。

「ひとりに、して……」

 それがどうだ、この無様。
 見栄も虚勢も空元気すら品切れで、これじゃあ値する以前、捨て値程度の価値すら無い。
 最悪だった。殺して死なせて生き延びて、何も残っていやしない。
 家に帰りたかった。本当に今もある確証はない。お父さんとお母さんに会いたかった。何事もなく生きているなんて思えない。妹達に会いたかった。人殺しだなんて知られたくない。友達に会いたかった。拒絶されるに決まってた。先輩に会いたかった。私が殺した。誰の献身にも見合わない。最悪だ。叶う事ならずっと、できれば死ぬまで考えないでいたかった。
 前任者、あのろくでなしと何が違う。仕方がなかったと諦めて、正当防衛だからと言い訳して、犠牲にしたものから目を逸らし続けていただけの卑怯者。

『なあんで、おれが生き残ってんだろな……』

 声がする。
 ぽつりと置かれた白いベッドから溢れてくる。

 何も掴めなかった誰かの腕。
 沸いて溺れて蠢く虫。
 ぶよぶよに膨らみ溶けた足。
 灼け燃えて朽ちた骨。
 灰から生じて潰れる肉。
 折れた鋼の欠片。

 顔の無い首。
 顔の無い首。
 顔の無い首。
 顔の無い首。
 顔の無い首。
 顔の無い首。
 顔の無い首。
 顔の無い首。
 顔の無い首。

 ひたひたと、ごうごうと。
 赤黒い、死肉の海が満ちていく。
 赤黒い、灼熱の海が満ちていく。

 女が誘う。

 髪の長い、喪服のような黒いスーツを着たいつかの私が、唇だけで慈悲深く。



 お ま え も ――




 ゴガァッ!!!



 重たい破砕音が爆ぜた。
 引き戻される。

「聞いてたろ。主命だよ、アンタもこっち」

 横倒しになった病室の壁には、いつの間にか大きな窪みができていた。
 放射状のひび割れで飾られた真新しい打痕の黒から、ずるぅり、と百足の下肢をした影が這い出してくる。影の動きに合わせて、ぼたぼたと黒色が滴って床を汚す。ぼたぼた、びちゃびちゃ。悪臭がする。ぼたぼた、びちゃびちゃ。黒色が泥の中で蠢いている。きたならしくてけがらわしい、何とも知れないたくさんの矮小な虫がぐちゅぐちゅにちゃにちゃ――ぶちゅん。
 ふわふわとした何かが、影の下敷きになって潰れたそれらから目線を奪った。
 これだけ見ていろ、と言わんばかりにふわふわが、顔へとぎゅうぎゅう押し付けられる。足音が遠ざかる。気配が遠ざかる。こんさんが声を荒げて吼えた。

「これっだから刀はっ……! ああもう宜しいですか殿、すぐ看護師を呼んで参りますので馬鹿な事は考えず――いいですね、今は何も考えず! 身体を労わる事を最優先にされますよう!」

 ぼふん! と顔面をひと叩きして圧迫感が消え失せる。
 遮るものがなくなった視界には、もう、誰の影も残っていなかった。鼓膜に焼き付けられた耳鳴りが、きぃきぃ、きぃきぃと尾を引いて嗤っている。自分のものではないような身体は浅い呼気に震える半面、泥のように弛緩していて、瞬きすらも億劫だった。

 生きて帰りたかった。
 こんなところで死にたくなかった。
 だから殺した。殺して死なせて生き延びた。

 分かっていた。これは結果だ。
 足掻いて、望み通りに勝ち取ってきただけの、ただの結果。
 分かっている。死ななかったから生きている。死ねなかったから生きている。それだけの話だ。
 だというのに耳介を伝って落とされる女の声が、あの日の寂寞を伴って、空虚な問いを投げかける。

「なんで私、生きてるんだろ……」

 おじいちゃんの自問に昔、なんて返したかと同じ。
 その答えは――どうやったって、出てきそうには無かった。


 ■  ■  ■


「ありえんだろうがッ!!!!!!」

 髭面の男が、ヒステリックに怒鳴って書類をテーブルに叩き付けた。
 政府施設、その一室。上等な一人掛けのソファにめいめい身を沈めるスーツ姿の同席者達を代表するように、榊原は憐れにも身を竦ませる事務官を今にも殴りつけそうな形相で睨み付けながら、唾を飛ばしてがなり立てる。

「あの女は確かに徴兵こそ黎明期だが、時期で言えば末期も末期! 素養にしても平均より少しばかり高い、程度だったはずだぞ! 血筋にしろ数世代遡ったところで凡庸な農民の出! それが、何ら修行を積んだ訳でも無いあのような下賤がっ! "孵る"どころか"神成り"しかけているなどと――!」
「落ち着き給えよ、榊原議員。そうカッカしたところで何が変わる訳でもあるまいに」

 屈辱で身を震わせながら差別的雑言を撒き散らす榊原を、目線も向けずに窘めるのは初老の男、葦名だ。
 枯れ木のようにひょろりと長い体躯を深くソファへ沈み込ませ、書類に並ぶ文字列を睨むその顔は平素通りを取り繕ってはいるものの、声音にはそこはかとない不機嫌さが滲んでいる。
 眼光鋭く葦名を睨み付けるも、多少は頭が冷えたらしい。大きな舌打ちを一つして、榊原が勢いよくソファへと腰を落ち着け直す。
 苛々と不機嫌に葉巻を取り出すのを横目に、同席者の一人が「この報告書だが」と気鬱な様子で口を開いた。

「信憑性はどの程度だ」
雛鴉ひながらすへの調書は心眼持ち同席の上で行っております。政府の調査チームに班並びに次郎太刀の証言、及び本件の事後処理から得られた情報との齟齬は見受けられませんでした。当該歴史修正主義者の前歴も洗いましたが、そちらとの矛盾点もありません。……ですので、はい。概ね事実と思って頂いて差し支えないかと……」
「……………………成程。とんだ凶運だな」

 だんだんと尻すぼみになっていく返答に、各所から呻きとため息が落ちた。

「元々その傾向はありましたがね。……かの尊も、随分と試練がお好きでいらっしゃる」
「ふん。神とは元来荒御魂こそがその本質、意志表示の須らくは祟りだ。過度の寵など障りにしかならん。今更論ずる話でもあるまいよ」

 毒づき、「だからあれをネームドにするのは反対だったのだ」と榊原が忌々しげに紫煙を吐き出す。
 ネームド。それは審神者名を褒章として与えられた、傑出した働きを為した審神者を指す言葉であり、政府にとっての取扱い危険物でもある――というのは、表向きの一面でしかない。
 歴史とは、人間達が共同で紡ぐ織物である。それはこの戦いが終わった後、裏面に埋もれる定めの審神者達の歴史であっても変わりない。
 どの本丸にもそれぞれに歩んだ歴史があり、どの審神者と刀剣男士達にも、それぞれに紡いできた物語がある。
 けれど、審神者達がそうして紡いだ物語を"遡行軍との戦いの歴史"として編纂し直した時、それらが特筆して記録すべき物語であるかどうか、というのはまた別の話だ。
 敵が歴史修正主義者である以上、この戦いの歴史自体を改変される危険性は常に存在している。勝利できても、その勝利が無かったことにされてしまう訳にはいかないのだ。故にこそ、多くの人を動かし、大きな流れを作ってみせたネームド達は期待されている。容易には改変できない強度の"物語"を紡ぐ存在として――真っ先に狙われるに値する特異点であると同時に、歴史修正主義者の根絶されるその日まで、己の紡いだ"物語"を軸に"歴史"を裏付け、保証し続ける守護者として孵る・・事を。

「問題の変異体、処分の日程が決まっていないのはどういう事かね」
「それは、その」
「主従契約の呪を通して雛鳥ちゃんの霊体を侵食してるのよぉ、あのなまくら」

 威圧的な葦名の詰問に、冷や汗を浮かべて目を泳がせる事務官に代わって返答したのは妖艶な美女だ。
 かずらの、ほっそりと嫋やかな片手がゆるりと天井へと伸ばされる。「こぉんな感じでね」そうして鋭利な爪先がこれ見よがしに、見えない何かへ突き立てられた。

「だから下手に処分できないのよねぇ……。主人に噛み付くだなんて、道具の分際であさましいこと」
「しかし、あえて呪を通したという事は雛鴉への害意は無さそうですね。完全に変異したとなれば主は不要のはずですし、主従契約も気分次第でどうとでもできる。外部からの破約ができないようにしたかった……んですかね、これは」
「雛鴉めの精神が健常であれば良かったのだがの。かの尊の影響も考えるとなれば、最悪は――
「やめろやめろ! 本丸位相があるのが何処だと思っている!? 想像するだに怖気が走るわ!」

 老婆の言を遮って、榊原が大げさなほどに顔を歪めて声高に言い散らす。
 かつて刀剣男士より成り、討伐された祟り神・大百足。変異体である薬研藤四郎はその類型である。前例があり、なおかつ怪異討伐にかけては雛鴉以上の実績を持つネームドもいる。処分は困難だろうが、できなくはない。
 問題は、侵食を受けている雛鴉だ。
 魂は、死を潜り抜ける事で位階を上げる。その血筋や生い立ちがどれほど凡庸であろうとも、幾度となく死地を踏み越えて今日まで積み上げてきた業の大きさ、重さは誰にも否定できるものではない。対遡行軍情勢が好転の兆しの無いまま推移しているというのに、ここまで育った、武功でネームドになった人材を失うのは痛手である。可能な限り救出が望ましいが、過日の一件で雛鴉は現在、精神的に不安定極まりない状態にある。心の傷は霊体の傷、魂の傷だ。下手をすれば薬研藤四郎にその気がなくとも浸食が広がり、境目を失う――取り込まれる危険があった。
 かの変異体が次郎太刀によって雛鴉と物理的距離を置かされている事。何より、今のところは大人しく鎮まってくれているのもあって、手を出しあぐねているのが現状である。

「……審神者に刀剣男士は不可分だからと、名に"牙"の文字を加えたのが裏目に出ましたかね」
「生半に依り憑かせ方を知っておった上、依り坐しとしての適性があったのも裏目だの。懐刀として用いるのみならず、斯様な使い方ならさぞ浸食は容易かったであろうて」

 肉体とは器であり軛でもある。動物であれ物であれ、形を持って生まれた以上はその性質に縛られる。
 その軛、縛りから自らを解き放ち、新たな存在へと変生するには、必ず三つの条件を満たす必要がある。
 変生先への適性がある事。再誕する事。そして、再誕に耐え得るだけの霊格を得ている事。雛鴉は"成りかけ"だ。"成った"訳では無い――雛鴉は未だ、人間の軛に縛られている。変異し、神へと成った薬研藤四郎に敵う道理はない。この状態で侵食を受けた場合、本来であれば起きるのは魂の従属。即ち、変異体・薬研藤四郎の眷属化である。
 しかし変異体は、主従契約の呪を通して侵食を行った。従として、己の立ち位置を固定したままにだ。
 強大過ぎる従者は、存在だけで主人の格をも押し上げる。雛鴉が"神成り"しかけているのはこの為だ。それでも政府に焦りが無いのは、雛鴉の霊格が少しでも変異体を上回ったなら、逆に霊体を侵食し返して、神として再誕していただろう事を理解しているからである。

 神とは元来荒御魂こそがその本質、意志表示の須らくは祟りだ。
 強大な神ほど人を解さず、歩み寄る事もない。だから神に成ってもらっては困るのだ。作りたいのはあくまでも歴史の守護者。対話可能な、人のコントロールできる枠に収まった存在なのだから。

「雛鴉嬢の精神面が安定し次第、変異体を引き剥がして処分するしかないだろうね。にしても強要する形での刺殺、更には友の死にゆく様を見せながらとは。……いやはや、改めて刀剣男士の怖ろしさを思い知らされるものだ」

 殺人への忌避感は距離に比例する。特に刺殺距離、互いの顔を見ながらの殺人は、殺される側は元より、殺す側にとっても同じくらいの嫌悪と忌避感を与えるものだ。
 こういう場合、敵を殺さずにすませてしまうのは歴史上珍しくもない。
 それを己が主に、腕を砕き潰してまで強いたのだ。天井を見上げ、まんざら冗談でもない様子で葦名が嘯く。
 雛鴉には著しい判断力の低下、並びに客観性を欠いた自罰傾向が見受けられるが、会話もままならないほど壊れ切っている訳ではない。何より、彼女は殺し慣れている。
 適切なケアを行えば、十分に職務を遂行可能な状態まで復調可能である――専属の管狐は、精神状態のレポートをそのように結んでいた。

「しかし本当に持ち直せるのか、雛鴉は。手間と時間を投じて回復させたところで、寝返られては事だぞ」
「どうでしょうね。寝返るなら普通、殺す前じゃないかとは思いますが」
「これが強制でなかったならな。ネームドでさえなければ記憶消去を命じたところだ。……まったく。これならいっそ――
「死んでくれた方が良かった。……かしらぁ?」

 どろりと粘性の甘さを増した蜜の声が、音にならなかった続きを紡ぐ。
 鋭利な曲線を描いて整えられたかずらの爪が、ソファの肘置きをガツリと叩いた。
 わざとらしく咳払いして、垂れ目の男が「……雛鴉の身柄ですが」とあからさまに話題をずらす。

「こちらもどうしたものでしょうね。安定するまで政府預かり、が理想ではありますが」
「そうさの。本来であれば本丸療養とするが筋ゆえな」

 時の政府において、審神者の入院、というのは想定されていない。
 これは医療の進歩による部分もあるが、それ以上に審神者という職務の特殊性が理由になっている。
 審神者はそれぞれ一つ本丸を持ち、己を主人とする刀剣男士達を顕現する。刀を本性とする彼等の本分は無論、戦いにあるが――それ以外はからっきし、という訳では無いのだ。主の身の回りの世話を焼いたり、言いつけられた所用をこなす事に喜びを見出す刀は、どの本丸でも何振りかはいるものである。病院にいるより本丸にいた方が看護は手厚い。
 加えて、審神者を一ヶ所に集めておく事で遡行軍から襲撃を受けるリスク。審神者の職務が、首から上さえ無事でさえあれば熟せるものである事も加味すれば、自然と選択肢は通院かオンライン診療の二択になってくる。
 政府案件に関わっていたからこそ、雛鴉は特例的に政府の特定機能病院での治療が認められた。しかし、だからといって長期間留め置けば要らぬ詮索、干渉を受けるのはまず間違いない。外部のみならず、内部からもだ。何せネームドについての真意は、時の政府でもごく一部しか知らない極秘事項であるからして。

「我々も新体制に移行したばかりだ、本丸に戻すべきだろうね。だが、刀剣男士にメンタルケアは荷が重いだろう。かずら嬢。担当官はどの程度使えるかご存知かな?」
「てんでダメねぇ。信頼関係を築く以前、挨拶も満足にできていないわぁ」
「……お待ちを、かずら様。ネームドの専属担当官ですよ? 定期報告にそんな話は……」
「そんなのあたくしが知るはずないでしょう。でも、そうねぇ。雛鳥ちゃんと仲良しの猟犬に唸られて尻尾を巻いたのが、言い出せなかったのかも知れないわ?」

 青褪める事務官を鼻先であしらって、小馬鹿にする意図を隠そうともせずかずらが付け足す。
 毒を乗せながらも耳に快い侮蔑に、榊原が大きく舌打ちし、灰皿に葉巻をぐりぐりと押し付けた。

「担当官の挿げ替えは後回しで良かろう。……狐だけでは足りんな。見習い名目で誰か入れるか」
「あの制度は随分と評判が悪いと聞いているがね。雛鴉嬢は腕が使えないのだから、名目は世話役の方が適当ではないかな」
「初期には遡行軍のスパイが紛れていたりと、ずいぶん多難でしたからね……。今や真偽はそっちのけ、暇を持て余した審神者達のいいオモチャだ」

 見習いによる本丸乗っ取りの噂としては、若く美しい政府高官の娘が、呪具を使って身体と話術で巧みに刀剣男士を篭絡、研修最終日に勝利を宣言して審神者を不在本丸送りにする、という辺りが定番だろうか。
 噂の全てが嘘ではない。事実、面白おかしく取沙汰されているような呪具も確かに存在している。残念ながら、まことしやかに語られるほどお手軽でもなければ強力でもないが。

「あれ面白いわよねぇ。雑な絵空事で深刻ぶってるんだもの、笑っちゃうったら!」

 戦いというのは削り合いだ。戦力が多いに越したことはない。
 もし呪具で、敵を寝返らせる事ができるなら? 使うに決まっていた。時の政府はもちろん歴史修正主義者も、である。規制されていない時点で、効果はたかが知れていた。
 そもそも、心は扱いが難しい。呪具を使ったところで無いものを芽生えさせる事はできないし、抱く感情を真逆のそれにもできはしない。仮に変えられたとしても、心はたやすく揺らぐものだ。使うのならば念入りに、相応の手間暇をかけて整えてやる必要がある――かつて政府を襲撃した、三日月宛の呪詛人形へ仕立てられていた小狐丸のように。

「なんにせよ、受け入れさせるなら既に見知った相手の紹介がいいだろうな。となると――
「口利きはしても構わないが、人選についてはお譲りしよう。うちの者達はどうにも繊細さに欠けていけない」

 示し合わせた注視を受け、葦名は両手を上げて悩まし気にかぶりを振った。
 足を組み変えて、かずらが女王の如く鷹揚に微笑む。

「そうねぇ。……失点を取り戻したい子もいるでしょうし、あたくしも右に倣おうかしらぁ」

 静かな動揺が、波紋のように室内を揺らす。
 不安要素は排除しなければならない。変異体の処分は確定事項だ。ただ、それは雛鴉が侵食され、取り込まれる危険を排除した上で――なおかつ処分された変異体の躯を、雛鴉が取り込む危険を排除した上で行わなければならない。
 主従契約の呪は、主側の権限が強くなるよう設定されている。政府が付喪神にあれこれ手を加えた結果の分霊"刀剣男士"とはいえ、人でないものをズブの素人に使役させるのだから当然の措置だ。

 だから必要なのは、雛鴉の精神を可及的速やかに安定させる事。
 そして、薬研藤四郎の処分を心から決意させる事。

 強制では意味が無い。侵食を行う相手が格上である以上、強固な意志が無ければ契約の破棄などできはしない。
 困難ではあるだろう。だが、成し遂げられたとすれば?
 功績をあげる機会に浮き立つ者達を今にも殺しかねない目で睥睨し、榊原が釘を刺す。

「失敗すれば雛鴉は変異体諸共、本丸ごと封印措置だ。それを弁えて、せいぜい使える者を選ぶ事だな」




TOP / NEXT